玄侑宗久のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
禅語が頭に入りにくく読み進めることが難しい。書かれていることは理解できる、納得する部分は多い。例えば、時間や因果は後から読み込まれているにすぎない(昨日と今日、今日と明日に関係はないこと)こと、知足に関する記述(今!、これ!)はまったく正しいと思う。
われわれは自分と他人を、現状と可能性を比較してしまう。じぶんがあの人のようであったなら、こんなではなくあんなであったなら・・・いろんな可能性に思いを巡らしては苦しくなってしまうけど、可能的にありえたことは既にこうであるという現実には決してかなわない。この”決してさ”、可能性と現実性の溝はとても深い。普段はなかなか気がつくことができないけれど、現実であるということはとても重く、禅はその重さを正確に受け止める技法、そんな気がした。
しかし、こういった話を理解するには禅でなくともよいのかと。西洋哲学はロゴスから攻めていくことで遠回りになったというような記述があったけれど、ロゴスは自分で読んで考えていくことで遠回りであろうが追いつける気がする。この本の内容もこの本で理解したというより、既に理解していたことを再確認したような感じ。この本によって体でわかるところまでは持っていけなかった。
内容には関係ないけど、カタカナの使い方があまり好きになれなかった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレこれだけの人を相手にいろんな知識を披露できる玄侑宗久という人もすごい人だ。
後半は震災後で、震災の話ばかりになる。リアルに感じることができずに少し飽きる。
五木寛之さんの言葉が印象に残る。
『僕は25歳で区切ってね、25歳までが学生期、50歳までが家住期で、50歳以後の林住期が人生のお動く気だという本を書いたんです。最近は自分が67歳になって遊行期に入ったから、75歳から100歳までの遊行期がもっとも高い面白い時期ではないかと我田引水で書きました。
老いに逆らって若さを維持したいというのは、若さに対するコンプレックスや憧憬があるからでしょう。そうじゃなくて、老いはひとつの実りであるというふうに考えたい。
たとえば登山では頂上を目指して、荷物を抱えて必死に登るでしょう。そのときは前しか見ていない。頂上に着いて下山するときは、ちょっと気持ちに余裕があるから、ああ向こうに海が見えるな、足元には高山植物が咲いているな、あそこに雷鳥がいるなというふうに優雅に安全に一歩一歩降りてゆく。これが人生後半の成熟した生き方だろうと思うんですよ。
頂上は登山の半分だと考えるんですよ。安全にふもとにたどり着いてようやく完結する。そこがクライマックスだと思うんです。』
他に・・・
「不変な、変わることのない自我なんていうものは存在しない。自我というのは感性的諸要素の一時的なまとまりにすぎない」-エルンスト・マッハ
「火葬というのはやはり残酷に見えるわけですね。輪廻観というのがはっきりあってこそ焼けると思うんですよ」-玄侑宗久
「道元禅師は、人は三つの心を持たなければいけないというふうにおっしゃるんです。ひとつめが「喜心」。二つめが「老心」、親が子どもを慈悲深く見つめるように見る心。三つめが「大心」、大きな心というのは、おもしろいんですけど、「春声にひかれて春沢に遊ばず、秋色を見るといえども更に秋心なし」という表現があります。昼の、たとえば鳥の鳴き声とかを聞いて心躍る気持ちがあっても、だらかといって春の沢まで出ていってはしゃぎ回ったりはしない。秋の景色に寂しさを感じても、心の中まで寂しくなったりはしない。」
「「自分」という言葉は「自然の分身」という言葉を短縮したんだそうですね。」
「悲しみは悲しむことで乗り越えるんだ。」-本居宣長「石上私淑言」
「状況の数だけ自己がある」-ハリー・スタック・サリヴァン
「君たちの中には一匹ずつ龍がすんでいる。龍は経験を食べて大きくなる。君たちの中の龍が今回の震災の経験で大きくなっているはずだから、その龍をぜひ鍛えて育ててください。」-プータン国王