玄侑宗久のレビュー一覧
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量子力学を調べていくうち、なぜか本書に辿り着いた。
ゴーダマさん凄い。あの時代に弦理論やら超ひもやら相対性理論を悟りで感覚的に理解していた訳だ。シッダールタまじ凄い。
私が今まで日本語を学び、本を読んできたのは般若心経に出逢う為だったのではないかと思うほど。
あまりスピってるとも思われたくないが、真理を志すのは良いことではないか。
いや、そんな事を思っているから実相を空と捉えられないのだ。
名づけのなかで、最も罪深いものが「私」という代物。
考えてみれば、私たちは物心がついたときにはすでに生まれていたわけで。そしてそれまで「私」など関係なく生きていた「いのち」を、あるときから「私」だと思い込んだ。
物心がつき、知恵づき、そしてさまざまな分別を身につけることでそれが肥大化していく。
そうして「いのち」の実相に関係なく、いつからか「私」という名の何者かを中心にモノを見るようになっていった。
当然、「花」のように、実物の「いのち」にはなかった自立性や恒久性が「私」にも付加されることになる。
大胆な言い方をすれば、これこそがあらゆる「苦」の根源かもしれない。
もしも今まで読書をしてこず、あらゆる先人の思想、アイデンティティを学んでいなければ私の知能では一ミリも理解できなかっただろう。本を読むことほど大切なことはないと改めて思う。
色即是空 空即是色
これだ。これ。
宗教に興味はないが、釈迦はヤバい。語彙が乏しくなるほど奴はヤバい。尊敬する。 -
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玄侑宗久『阿修羅』講談社文庫。
不可思議な人間の精神世界の深淵を描いた作品。解離性同一性障害をテーマにした小説の場合、よくあるパターンは犯罪が絡むミステリーやサスペンスなのだが、この作品は両者のパターンには当てはまらない。精神科医が3つの人格を持つ女性の過去のトラウマを突き止め、人格を統合しようとするというストーリーである。が、本作も小説という性格上、単純なハッピーエンドの結末にはならないことだけ付け加えておく。
旅行先のハワイで妻の解離性同一性障害の人格交代に戸惑う夫。
田中美佐子には友美と絵里という3つの人格を持っていた。夫の智彦は突然の友美の出現に驚き、精神科医の杉本宗一郎に助けを求める。杉本は娘の沙也佳と共にハワイまで出向き、田中美佐子の3つの人格と対峙する。過去のトラウマにより3つの人格を持つ美佐子は自らを阿修羅像に重ね合わせていた……
本体価格629円(古本100円)
★★★★ -
Posted by ブクログ
第125回芥川賞受賞作
中陰とはこの世とあの世の中間 と表紙にある。聞き慣れない言葉を解釈したものか。
則道は禅宗の僧侶で 圭子と結婚して6年目になる。子供はいない。一度妊娠したが4週目で流産をした。圭子は今でも少し拘っている。
則道は檀家の行事・葬式や法事を行っていて説法もする。だが大阪の町から来た圭子は仏教に縁がなく育っているので、何かにつけて教えて欲しいと言う。だが、則道はそれに明確な答えをすることが出来ない。
科学が進んだ現代、釈迦の教えを科学的な現象に置き換えて話すことをする。
知り合いで檀家のウメさんはおがみやと呼ばれていて相談者は信者と言うことになっている。
ウメさんが入院して死期を予言した。病院側は総力を挙げて予言どおりには死なないようにと、頑張った。ウメさんは死ななかったが、二度目の予言をして、そのとおり亡くなった。
圭子は地獄や極楽について聞く。
「知らん」
「知らんて、和尚さんやろ。どない言うてはんの、檀家さんに」
「そりゃ、相手しだいや」
「せやけど訊かれるやろ、極楽はあるか、ないかって」
「だがら、相手次第や。信じれば、あるんや。信じなければない」
「そしたら別な訊き方するわ。人は死んだらどうなんの」
「知らん。死んだことない」
則道は、そういいながら、圭子とともに釈迦の教えを現代に置き換えて感じるようになる。
ウメさんの生きかたを近くで見て、予言どおり亡くなった今、信者の生きかた、圭子の感じ方。夫婦の歩みの中に深く沈んでいるなくした子供のこと。則道は圭子の心に寄り添っていく。圭子は作り続けていた膨大な数の紙縒りを網にし、則道はウメさんとなくした子供の回向の経をよむ。かれは天井から釣り下がったこよりの網を通してなにかの気配を感じる。
包装紙の色とりどりにこよられた網は花のようだった。
「成仏やなぁ」
「だれの」
「だれやしらんけど」
僧侶の作者が書いた言葉が浸みることがある。仏教が則道のように通過行事である日常では、彼が感じた日常が意味なく通り過ぎていく。
則道のいう「なんやしらんけど」すこしだけ生きること死ぬことの意味を考えさせてくれる。
則道が言う、「仏」は「ほどける」からきている。という。
この部分を読めば仏教や釈迦の教えに縁のない者にも、わずかに救われる気持がする。
僧侶だと言う人の書いたこの小説はどういうものかと思っていたが、秋の季節の静かさを増すような、しみじみとした余韻が残った。
ほのぼのとした語り口で死生観の一面を見せてくれる。僧侶というよりは一人の人として、その底辺を作っている禅宗という根底の思想の一片を、知ることが出来る。
それぞれの生き方の中にある中陰という言葉の意味も知ることが出来た -
Posted by ブクログ
ネタバレ若干理解が誤っているかもしれないが、
・本来の自分は動物的なもの。
→p.64 本来の自己は傷つきもしないし汚れもしない。しかし作り物の自己は作り物であるが故に傷つき汚れやすい。迷いも、この作り物の自己に特徴的な現象なのだと思う。…禅が否定するのは学習や経験によって形作られた価値判断やスキキライによって、今の出逢いに余計なものが介在することだ。「先入観」なく、出逢えというのである。
煩悩とは…p.119
1.全体視機能(いっしょくたに見ちゃう)
2.還元視機能(細部ばかり気にする)
3.抽象機能(概念に溺れて具体を見ない)
4.定量機能(数えたり計ったりして、もっと欲しがる)
5.因果特定機能(ついご褒美を期待しちゃう)
6.二項対立機能(つい比べちゃう)
風吹けども動ぜず
p.130
日日是好日
晴れの日だけでなく、雨の日でも風の日でも曇りの日でも、独立した瞬間と新鮮な出会いをする。一瞬一瞬が新しく、ありがたい。
禅とは、無理をせず、自分を、自分の感情の変化をも含め突き放して考えることなのかな、と思った。
自己の充足、というか受容の上に、利他や慈悲がある…のかな?
全ては自己の中にある、とはそういうことかしら。
禅は究極の個人主義というくだりもあったような気がする。
自分には合うと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ衝撃的だったし、一度では理解しきれないので、読後即座に二度読み。即座に二度読みは人生初。まだ理解はできていないと思うが。
1.自分が、自分が、、の現代にあって、「「私」をなくすことが幸せ」と説く。
2.今まで常に何かを得よう、勉強しよう、とがんばってきたような気がするけど…
―どうしても私たちは、なにかを学ぶ、知識を得る、という次元で全てを処理するクセがついています。これも大脳皮質の強力な支配体制のなせるワザなのでしょう。本物の「いのち」の上に息苦しい虚構を作っていることに、なかなか気づかない。しかも「得た」と思うのは常に「私」です。タメになった、などと思っているうちはまだまだ「般若波羅蜜多」には程遠いのです。
―智も無く、亦得ることも無い
―般若とは、裸の「いのち」が本来もっている生命力への気づきでもあります。「空」というのは、「私」というものを抜きにした事象の本質的な在り方なのです。それを感じる主体は自他の区別がつかない状態で全体に溶け込んでいます。
3.他に、ただ唱えること、それによって感じること…という節があって、これに関しては、まだよくわからないが。
これだけを妄信してもいけない気がするが、
行きつく先はこれなのだと知っておくと、実に楽になる気がする。私こそが、色んな悩みとか、不安の根源なのだと知っておくと。 -
Posted by ブクログ
資本主義の限界やら、シンギュラリティ(ほんとに来るかどうか分からんけど笑)が話題に登るこの時代だからこそ、意味のある考え方かもしれない。
超俯瞰した視点は実に面白い。
P55「人はただ人間という形に嵌って生まれたことを喜んでいるけれど、今のこの人間の形など、次々に変化して窮まりないものだ。その変化に対処することで得られる楽しみこそ計り知れないものじゃないか」
P58 荘子の妻の死に際し荘子曰く「初めは悲しかったけれど、命というもののそもそもの始まりを考えてみれば、もともとおぼろで捉えどころの無い状態でまじりあっていたわけだ。(中略)その形が変化して生命ができた。それが今また変化して死へと帰って行く。いわば四季のめぐりと同じで、妻は天地という巨きな部屋で安らかに眠ろうとしているんだよ。それが命の道理だし、だから大声をはりあげて哭くのはやめたんだ」
P73 「この「蛙飛びこむ水の音」とは無意識の命の躍動です。鈴木大拙は英語で行った講演の中で、これを "unconscious life impulse" と言っています」
P130 「真人は"寡しきにも逆らわず、盛んなるにも雄らず、水に入るも濡れず、火に入るも熱からず"」「あらゆる思いこみを捨て、全てを複雑で終わりのない流転の一部として楽しめるならそんなことも充分あり得るのではないでしょうか」
P133「訓練による自然の拡張」、果てしない反復という人間的行為によって、ついに人間離れした境地に達する