江川卓のレビュー一覧
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主人公がダサい。あまりにもダサいし、痛々しい。 働きもせず、地下室にこもり、自意識が奇妙に歪み切ってしまった男の手記。他人や社会を見下しながらも、彼はそのくせ、彼らの「生きた生活」に激しく憧れている。だが同時に、その「生きた生活」を恐れ、いざその渦中に置かれるとひどくうろたえ、面倒に思い、何もない地下室の生活へと逃げ戻ろうとする。
彼の行動は、滑稽なほどに歪んでいる。
ある日、道を通るために士官にどかされたことを、彼はひどい屈辱と感じる。復讐のために、街でその男と正面からぶつかっていこうと計画するのだが、いざとなるとビビりまくり、自分から道を譲ってしまう。何回目かのチャレンジで、ようやく肩が少しだけぶつかることに成功すると、彼は有頂天になる。自分が男と対等であることを周囲に証明できたと安心する。――誰もそんなこと、気にも留めていないというのに。
また、自ら疎遠にしていた昔の学友たちの集まりに勝手に参加し、彼らを不愉快にさせた挙句、無視されるエピソードもある。それでもかまってほしくて、彼らの側を行ったり来たり往復するが相手にされない。置いてけぼりにされた彼は、復讐を心に誓って彼らが向かった売春宿へ行くが、見つけることができず、たまたま目に入った売春婦のリーザと寝る。そこで彼は、彼女に「こんな生活はだめだ」と大説教をかまし、ひどく興奮して自分の家の住所を渡してしまう。
後日、彼に救いを求めて彼女が家を訪ねてくる。しかし、彼は自分の惨めで貧乏な私生活を見られたことに狼狽し、彼女を激しく憎む。ついには「自分は善良な人間にはならせてもらえない」と号泣しながら、自分の窮状を暴露してしまう。
ダサい。ダサすぎる。 しかし、この過剰な自意識や、「生きた生活」に憧れながらもそれを面倒に思ったり、見下したりする心理は、笑えないほど見覚えのあるものだった。
「とにかく、ぼくらは、真の『生きた生活』を、ほとんど労役かお勤めとみなすまでになっていて、それぞれ腹の中では、書物式のほうがよほどましだとさえ思っているのだ。」
本で読む人間の生活には愛着がわくし、憧れもする。しかし、自分がいざその渦中に置かれると、ひどく面倒ごとに感じてしまう。
「ぼくらは人間であることをさえわずらわしく思っている。」
多くの人々が当然のように行っていること。就労、勉学、家事全般、育児、結婚、遊び、エトセトラ。これらが耐えられないほど面倒に感じ、傷つくことを恐れて、自分だけの「地下室」に引きこもる。
この物語の最後で、男は一番見下していたリーザの前で取り繕うこともできず、号泣して自分の窮状をぶちまけた。 これは、彼にとっての「救い」ではなかったか。 どんなにダサくても、みじめでも、彼は生身の人間と泥臭くぶつかり、這いずり回ることができたのだ。自意識の殻を破り、「生きた生活」の渦中に、彼は確かに立っていた。 -
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ネタバレ虚栄と真実、羨望と軽蔑を激しく行き来する主人公の心の動きに圧倒された。主人公にはその心の動きを制御できないのに、動いた先の心情は明確に認識できている点が見ていて苦しい。
心情を分析できてしまうと、愛情や友情の基底にある虚偽に目を瞑れない。ある程度虚構を受け入れられないと他人と絆を結ぶことはできないからだ。主人公がズヴェルコフらを前にして3時間も暖炉とテーブルを行き来する姿が象徴的だ。
恋人や友人を求めて奮闘した挙句、それらの欺瞞を見抜くが故に全てを手放し、主人公は孤独な地下室を選ぶ。そこから脱出する術も意思も示されず、悲劇的である。 -
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『カラマーゾフの兄弟』は光文社の亀山郁夫訳で読んでいたけど、別の訳者のものも読みたいなと思っていたところにこちらの中公文庫が発売されたのでずっと気になっていて、やっと読めるタイミングがきたので全巻購入。
この中公文庫では、かなり細かい後記・注解がはいっているのがよかった。
これはこういう意味だとここで教えてもらわないとなんとなくで流し読んでしまう部分も多いかと思うので。
それと、ドストエフスキーの父のことや亡くなってしまった子ども(アリョーシャ)のことなど、元ネタになったと思われる出来事も結構記載されている。
『カラマーゾフの兄弟』は5年おきくらいで再読していることになるけど、やはり何度読んでも面白い!
初めて光文社で読んだときは第一編、第二編あたりがなにがなにやらよくわからず面白いと思えなかったけど、今後の展開や登場人物についてなどがわかっていると最初からずっと面白い。
1巻では登場人物たちのいろいろがわかってくる準備段階といったところだけど、ミーチャvsフョードルやカーチャvsグルーシェンカなど勢いがすごい場面もいくつかある。
カーチャに対するグルーシェンカの悪女ぶりは何度読んでもゾクゾクする。 -
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ネタバレ東浩紀さんのYouTubeの切り抜きでおすすめされていたので読みました、
何度も何度も何度もこれ私じゃんって思った。(当然主人公のような語彙力が無いからだいぶスケールは下がるけど)
だから、こういう自意識過剰すぎて生きづらい人間はいつの時代も居るよなあと思った。
あと、訳者解説の部分の、美しい理想を持っていて、それに伴わない醜い自分を理解していることが絶望的だということを描いている(うろおぼえ)みたいなのも、すごくそう!そうなの!と思った。
パニックのように一瞬で思考が行ったり来たりする描写がリアルすぎて、ドストエフスキーもそういう片鱗があるのかなとも思った。
だから、進歩的な思想とゆーか、人間は合理的な行動をできるし、それを奨励していけば最良な社会が実現する!という考えにはうーん、賛成できないかな〜とも思った…
またドストエフスキーの他の作品も読みたい!
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私にとって、最終巻の主人公はイワンだ。
最終巻を読むまでは、ミーチャの激しい情熱やアリューシャの素朴な聖人さに魅力を感じていたが、最後になって、イワンの印象が強烈に変わった。あの冷徹な理性を持った彼が、「大審問官」の挿話を語った彼が、「神がいないなら、すべては許される」と考えていた彼が、スメルジャコフの殺人を聞きてひどく狼狽し、悪魔にとらわれ、衰弱していくとは驚愕だった。これまで、あれほど知性の強さを誇っていたのに、いざ自分の罪を眼前にすると、あれほど脆くなるとは思わなかった。
彼にとって「神がいないなら、すべては許される」という思想は、あくまで頭の中の仮説だった。しかし、スメルジャコフはその思想を「実行の手引書」として受け取ってしまった。 自分の知的な遊戯が、実父の殺害という「生々しい血と腐臭」を伴う現実として突きつけられた時、彼の強固な論理は一気に決壊したのだろう。実態の伴わない思想は、実行という現実の前には脆い。
スメルジャコフはイワンに向かって、「あなたこそが真の殺人者だ、私はあなたの手先に過ぎない」と言い放つ。イワンにとってスメルジャコフは、自分の中にある「醜悪な本音」を具現化した鏡のような存在になった。あれほど軽蔑していた男が、自分と最も深く繋がっていた。この自己嫌悪は絶望に近かったであろう。
スメルジャコフとの最後の会談の後のイワンの様子の急速な変化は最終巻の白眉だ。彼は、必ず法廷でスメルジャコフの殺人を告発するという決意を固くし、自己満足と歓喜を感じていた。帰り際、酔っぱらって雪の中で眠りこけていた農民を1時間もかけて助けるほどの余裕も見せていた。しかし、家に着くや否や、その自己満足も歓喜も余裕も消え失せ、悪魔との長い対話が始まる。この短い間に彼の中で何がおこったのか。あの自己満足と歓喜は、正気の最後の灯だったのか。
イワンが雪の中の農民を助けたのは、自分自身に対する道徳的なアリバイ作りだったと思われる。直前に「父殺しの教唆」というおぞましい真実を突きつけられた彼は、無意識にその対極にある「人命救済」を行うことで、魂のバランスを取ろうとした。また、「自分は明日、法廷ですべてを告白し、真実を明らかにするのだ」という決意が、彼に一時的な道徳的優越感を与えた。このアリバイと道徳的優越感により、自己満足と歓喜が一時的に訪れた。しかし、イワンが自室に戻ると、この一時的な麻酔が溶け、自分が置かれている地獄のような恐怖の板挟みに陥っていることに気づく。告白すれば、世間に軽蔑され、スメルジャコフと同じ地平にまで堕ちる。黙っていれば、 一生、スメルジャコフの影(共犯意識)に怯えて暮らす。麻酔が切れた瞬間、この板挟みに押し潰されてしまったのだ。
そして、自分自身の醜悪な部分を具現化した悪魔との長い対話がはじまる。悪魔は、「新しい人間は、神の座に立ち、古い道徳や法律を超越することができる、こうして「すべてが許される」」、と会談の最後に言うが、大審問官の挿話を考えたイワンにしては、稚拙な内容に感じる。これまでのイワンが言う「すべては許される」は、人類の苦悩を背負い、神に反旗を翻す言葉だった。しかし、スメルジャコフとの会談を経て現れた「悪魔」が語る「すべては許される」は、あまりに安っぽく、俗悪なスローガンに成り下がってしまった。スメルジャコフの醜悪な実行によって、高邁な思想が、殺人の稚拙な言い訳にまで引き釣り下ろされてしまった。
イワンの結末はあまりにも救いがなく、憐れに思う。法廷で、正気とは思えない言動で、自分とスメルジャコフの犯行を告白したことによって、その告白の内容は真剣に取り上げられず、しかも、彼の愛する女性カチェリーナに憐れまれ、彼女に恥辱を伴う救いの手まで取らせてしまう。さらに、それによって、自分の代わりに訴えられている兄の冤罪を確定させる結果になってしまった。イワンが望まなかった結果がすべて実現してしまった。彼は発狂したが、まだ死んではいない。果たして救われるのだろうか。
この長い物語は、ヨハネ福音書第12章24節の引用からはじまった。
「まことに、まことに汝らに告ぐ。一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、一粒のままにてあらん。されどもし死なば、多くの実をもたらすべし」
長兄ミーチャは冤罪で流刑地に飛ばされ、次兄イワンは発狂し、私生児スメルジャコフは自死した。最後に残ったカラマーゾフ、アリョーシャは子供たちと「カラマーゾフ万歳」と合唱し、物語が終わる。死んで子供たちに新たな実をもたらしたイリューシャとそれを導いたアリョーシャ。(自我を捨てずに)死んでいき何の実ももたらさなかった者(スメルジャコフ)、死に切れない(自我を捨てられない)者(イワン)、死んで子供たちに新たな実をもたらした者(イリューシャ)、それを導いた者(アリョーシャ)。最後に希望的な雰囲気で万歳が唱えられたということは、イワンもいずれ救われるはずだと思う。
「カラマーゾフの兄弟」を初めて読んだのは10年以上も前だった。大審問官の話以外はほとんど忘れてしまったが、深くて暗いという印象だけは頭の片隅にずっと残っていた。以前はただひたすらに暗いという印象だったが、今回10年以上ぶりに読んで、その暗さは豊かな暗さ、人間の深さの表現だったのだと気づいた。それゆえに、この名作は救いでもあるのだと思う。人間は複雑で、豊かで、深いものである。しかし、日々の生活の中で、単純になっていく。単純であると枠にはまりやすくなる。社会に都合の良い枠、他人の欲望に都合の良い枠にはまって、精神の身動きが取れなくなる。この名作は、人間が、自分が、本来複雑で、豊かで、深いものなのだということ、御しがたいものだということを、思い出させてくれる。第3編 第3章「熱い心の告白——詩に託して」でミーチャがアリョーシャに自らの情熱と苦悩を独白する場面での言葉が頭に浮かぶ。
「・・・人間の心は広いよ、あまりに広すぎるくらいだよ、おれは狭めたいくらいだ。・・・」
この名作は、読む者を精神の窒息から救い出してくれる。 -
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一巻を年始から読み始め、約一ヶ月半かけてようやく最後まで読み切りました。
この巻に収められた第四部の中盤以降からが一番おもしろい。
そこにたどり着くまでの長い長い旅路で挫折しなくてよかった…!
一言で言うなら……いや、言えないな。
父殺しができごとの中核にあるにせよ、そこに秘められた思想はあまりにも多様で今の自分には整理できない。
ただ漠然と感じたことは、矛盾や逆説こそが人間であり愛なのだということ。
法的に罰されることよりも、むしろ法から赦されること、逃れることこそが真の罰である。
そして人間は真の罰を求める。少なくともドミートリイは。
自分を罰するために、憎き恋敵に赦しを乞うたカチェリーナ。
そしてそのカチェリーナを赦さないことでカチェリーナに罰を与えない、すなわち真の救いを与えないグルーシェンカ。
そんなグルーシェンカを非難しつつ、だからこそそんな彼女を愛さずにはいられないドミートリイ。
ドミートリイの無実を証言すれば自分にも事件の原因があったと自白することになるとスメルジャコフに脅されながらも証言するイワン。
そしてそのイワンを救うために、ドミートリイを法廷で売ったカチェリーナに感謝するドミートリイ。
ここに直線的な愛はない。
カラマーゾフは「理想の深淵」と「堕落の深淵」の双方をのぞき見ることができる一族だと検事は言うが、その両義性は愛のあり方にもかいま見えるし、実はそれは人間全員に言えることなんじゃないかなあ。
「カラマーゾフ万歳!」の唱和と、博愛の人アリョーシャの旅立ちで閉じられるこの小説は、矛盾と逆説だらけであるがゆえに破滅に向かう愚かさと愛らしさを持った人間の行く末を問うているのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
作品情報
タイトル:罪と罰
著者:フョードル・ドストエフスキー
形式:Audible(7割)+書籍(3割)
かかった時間:約27時間
読みやすさ:★★☆☆☆
罪と罰 (上)/ドストエフスキー, 江川 卓|岩波文庫 - 岩波書店
罪と罰 (中)/ドストエフスキー, 江川 卓|岩波文庫 - 岩波書店
罪と罰 (下)/ドストエフスキー, 江川 卓|岩波文庫 - 岩波書店
Audible版『罪と罰 上 』 | ドストエフスキー | Audible.co.jp
読み方に関する振り返り
Audibleと書籍を併用。Audibleはハードルを下げてくれた一方、登場人物の名前が入り組んでおり、メモが取れないのは痛かった。飛行機や移動時間ではAudibleが便利だったが、重要な場面では文字で読んだ方が頭に残った。
感想
忌憚なく意見を言ってしまうと、長すぎます!(笑)
前半をやっと乗り越えたと思ったら、後半も停滞するところが多く、読むのが大変でした...。正直ドーパミン中毒現代人にとっては苦行。
また、キャラクターで好きになれる人がほとんどいないのも辛いところ。だいたい貧困が影響して、もしくは生来的に性根が曲がっている。また、出てくる女性が現代的なあり方とはかなりかけ離れた、可憐で純潔で弱々しい女性が多く、そこの点も感情移入がしづらかった。
上記のせいで8割ぐらいはイライラしながら読んでいたが、それでも読む価値はあったと思う。主題が「殺人は正義のもとで正当化されうるか?」と言う根源的なものでもあり、復活や救い、愛といったキリスト教のテーマも加えながら、アンサーを返していく様は神聖で神々しく圧倒される。日本の文学と比較して、常に神という絶対的な存在が人間の中にいるので、なんだか悩みのスケールが大きいように感じる。
このように様々なテーマがおり合わさっているわけだが、自分が最も刺さったテーマは「英雄になれない非凡人である''シラミ''はシラミなりに日々どう生きていけるのか」である。この物語にはナポレオン的英雄は一切出てこない。むしろ、英雄譚にすら出てこないモブキャラたち、もっと言うと底辺の人間が多い。非英雄である(そしてなれるわけもない)という現実を受け止め、いかに生きていけるか、そんなことも描かれていたように感じる。このどうにもならない英雄への距離への恨めしさ、やるせなさ、腹立たしさは凡人の私にとって痛いほど頷ける。
ロシア文学のなんとも言えない陰鬱さ、社会の停滞を感じられるのも面白い。目に浮かぶ情景が全部薄暗く影が濃い....。寒いもんね...。しかし、スターターとしてはあまりに重いので、他の作品でも良いと思う。
カラマーゾフの兄弟はこれより長いらしく、今のところもう挑戦したくないという気持ち、、。トルストイの戦争と平和も読みたいが、この鬱々した雰囲気はちょっとなぁと引け目を感じる。。。
感想 ネタバレあり
①圧倒の救済シーン
正直、ほとんどうんざりしていて、楽しめなかった。ある一場面を除いて。
それは、ソーニャに罪を告白するシーンで、救いを受けるシーンだ。
とふいに、ソーニャに対する刺すような怪しい憎悪の念が、思いがけなく彼の心を走り流れた。彼はこの感情にわれながら驚きおびえたように、とつぜん頭を上げて、彼女の顔をひたとみつめた。けれども彼は、自分の上にそそがれている不安げな、悩ましいほど心づかいにみちた彼女の視線に出会った。そこには愛があった。彼の憎悪は幻のごとく消え失せた。あれはそうではなかった。ある一つの感情をほかのものと取り違えたのだ。それはつまり、あの瞬間が来たことを意味したにすぎないのだ。
フョードル・ドストエフスキー(著)、工藤精一郎(訳)『罪と罰』岩波文庫、1955-1957年
これをAudibleで聴いた時、私の目の前にも何か啓示が降りてきたような気がした。文章力天才すぎる。(読み手の方もすごい!)この繊細でドラマチックな表現をズーーーっと続けてるもんだから、冗長に感じるんだろう。でもこのような重要な場面では、最高にこの表現力が際立って、思わずニヤニヤした。
ひたすら3章も選民思想を語ってき、弱者にも注がれるその愛に、主人公にかなり大きな天変地異が起こる瞬間。私も召された気がする。
②貧困は他人への想像力を狭める
この作品では、貧しい人々の体験することを追体験できる点も価値があると思う。そして、彼らがどんな場所に住み、街を人をどのように感じ、そしていかに殺人を決心するのか。彼らが犯罪に手を染めるまでの心の動きまでもうんざりするほど追体験できるのだ。
最近では、若者や外国人による殺人強盗のケースも増えている。どうせ捕まる可能性が高いのに、そこまで大きくない額のために、人まで殺すなんて...と全く不可思議に感じてしまう部分もある。しかし、この本を読むと、貧困というのはいかに他人への想像力を狭めるのかが分かる。
狭い部屋に横たわる。今日食べるご飯もない。お金を借りに物品を渡しに行ったら貶される。遠くに住む母と妹は自分の状況を露知らず、可愛い妹は自分のために男に一生身を捧げる。
こんな状況だったら、誰でも人生が嫌になってしまうだろうし、誰かを尊重するなんてもってのほかだ。(主人公は元々選民思想が強いので、生来全ての人を尊重することはできなかっただろうが)
③奇妙な罪の感じ方
主人公の罪の捉え方は、きわめて独特である。
彼の中には二種類の犯罪がある。第一は社会的に定義される犯罪、第二は自己認知に基づく犯罪である。後者は両親や自分の倫理観との照らし合わせによって判断される。
社会的な犯罪に関して主人公は、「犯罪とは何をしたかではなく、誰がしたかで決まる」と理解している。権力者の行為は犯罪として裁かれず、弱者の行為だけが犯罪とされる。戦勝国の戦争犯罪が不問にされることを例に挙げれば、この発想は十分に理解できる。主人公はこの論理を根拠に、自らの犯罪を正当化しようとした。自分が強者となれば、その行為も正当化されると信じたのである。
しかし、実際には彼は「強者」にはなれなかった。そのため、行為は罪として自分に跳ね返り、彼は後悔することになる。「自分が弱かったから反省せざるを得なかった」という発想は清々しいほどまで正直だが、同時に人間の普遍的な倫理観を欠落させた、どこか空虚な結論でもある。
④なぜここまで自意識が高いのか
主人公に関して特に不可解なのは、彼がなぜこれほどまでに「自分は特別な存在だ」と思い込めたのか、という点である。彼は多少は聡明であるものの、決して天才ではなく、怠惰な一面も見せる。それにもかかわらず、「一度の殺人で得られる金によって偉大な人物になれる」と信じ込めたのはなぜか。
一つの理由は、彼が田舎で育ち、他者との交流をほとんど持たなかったことにあるだろう。優れた人々と出会う機会が少なかったため、相対的に自分を過大評価してしまった可能性がある。狭い世界の中で、自分を「こちら側の人間」、すなわち偉大な存在に近い者だと錯覚していたのではないか。
それにしてもなお、その過剰な自意識の高さは不思議であり、読者に強い違和感を残す。
さいごに
大学生が主人公の本作を同じ大学生の時期に読めたことは貴重な経験だと感じる。太宰治にも通じるが、若さゆえの過剰な思想やロマンチシズムは、老齢になってからでは手に余るように感じる。だからこそ今、この時期に出会えた意味は大きい。読んだ価値は十分にあった。 -
Posted by ブクログ
ドストエフスキーの『地下室の手記』を読み終えた。読んでて気が滅入ったりもしたけど、それも含めてけっこう楽しめた。
俺なりに内容をまとめると、社会に溶け込めない孤独なオヤジが、自分自身と他人とに向けた恨みつらみを代わる代わる書き連ねるだけで一冊終わる本。
主人公である書き手は臆病さと高慢さを兼ね備えた性格の悪い男で、社会とうまくやっていくこができない貧乏な役人。
こういう、性格や色々がズレてるせいで孤独に暮らしてる狂人を主人公とした作品として、俺はやっぱり映画の『タクシードライバー』を連想するんだけど、本作の主人公は『タクシードライバー』のトラヴィスと少し違うところもある。
トラヴィスは「腐った世の中で唯一、まともで正義を背負ってるのは自分一人だ」というような独善性を最後まで掲げて振る舞うけど、本作の地下室のオヤジは、他者を見下す一方で、自分自身の下劣さも同時に強く自覚して、ひっきりなしに自己嫌悪に陥ってる。
このオヤジの言動が、読み手の側からしたら時々滑稽なくらい高慢かつ卑屈で、空回りなことばかり繰り返す無様を目で追いながら、笑っちゃうようや落ち込んじゃうような気持ちになる。
例えばオヤジは、ある夜に盛り場の通路みたいなとこで、自信満々な若い軍人に押しのけられる。軍人は別にオヤジの知り合いでも何でもなく、貧相な身なりの通行人(オヤジ)を、通るのに邪魔だからと乱暴に横に追いやって通っていっただけ。そりゃオヤジじゃなくても、押しのけられた側はムカッとはするだろう。それでも、たったそれだけの3秒の出来事。軍人は振り向きもせずスタスタ歩いていく。人を押しのけたことすら意識してないオラついた若者だと思う。
ところがオヤジは、この3秒の出来事を2年も引きずる。その2年の間に、軍人への復讐の計画を練って恨みの炎を燃やすわけ。復讐と言っても、道で再び会って今度は道を譲らないで踏ん張ってやろうと企むだけの話なんだから、セコくて笑える。2年の間に軍人にこっそり付きまとって、よく通る道を突き止めてタイミングを狙ったり……威厳ある復讐に相応しい服装をするために、わざわざ借金までして新しい外套を揃えたり……。
そんな風に何ともこせこせした、陰気で卑屈な言動の数々のせいで他人とトラブルばっかり起こしている地下室のオヤジの姿を読んで、俺たちは哀れめばいいのか、嘲笑えばいいのか。
あるいは読者によっては、「この醜い無様な狂人こそ、俺の姿だ……」と自認する人もいるんだろう。そういう人は、痛い傷をわざと触ってみるような、マゾ的な自傷の喜びに悶えながらこの本を読み通すのかな……。
書き出しからしてキラーフレーズすぎる。〈僕は病んだ人間だ……僕は意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない男だ。〉小説全体が、この最初の一行をまるまる一冊分まで拡大しただけみたいなものだと思う。
なんだか「臭いと分かってるものの臭いをわざと嗅いでみたくなる」みたいな感じで、不思議な吸引力を持っていたので結局最後まで読んじゃった。明るいところがひとつもない悲惨な小説だった。
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Posted by ブクログ
第一編から第二編の中盤までは、正直読むのがつらいくらい退屈だったけど、第二編の「大審問官」以降グイグイ引き込まれました。
人物の造形を読者に伝えるためなのか、最初のほうはとにかく無軌道なおしゃべりが延々と続き、ストーリーもないので苦しい…。
でも、「大審問官」からはおしゃべりも理路がわかりやすくなってきて、ストーリーも動き始める。
作中屈指の名場面と言われる「大審問官」はもはや物語というより聖書の考察ですね。
キリスト教において標榜される自由とは何かが、単なる個人の経験ではなく、聖書の読み込みと解釈から考えられている。
聖書やキリスト教に内在する逆説を暴き出していくという点で、脱構築的手法を用いた批評の文章を読んでいるようでおもしろかったです。
ゾシマ長老の遺言もすごい。
遺言に至るまでのところでも、他の人物のおしゃべりが聞くに耐えないものであるのに対して、この長老のおしゃべりだけはスカッと頭に入ってくる。
会話文の性質だけでここまで人物の特徴を書き分けられるドストエフスキー恐るべしだなと思いました。
ここからさらに物語が動いていくようなので三巻からが楽しみ! -
Posted by ブクログ
第2巻を読み終え、主人公アリョーシャに対する印象が劇的に変化した。第1巻における彼は、周囲が強欲の怪物ばかりであったがゆえに、相対的に「若くして完成された聖人」のように見えていた。しかし今巻では、「中途半端な人物」という印象になった。兄に侮辱されたスネギリョフに恥辱を忘れる代わりにお金を無心する、という浅慮に手を貸してしまったり、恋愛経験などなさそうなのに、カチェリーナに、本当はイワンが好きなのだと言ってみたり、どこか浅くて半端な行動をとっている。そういえば、物語のまえがきに、アリューシャは「明確さを欠いた活動家」と作者が言っていた。
スネギリョフがアリョーシャの提案を拒絶する場面は、今巻の白眉だ。貧困のどん底にある家族を救える大金を前に、彼は一瞬、希望に突き動かされそうになる。しかし、父の恥辱を雪ごうとする息子の思いを想起し、彼はそれを拒絶する。金を握りつぶし、地面に叩きつけ、踏みにじる。誘惑を退け、名誉を選び取った誇らしさと、同時に、家族を救う唯一の機会を自ら断ち切ってしまったことへの絶望。その二つの感情に引き裂かれ、歪んだ顔で泣く彼の姿には、「生きた人間」の厚みがある。ドストエフスキーの描く人間は、単なるキャラクターではなく、血を通わせた存在としてそこにいる。
言わずとしれた「大審問官」の章。ここで突きつけられるのは、「人間に自由は必要なのか」という根源的な問いだ。キリスト教において、自由意志によって神を信じることは至上の命題とされる。聖書の言葉に従い、神に服従することが真の自由へと繋がるという「牧人思想」。この自由と服従という一見矛盾する論理が、うまく理解できない。なぜ神は自由を人間に与えたのか。老審問官の言う通り、盲信させておけば、自由の不安は存在しない。自由意志によって、神を信じることが、キリスト教において、いかほどに重要なことなのか。自由は理念だが、その結果と責任は現実だ。結局のところ、理念というものはどこまで行っても「それが正しい」と信じ続けるしかないのだろうか。近代社会は、信じる対象を「神」から「自由」や「平等」といった抽象的な理念にすり替えただけではないのか。この対話の直後、ゾシマ長老が死に、その死体から腐臭が漂うという「奇跡の不在」が描かれる。民衆は失望し、不信に陥る。この冷酷な現実は、老審問官の正しさを証明しているようにも見えてしまう。
大審問官の話をアリョーシャにした後の、スメルジャコフとイワンの不気味な会話の場面も強く印象に残っている。別れ際のイワンの笑いは何だったのか。「そのとき彼の顔を一見したものならだれしも、彼が笑ったのは決して愉快だったためではないと、確実に結論を下したであろう。それに彼自身にしても、その瞬間彼の心に何がおこったのかは、とうてい説明できなかったにちがいない。」あまり目立たない場面だが、こういう多重の意味がありそうな描写が好きだ。
また、語られるゾシマ長老の生涯は、既存のキリスト教的枠組みからは少し浮いているようにも感じられる。自然を崇拝していた兄の死、決闘直前の唐突な回心、過去に殺人を犯した男との、鬼気迫る接触の記録。
読み進めるうちに、キリスト教的思考には、因果関係の追及をある地点で強制的に停止させてしまう装置があるように思えてきた。「なぜか」と問うていくと、最後には「神のなすことは人知を超えており、理解不能である」ということに行きついてしまうような気がする。 -
Posted by ブクログ
15年ぶりの再会。あの過剰な語りをまた経験したくなり、本を開いた。過剰な語りは過剰な感情と行動を伴い、有無を言わさぬ力で、読者を物語の世界へと深く引きずり込む。
色々と過剰で、化け物のような人々。このような人間がいるのかと思えるほど、感情と行動の起伏が激しい。今巻は特に、カラマーゾフ3兄弟の父親フォードルと長兄ドミートリィが目立つ。序盤の山場は、ゾシマ長老との会食での大立ち回り。強欲で好色なフョードルは、自ら道化のような役回りを演じる。自分でこしらえた感情を自分で真に受けて感動するもんだから、どこまで本気で、どこからが演技か境目が無くなってしまう。その結果、彼の人物像は、凡庸な理解が及ばない、恐るべき化け物感を増大させる。
化け物具合は長兄ドミートリィも引きをとらない。上官の令嬢カチェリーナを、親の借金のために自分に身売りさせようと仕向け、いざ彼女が自分のものとにやってくると急に話を冗談にしようとしたくなったが、それを我慢し、金を渡した。直後、歓喜のために自殺しようとするが思いとどまる。令嬢に身売りさせても、彼女と結婚することはなく、娼婦の女と結婚しようとし、同じくその娼婦に目を付けた父親と争い、父を床にたたきつけ、顔を何度も蹴飛ばした。もはや理性的な理解は及ばない。
しかし、この常軌を逸した過剰さが、私を強く惹きつける。過剰への憧れが、自分の中にある。