冬期休暇のため長くて分厚い本が読める!と、気になっていた日本文学全集シリーズ。
現代語訳のため相当読みやすく、休み前半で読めた。
【井原西鶴「好色一代男」 新訳:島田雅彦】
光源氏、在原業平の流を汲む色好みの世之介さん、幼少のころから60歳までに遊びに遊んだ女3,742人と男725人、使ったお金は現在価格で500億近く。
そんな世之介さんの一代記(まさに一代限り。何も続かない、何も残らない)を
7歳から60歳までを1年ごとに54章で書いたもの。
昔増村保造監督、市川雷蔵主演の映画を見ました。
映画での世之介役の市川雷蔵は実に自由で前向きで明くて良かった!
光源氏や在原業平はいじいじグダグダしていて喝入れたくなったが(学生時代の授業での感想/ちゃんと読んでないから分からんが(笑))、この世之介さんなら一瞬の恋に燃えても楽しそう!と思えるような人物像でした。
そんな世之介さんを期待して、かなりワクワクしながら読み始めたのですが…
井原西鶴の原作もそうなのか新訳でそうしたのか、サクサクサクサク進み過ぎて世之介さんの心情も触れられず。
大店の遊び人と遊女を両親として生まれた世之介さんは、まだ母と添い寝の頃から従姉や女中さん近所のおかみさんたちに色っぽいことを言ってきた。
青年になって自然と遊女や人妻を相手にし、あまりにも度が外れた遊びっぷりに両親から勘当される。
それならばそれで…と、日本全国その日暮らしながらも色事っぷりは増すばかり、坊主修行をするもののすぐ色事に走り、、たまにどこぞの家に婿のように入ったり、たまに子ができても女も子も捨て、旅の尼さんにも坊さんにも手をだして…と、まあこの時代は金も家もなくても遊び倒せたんですね。
映画では勘当されてからは「ここぞ!」とばかりに自由への道を邁進するんだが…、原作では父が亡くなった後母により勘当は解かれて、(現代価格に換算し)500億の遺産を「好きなだけ遊びつくしなさい」と渡される。
そこで吉原、島原、下関など日本全国遊び歩き、名のある遊女と言う遊女は全員身請け、吉原一の花魁を正妻に迎えるが相変わらずの遊びっぷり。
結局60歳になって遊び友達と共に、女たちの腰布で帆を作った船に乗り海へと漕ぎ出しそれっきり。
それなりのいい男で金と時間はあり余り、遊ぶ以外にやることはないとなったらさすがの世之介さんも生きるのがキツくなったんだろうか。
市川雷蔵の映画の世之介さんでいいセリフがいくつかあったので覚えてる範囲で記載。
「(心中計ったが女だけ死んで)わたしもすぐに後を追うぞ!…でも先に三途の川を渡ったかな~今から後を追っても追いつけないかもしれないな~、よし!死ぬのは辞めた!」
⇒この前向きさ(笑)。きっと先に死んだ女性も許してくれるよ。
(映画のラストは役人に追われて逃げるための船出)「この船の帆は今まで出会ったおなごたちのものや!おなごたちの加護がついている、さあ、女護島へ出発や~!」
⇒散々遊び散らしていますが、一人ひとりに本気で誰からも恨まれてない!という自信があるんですね。
現代日本の道徳に同調している私でも「酷い男と酷い人生で添い遂げるより、一瞬でも世之介さんと遊べた方が幸せでは」と思った(笑)
「おなごは鬼と罵れば鬼にもなる、仏と拝めば仏にもなる。それなら仏と拝んだ方がいいではないか、ありがたやありがたや~~~」
⇒これは人間に対する心持の理想ではないか。座右の銘にしたいくらいだが…私が全く実行できていないorz
【上田秋成「雨月物語」新訳:円城塔】
人の執着、無念により、死んだ後にも祟り神、鬼に変化して恨み言を語る。
僧に出会って成仏できるか、恨みの相手を取り殺してどこかへ消えるか…
最初に読んだのは高校生くらい??(もちろん現代語訳)だったと思うのですが、日本の古典としてかなりお気に入りだった。
さらに当時流行った桃尻語訳シリーズかなにかで「作者の上田秋成は、わがままで嫉妬深くて困った男」みたいに紹介されていて、それがさらに雨月物語を興味深く感じていた。
雨月物語では性の直接的描写はないので、高校生当時はそのまま読んでいましたが、
その後大人になってからは「戦場ど真ん中の村に妻を残し都に登る男」なんて、妻が無事なはずなかろう、わかって捨ててるだろうと思うし(実際に溝口健二監督が映画化したものでは、妻は敵兵たちに…、という場面がある)、
「少年に執着する僧」「義兄弟の契りを結び命懸けで約束を果たす男たち」ってやっぱりそういうことじゃないか!と思うし、
文章の裏から浮かぶような性描写があるんですね。
円城塔の作品を読んだことはないのですが、現代語訳版では、怪奇も変化も特別なことではなくごく自然にさらっと記載されています。
もう少し情念を感じさせる文章でも良かったかなあと思う。
【山東京伝「通言総籬(つうしんそうまがき)」新訳:いとうせいこう】
話の筋としては、吉原で遊びに興じて生きたいと思うお坊ちゃまの”えん次郎”が、自宅で準備をして吉原の遊女に会いに行くまで、ということですが、
タイコモチの”北里喜乃介(きたりきのすけ)”や、医者坊主の身なりはしているが実はヤブ医者のタイコモチ”わる井しあん”たちとの軽口やり取りを通して、吉原の名物紹介というガイドブック的側面、そして作者山東京伝の作品宣伝という側面を持っているらしい。
訳者のいとうせいこうは、本文も軽口の応酬を書きつつ訳注を付けまくり楽しく訳している感じです。
なにしろ訳注では「山東先生、この場面筆が乗ってます!」「現代だと○○みたいなもの」な訳者ノリノリ(笑)
この読み物自体全く知らず…
ガイドブックっぽいが、蔦屋重三郎がバックについての本当に宣伝本ということらしい。
まあそういう本のスタイルを確立させて行った過程というような読み物、と言うようなものだろうか。
【為永春水「春色梅児誉美」新訳:島本理生】
吉原でそこそこ名の通じる店の唐琴屋に関わる人たちの人間恋愛模様。
番頭に追い出された元若旦那丹次郎、丹次郎の愛人の芸者米八、丹次郎の婚約者お長、花魁此花、此花の御贔屓藤兵衛、髪結いの小梅のお由…達の間で繰り広げられる恋愛騒動。
「春色…」は全く知らず、島田さんも初めて読んだ(そもそもこの名前、男性?女性?と思いながら読んだが、女性っぽいな)
現代っぽい感覚で訳されていて、米八の口調など「○○じゃん」「さんきゅ」などと思いっきり現代風。
話しの進み方も、章ごとに登場人物の一人称で語られていて、江戸時代にこんな書かれ方したのか??と思ったら現代語訳に際しての改変らしい、洒落た感じがでてた。
しかし行動や口調が思いっきり現代恋愛ものであり、
人の営みは何百年たっても変わらない、江戸時代も今の私たちも同じだと解釈するものなのか、
現代語訳に当たって特に現代の人に感性を合わせた訳し方にしたのか。
私は現代恋愛ものは読みたくないので、途中で「江戸時代の文学を読むつもりが、思いっきり現代ものではないか!!」とちょっと焦ったわ。
色々拗れるのでラストは悲恋か?心中しちゃうか?とこれまた焦ったが大団円だった。
しかも「○○は実は上流武家の隠し子!」とかのビックリ情報明かされまくり(笑)
江戸文学ではこういう「実は○○!」というのが流行っていたらしい。