玄侑宗久のレビュー一覧
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親鸞が思想的に逝ってしまっているという指摘と、法華経と良寛がともに論旨不明という指摘は非常に共感した。
般若心経でクマラジーヴァも玄奘三蔵も漢訳せずに音訳した『panya paramita』『anuttara samyak sambodhi』『gate, gate, para gate, parasan gate, bodhi, svaha』を中村元が逐語和訳したことへの批判はしばしば聞くが、サンスクリットの音ではなく、音読みで『ギャーテー…』って品無く読むだけなら、別に気にしなくても良いのでは?と思っていた(今もそう思っている。)。
が、本書では特に、『bodhi』を完了形で訳した点を批判していた。
この批判は至極真っ当で、たとえサンスクリット原文が完了形だったとしても、般若系経典の趣旨からして適切だと思う。
全力で壁にぶつかった経験の有無を、人物を判断する基準の一つとして使うことにしたい。 -
Posted by ブクログ
「般若」とは理知によらないもう一つの体験的な「知」の様式である。「般若」の捉える「全体性」は、無情に変化しつつ無限の関係性の中にあり、いつだって絶えざる創造の場である。
「般若波羅蜜多」は「知恵の完成」と訳される事が多いが、実践的叡智であることを忘れてないけないだろう。
「般若波羅蜜多」というのは実は特別な呪文なのです。この呪文を唱えるといつのまにか「私」が消え、「いのち」の本体になりきってしまうということですね。
以上、抜き出しでした。
たった262文字の般若心経の解説に本が一冊とは多いのではないか、と思われるだろうが、私には足りないぐらいだった。
「自分」というのは錯覚、とまで感じさせる。すべてが「空(くう)」で物事は「縁起」でつながり単独では存在しない。
結局は自分の感じている苦悩なんて存在しないものだ、と言われると確かにそうなんだけど、と思うのはある。
最後は呪文として覚えましょう。声の響きと一体になって宇宙とつながるのです。
本書を読むとわかるのは玄侑宗久氏の哲学から物理学までに広がる豊富な知識。宗教とは世界観なんだろう。世界観、宇宙から見ると人間なんてちっぽけなものだ。そのちっぽけな自分の苦悩なんて、宇宙から見たら「無」に違いない。と、そこで悩まない自分なれれば「解脱」できた、ということか。
そうそう、先々週はお寺て祈祷をお願いした。私のためだけに、お上人さんに1時間お願いした。さすがに正座をしたが、普通ならあり得ないのに、お経でかつお寺の中にあって正座は出来た。
最後に玄侑宗久氏は高校の先輩であること、しかし私の入学した年に卒業をされていたのですが。 -
Posted by ブクログ
「べらぼうな生活」以来、この方のエッセイは大好き。
最近、本を出すお坊様も増えましたが、こっちのほうが人生の修行積んでると思うのに、若僧の(失礼!)人生論なぞ読む気にはなれないのですが、玄侑宗久氏の砕けたお話は面白い。
禁煙を強いられる話などで、突然、大人気ないとも思われるエキサイトも面白いし。
南極料理人の西村さんに通じるものもあるかなあ~
京都エッセイの入江さんとか・・・
ちょっと毒舌な文章も、悪気はなくて、「きっと、ご本人、面白い人なんだろうな」と思えるようなものは読んでいて楽しい。
いろはかるたをネタに書かれていて、それぞれの文の頭にかるたのイラスト(カット)が入っているのですが、宗久氏とだるまさんをSD化したキャラが描かれていて、ゆるさ加減が良かったです。 -
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主人公の則道と妻の圭子は、おがみやうめさんの死、そして49日を迎えるまでの中陰の期間を通し、夫婦関係を見直していく。2人は流産を経験していた。この出来事をひきずる圭子、彼女は紙縒作りに励んでいたが、これは4週間しか生きられなかった我が子への祈りであり、子を授かりたいという彼女の祈りを表すものであった。その思いを知った則道は我が子とうめさんを成仏を願うため、回向を捧げる。そこで紙縒が舞い上がり、中空に煌めく光景を見て「中陰の花」だとつぶやく。このシーンは圧巻だ。成仏とはすでに個を失った状態をいうので、それが亡くした我が子とうめさんだとは言えないが、則道と圭子にとって「中陰の花」は2人の成仏の「徴」として映ったのではないかと思う。「ある」「ない」では済まさない出来事を、切るのではなく関係づけることによって、救いをもたらしてくれるものが仏教なのかもしれない。