保阪正康のレビュー一覧
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唯一の被爆国日本も行っていた原爆開発。理論、技術、資源、国力全ての点に於いてアメリカに及ばなかったため、ついに作ることは出来なかったが、それは加害者にならなかっただけであり、その可能性はあったということである。
筆者は原爆開発に携わった科学者たちに対して、そもそも原爆は作れないとわかっていて研究していたと多少好意的に書いてはいるが、陸軍、海軍の要請で開発の研究をしていたことに変わりはなく道義的責任は免れないと思う。
被爆国日本で原爆開発があったことをどれだけの人が知っているだろうか。原爆の悲劇を伝えることと同じように、この事実も合わせて考えるようにしなければ、真の原水爆廃絶は実現しないだろう。 -
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『あの戦争は何だったのか』の保坂氏の本をもっと読みたくて買った。
まず、驚かされるのは、本書は膨大な資料と、取材に基づいている。その意味で、かなり説得力のある書になっている。
太平洋戦争当時、日本も原爆の開発が行われていた。東大の仁科教授を中心に行われていた「二号」研究がその一つだが、本当に原爆が開発できるとは思っていなかった。第二次大戦中に世界中のどこかの国で原爆が開発されるとも思っていなかった。
だから、アメリカが広島に原爆を落としたとき、仁科教授は「負けた」と言っている。アメリカに研究者として負けたという意味だ。
時流に乗り、国から研究費を取り、好奇心を満たすための研究を行うという科学者の姿勢は、その後も変わっていない。
例えば、国策として原発の研究に関わった科学者は、原発が良いものか悪いものかということは考えず、研究を行ったのではないか。その成果を見たいがために、原発の安全神話を作ったのではないか。
科学は絶対ではない。科学者も絶対ではない。
科学信仰はそろそろ捨てて、新たな時代性精神を構築するときだ。 -
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保坂正康氏と姜尚中氏が2011年10月30日に北海道新聞ホールで行った講演会の講演録。
歴史は、記録者の都合の良いように記憶される。
勝利者の記録のみが正しい記録として、後世に伝えられる。
歴史は改ざんされ、記憶はねつ造されるという内容を、第二次世界大戦、広島長崎の原爆から、福島原発事故までを例にとり説明される。
米国では、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマと列挙することにより、意図的な大量殺人と(人災の側面を除いて考えれば)事故である原発事故の区別をつきにくく、そして大量殺人の罪を薄めて考えるように仕向ける傾向がみられる。
両名の講演のあと、学生参加による質疑応答が掲載されているが、そ講演の内容を踏まえたうえで、しっかりした質問をしているのが非常に頼もしい。
と思われせるような質問を選んで掲載しただろうという点を差し引いて考えても。 -
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日本がなぜアメリカとの戦争に踏み切り、そして負けたのかという点について、近代史に造詣の深い6名の方が対談形式で述べる本。「なぜ負けたのか」よりも「なぜ国力に圧倒的な差があったアメリカとの戦争に踏み切ったのか」という点に関する部分には、ちょっときな臭い雰囲気になりつつある今日、考え直す意味は深いと感じます。
対米戦争に限らずほとんどの戦争が「自衛・自存」を大義名分に始められ、ブレーキをかけるはずのメディアも政権や大衆に迎合していく流れであった事などは同じ過ちを繰り返さないためにも知っておくべき事実であると思います。
なぜヒトラーのドイツと同盟を結んだのか、海軍・陸軍エリートはなぜ判断を誤って開戦に向かったのか、開戦以後の戦略は存在したのか、など8つのテーマに分けて議論されています。
物凄く深い議論が展開されているのに、私自身の近代史に関する知識不足で、いまいちよく分からない印象を受ける箇所もありました。でも逆に言うと新書サイズでここまでの内容の本だけにお買い得なのかも。歴史(特に近代史)はちゃんと勉強しないといけませんね。 -
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昭和天皇の御世というのは、結局は、日中戦争から太平洋戦争までの戦争がそのハイライトということだろうか。
保阪氏の手になる昭和天皇実録の解説書の第1巻は「太平洋戦争の時代」と名付けられ、開戦に至る過程と戦争中のことに焦点が当てられている。
本書では、昭和天皇実録の位置付けや執筆者の意図の読み方なども解説されていて興味深かったが、一番印象に残ったのは、「昭和天皇は非戦主義者でも好戦主義者でもない。自らに課した第一の役割は、皇統を守ることにあり、そのために必要とあらば戦争も受けいれると考えてきた。それが昭和天皇の実像ではないだろうか。」という著者の指摘だった。 -
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最近こういう内容の本が多く出ているような気がします。
もしかしたら、自分が好んで選んでいるだけかも
知れませんが。
賊軍。官軍の判別で、昭和の戦争の責任というか悪者を
探す感じ。この本が言いたいのは、官軍(薩摩・長州)
出身の軍人が戦争を初めて、日本を崩壊させ、
賊軍(関東・東北・信越等)出身の人がぎりぎりのところ
で日本を救ったということなのだろうと思いますが。
いくらいろんな、いい方でそういう結論にしているの
ですが、東條は賊軍出身だし、鈴木貫太郎だって
終戦時の首相ですが、開戦時に無責任ではないはず。
山本五十六も長岡だし、石原莞爾も東北。
昭和の戦争の時に、長州・薩摩の人はあまり出てこない
のが事実だと。。。。
そういう意味では、賊軍が初めて、賊軍が終わらせた
ということになるのでは。
であれば、賊軍がルサンチマンとして薩長の明治日本
をたたき壊したということになるのではないかと。
その中でもやはり、石原莞爾氏や今村均氏は面白い
人物だと思います。 -
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昭和史の研究家・半藤・保阪氏などの対談・鼎談集。昭和天皇の幼少期の意外な話から、摂政時代、そして昭和まで。実に豊富な記録が残っているのは歴史解明において有効だと思い、このような記録が発表されたことへの半藤氏たちの喜びが感じられる。一方であまり書かれなかったマッカーサーとの対談への不満も。戦争勃発後、昭和天皇が母・貞明皇太后に叱責されることに気を遣う様子など、昭和天皇の人となりを感じる一方で、軍・政から実権のない立場に祭り上げられ利用された人生への同情も禁じ得ない。「トラトラトラ」、「日本で一番長い日」などの映画を見た記録が残っているのも実に面白い。やはり戦争との関わりを読み解くことが最関心事であるが、1921年に第1次大戦の激戦地ヴェルダンを訪問し、「戦争は実に悲惨」と感想を漏らされたことも。開戦、逆に終戦を決意するまでの詳細な記録、平和を望んでいた方だとは分る一方で、12/8は大元帥として軍服姿でニュースを聞いたなどとエピソード満載。
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マンハッタン計画の元となったウラニウムに関する諮問委員会がアインシュタインの申し出を受けたルーズベルト大統領により作られたのが1939年10月、ドイツがポーランドに侵攻したのが9月1日で第二次大戦は既に始まっていたことになる。ウランに中性子をぶつけると核分裂が起こることが実験的に確認されたのが1938年12月であり、まだ1年も経っておらずルーズベルトがつけた予算はわずか6千ドルだった。
原爆を開発しているドイツに対抗してマンハッタン計画がスタートしたのが1941年12月6日、真珠湾攻撃の前日であった。それから最初の原爆実験が行われた1945年7月16日まではわずか3年半。そして1941年の開戦前の日本には原子物理学の新しいニュースは入ってきており開戦半年後の1942年7月には日本でもウラン爆弾=原爆開発が可能かという検討が始まった。しかしこの時の結論は日本だけでなくアメリカも無理だろうということだった。
軍部が「マッチ箱ひとつで大都市や航空母艦が吹き飛ぶ」新型爆弾に望みを託し始めるのがサイパン陥落後の1944年7月以降でこれは国民の中でも噂として流布したらしい。「神風」は吹かないのだが。ディテールは違うが宇宙戦艦ヤマトの世界だねこれは。
日本の原爆開発計画は先の検討とは矛盾するが1941年4月に陸軍が理研に依頼し「ニ号研究」の仁科芳雄が原理的には可能と言う意味の回答をしたことがきっかけでプロジェクトが発足している。理研の仁科研究室と言えば湯川秀樹、朝永振一郎を始めとする錚々たる研究員を擁する研究者の楽園だった。しかし理論物理学者中心で工学よりでは無い理研に対し原爆製造に最大12万5千人の労働力を突っ込んだアメリカと比べるとその差は余りにも大きく、アメリカにも出来ないと日本の研究者が見誤っていたことになる。
なかなかわかりにくいのだが出来ないと思いつつ研究者としてはアメリカに負けたくないと言う想い、研究者として戦争に勝つためにどう協力するのかと言う想い、また表立っては軍事に協力しながら実際には潤沢な研究費を捻出し理論研究に勤しむなどいくつもの立場が入れ替わりでてきている。ある大学教授は計画に関わり身分が保障された折には「科学で国に奉公できるようになったうれしいことです」と言い、戦後は「科学は平和を愛する人のために有るのです」と立場を変えている。戦後の「原子力でアジアの平和に貢献する」と言う言い分は大東亜共栄圏のレトリックと同じだというのが著者の指摘である。
原爆の悲惨さを眼にした物理学者達が反原爆に傾いたのは当然理解できるが、日本の物理学者達は原爆開発が出来なかったことにより救われたところもあるのだろう。実態としては実験材料のウランもまともな実験装置も用意できずアメリカとの差はどうあがいても埋まらなかったのだが。そして原子力の平和利用を謳いながらもより簡単に原爆の原料となるプルトニウムを原発の稼働で蓄積できると考えた人がいたのもおそらく間違いない。
戦後の原子力利用は科学者ではなく政治家が前面に出て来た。初代科学技術庁長官の正力松太郎は原子力の平和利用によるアジアの繁栄を前面に押しながら初代原子力委員会の湯川秀樹が基礎研究からゆっくりと時間をかけるべきと主張したのに対し、「そんな時間はない、原子炉なんかアメリカから買えばいい、平和利用の技術を日本が独自に研究することなど必要ない」と対立し湯川は委員を辞任した。正力の跡を継いだのが中曽根康弘だ。
戦時下でニ号研究や海軍が京大に委託したF号研究に深く関わった研究者は辞任した湯川など当初を除くと原子力委員会にはほとんどかかわっていない。そして平和利用を推進したはずの原子力村が止めることができなかったのが福島第一事故と言える。
ポツダム宣言を読んだ科学者の中には原爆の完成という明確なメッセージを受け取ったものもいたが軍や政治に対して働きかける力は持たず、予算は確保しても基礎研究から離れず実用化には力を入れなかった。かと言って彼らが戦時中に平和主義者だったとも言えない。消極的な協力姿勢が生んだのが原爆完成による一発逆転への期待でしかなかったとしたら報われない話だ。