玄侑宗久のレビュー一覧
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「般若」とは理知によらないもう一つの体験的な「知」の様式である。「般若」の捉える「全体性」は、無情に変化しつつ無限の関係性の中にあり、いつだって絶えざる創造の場である。
「般若波羅蜜多」は「知恵の完成」と訳される事が多いが、実践的叡智であることを忘れてないけないだろう。
「般若波羅蜜多」というのは実は特別な呪文なのです。この呪文を唱えるといつのまにか「私」が消え、「いのち」の本体になりきってしまうということですね。
以上、抜き出しでした。
たった262文字の般若心経の解説に本が一冊とは多いのではないか、と思われるだろうが、私には足りないぐらいだった。
「自分」というのは錯覚、とまで感じさせ -
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「べらぼうな生活」以来、この方のエッセイは大好き。
最近、本を出すお坊様も増えましたが、こっちのほうが人生の修行積んでると思うのに、若僧の(失礼!)人生論なぞ読む気にはなれないのですが、玄侑宗久氏の砕けたお話は面白い。
禁煙を強いられる話などで、突然、大人気ないとも思われるエキサイトも面白いし。
南極料理人の西村さんに通じるものもあるかなあ~
京都エッセイの入江さんとか・・・
ちょっと毒舌な文章も、悪気はなくて、「きっと、ご本人、面白い人なんだろうな」と思えるようなものは読んでいて楽しい。
いろはかるたをネタに書かれていて、それぞれの文の頭にかるたのイラスト(カット)が入っているのですが、宗久 -
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仏教の教義を補いながら般若心経をわかりやすく現代の言葉に書き下している。
まず、般若心経がシャーリプトラ(舎利子)という人物に「般若波羅蜜多」に至る方法を説いた説話のような体裁の経典だということを知り、堅苦しいイメージが払拭された。
「現代語訳」では、教義のみに留まらず、現代科学や近代哲学の知見をふまえながら「般若波羅蜜多」への道筋を示していて、まさに現代を生きる私たちに語りかけているようだった。
「かつ消え、かつ結ぶ」といった量子力学での粒子の振る舞いや、概念や因果律の超克という近代思想史における試みが、「般若波羅蜜多」と大いに親近性をもっていることがとても興味深い。
巻末には般若心経の全文 -
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主人公の則道と妻の圭子は、おがみやうめさんの死、そして49日を迎えるまでの中陰の期間を通し、夫婦関係を見直していく。2人は流産を経験していた。この出来事をひきずる圭子、彼女は紙縒作りに励んでいたが、これは4週間しか生きられなかった我が子への祈りであり、子を授かりたいという彼女の祈りを表すものであった。その思いを知った則道は我が子とうめさんを成仏を願うため、回向を捧げる。そこで紙縒が舞い上がり、中空に煌めく光景を見て「中陰の花」だとつぶやく。このシーンは圧巻だ。成仏とはすでに個を失った状態をいうので、それが亡くした我が子とうめさんだとは言えないが、則道と圭子にとって「中陰の花」は2人の成仏の「徴
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二点。ひとつは一元集約型の限界。もうひとつは善意や正義の押し付け。
まず復興について言及しているのは、やはり一元集約型じゃなく、分散して地域の特性に合わせること。これは一概には言えないが、大きくなりすぎた企業や組織もそうあるべきだと思う。もっと小単位でフレキシブルに自律的に動けるほうが、活動密度も濃い。「トップダウンがほしい」「上からの方針がないと」みたいに、いけしゃあしゃあと他責が簡単に許される大組織では先が思いやられる。
また、ボランティアでありがちな「自分は正しい」「良いことをしている」みたいな強すぎる思い。例えば、本来サポートに徹する立場なのに、過去の実績をこねくりまわして「こんな -
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善であり悪である神アブラクサス。それに象徴されるのは善も悪一体化した世界である。最後のライブシーン。主人公の浄念はまさにその一体化を体感する。
このライブシーンはまさに「祭」のよう。
人間は六道を漂うひげのようなもの。「あるがまま」ではなく「ないがまま」である。浄念は躁鬱、分裂病であると自認しているが、それはある意味で自然なことなのか。六道を突き抜けた恍惚の中で浄念が聞いた「おまえはそのままで正しい。」というアブラクサスの啓示。それは彼の存在を肯定するものであろう。ひげのように漂いながらも浄念は確かに生きているのだ。また妻の多恵が「六道の輪廻として浄念の変化を捉えてみよう」とし、自分を見直し、 -
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剛速球の対話が最後までゆるみなく続く。なんだろう、話されている内容を「理解する」というよりは、すごい試合を観戦しているような気分になった。
縦と横を大きなテーマに据えながら、浄土真宗、禅宗、儒教と道教、神道からさらりと西洋哲学やキリスト教にも足を伸ばし、二人の会話はどんどん広がっていくと同時に緊密になっていく。
あとがきで釈先生が「酔っぱらったような気分になった」と書かれていたが、読者もしばしば酔っぱらう。私自身、酔っぱらってしまったクチだが、あえて「この本を誰に薦めたいか?」と聞かれたら、「宗教ってなんやろう、わけわからん」と思っている人に、と応えたい。