江川卓のレビュー一覧
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本書の魅力は、登場人物がそれぞれ強烈な特徴を持っていることです。
特にラスコーリニコフは、自らの考えを正しいと信じ、最後まで変わることがありません。自首し投獄される中でも道徳的な罪というものを認めることができずに葛藤します。自分を非凡な人間だと信じる自尊心が強く、高慢で不信心な若者が、人を殺めたときにどう感じるのか、生生しい苦悩の描写に引き込まれました。
ラスコーリニコフがソーニャを罪人だと責める理由が最初分かりませんでした。ソーニャが自分の人生を生きないから、つまり偉大な人生を貪欲に求める彼の思想と正反対だからだと読み終わった後に思いました。
エピローグの結末は個人的に好きです。
時を経ても変わらない面白さを感じることができるまさに名著です。 -
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ネタバレFeBeで聴書
主人公の心の動きを整理してみました。
家族の訪問にて家族との再会に喜ぶも同時に拒絶する。
ソーニャの訪問にてソーニャに惹かれる。
ポルフィーリーのもとへ時計を取り返しに行くと称して偵察に行く。ラズミーヒンを騙す狡猾さが見られる。
スビトリガイロフの訪問に驚く、幽霊の話に自分の経験と重なりあっけにとられる。
ルージンと妹の縁談の破談。家族と絶縁する。罪人としての意識と決心が読み取れる。
ソーニャに会いに行く。彼女を自分と同じ罪人とし、一緒にいるべきだと考える。
警察署にてポルフィーリーと面会する。自白に行くのかと思いきや、ポルフィーリー見抜かれないように振る舞う。手の内を暴こうと心理戦を繰り広げる。
上巻はほとんど主人公について語られていましたが、中巻では家族や友人、その他の登場人物が多く登場し物語が豊かになってきます。さらに面白くなってきました。 -
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ネタバレFeBeで聴書
主人公の心の動きを整理してみました。
ある計画が頭に浮かんでいるが、現実味がなく感じている。
マルメラードフとの出会い。自分の惨めな境遇と重なって、彼に共感する。人間どこかに居場所がなくっちゃいけない。
母からの手紙。彼の人柄が分かる。妹想いの兄であること。事の一切を見抜く鋭い利口さがある。ひねくれている。
衝動的に行った外出。偶然に絶好の機会が訪れ、計画の実行を決心する。
計画の決行。精細さを欠いた、行き当たりばったりの行動から決心しつつも、自分の中で受け入れられていないことが分かる。そして、自らが事を起こす前に想像していたにも関わらず、気が動転しこらえきれなくなる。
その後は、自らの行いを受け止められない。
病気になり、証拠を隠滅する。
それでも、罪の意識が彼の心を蝕み、自首、自殺の寸前まで行った。
マルメラードフの死に直面する。彼を救おうとすることで主人公の本来の良心が蘇る?もしくは彼の娘から感謝されることで救われる。
貧しさからすっかり心がやせ細った人間の起こす、人の矮小さ、心の葛藤が描かれていて面白いです。
続編が楽しみです。 -
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ちょっと前に「白痴」も読んだが、ドストエフスキーって長編作家として欠点有り過ぎだと思う。
海堂尊さんは同日に同時並行に起こる事件をデビュー作として書いたが、編集者の助言で「チームバチスタ」「ナイチンゲール」の2作に書き直したという。僕が編集者だったら、この作品をステバン氏、ピョートル、ニコライが主人公の3作に書き直させるな。
終盤のステバン氏の再登場。ロシアの大衆を愛すると云いつつ、世間知らずで、まったく大衆を知らない。知と美に殉じ、変な拘りで自分を追い込んでいく。しかし、ドストエフスキーは愛情をもって、このピエロ的人物を描いている。
その息子、ピョートルは頭に穴が開いたよう軽薄な人間。その仲間たちの中で披露されるシガリョフの説は、平等を齎すため人々を原始的な天真爛漫な家畜に作り替えるべきという。まるで毛沢東やポル・ポトを予言しているようだ。ピョートル以下の破壊分子達はロシアの改革に理想を見ていない。ただ、破壊を目指している。
平然と転向者の汚名を着せた人間を殺害し、その罪を自殺願望者に押し付けるピョートルは人間的な感情を失っている。
最後に未完の稿として収録されたニコライ・スタヴローギンの告白がなかったら、彼は単なる奇妙な登場人物であったろう。人々を、女性を、陰謀家のピョートルまで惹きつける魅力のある人間なのに、周囲を破滅させ、平然と罪を犯す。何故こんな人間が出来上がったのかと考えれば、高等遊民でロシアの地に根を張らないデラシネであったこと。そして、やはり当時の無神論の所為だと思う。
チホンとの対話の中で黙示録が引用されて、「白痴」にも黙示録を購読する無神論者が登場していたことを思い出す。しかし、僕はロシア正教にも黙示録にも不案内なので、首を捻るばかり。社会主義が神への信仰の問題と語られるのは日本人には理解しがたいと思う。
ピョートルが知事夫人に取り入って、大イベントの裏で陰謀をめぐらす茶番劇はあまり感心しなかった。
この顛末は、頭が悪く立場をわきまえない首相夫人が、かなり低能なペテン師にいい様に乗せられていたことを想い出させた。本当、くだらない茶番だ。
カバーの裏表紙に「組織を背後から動かす悪魔的超人スタヴローギン」とある。
新潮文庫とあろうものが、何だ、この出鱈目は。 -
Posted by ブクログ
いわゆる、ドストエフスキーの五大長編と呼ばれている小説の中で、
僕が読む一番最後の作品がこの『悪霊』でした。
最初に『罪と罰』を読んで、つづいて『白痴』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』と
読んでいったのでした。
けっこう、読んだ作品の間の期間が長いのですが、
読むたびに深く作品に入り込めていけているような気がしています。
『罪と罰』よりも『白痴』のほうが作品の理解度が高くなった、というような気がする。
それだけ、ドストエフスキーになれてくるのでしょうね、そのうち何年かして再読したら
もっとよく読めそうな気もします。
こんなことを書いていると、読んだことのない人は、きっと難解なのだろうと
推測してしまうと思うのですが、ドストエフスキーの場合は、
その重厚感に疲れる手合いの小説でしょうか。
たしかに、意味が取れない難しい思想を披瀝する会話文などが出ては来るのですが、
大体においては、やさしい文章が積み重なって、物語の多義性というか、多角的なスケッチの仕方というか、
伏線をたくさんこしらえ、それらが本流に合流していくという形がとられているんじゃないでしょうか。
そして、キャラクターの性格の、文章中での構築の仕方も、無駄がないように思います。
かといって、文章も構成もカツカツしていないですね。
非常にゆとりをもちながらも、そんなあれやこれやを包括してしまう才能を
ドストエフスキーは持っていて、きちんと作品を完結させます。
まぁ、カツカツしていない、きゅうきゅうとしていない、といって、何と比べてそうなのかって話になりますが、
現代の小説と比べてになるのかなぁ。それだけ、五大長編は1作品で2冊とか3冊とかで編まれていますから、
分量のせいでそう感じるのかもしれません。
また、ドストエフスキーの作品は現代の予言書とも形容されることがあるらしいです。
すなわち、いたって現代的なテーマを取り扱っていて、現代的に出来ている。
19世紀の世から彼の作品をリアルタイムに見ていた人々は、
随分新しいものだ、と捉えていたのかなぁとも思います。
しかし、その現代的である彼の小説の背景、つまり産業革命は起こっていても、
まだ近代化していない時代という、なにかそこのところが大時代的と言っても良いようなゆとりを
もたらしていて、カツカツとしていない要素をちょっと感じさせるんじゃないのかなと思うのです。
とはいえ、混沌期の不安定感はありますが。
『悪霊』について言えば、道化が何人か出てきますし、またこれがうまく書かれていて、ドストエフスキーの
性格の悪さというかユーモアを感じさせずにはいられませんでした。
そして、1300ページくらいある中で、最後の300ページくらいは目を離せない展開なのですが、
それまでの前置きとでもいえる部分には読むのに忍耐が必要でした。
それは僕の読解力や想像力が至らないだとか、本当の読書好きじゃないだとか理由は出てきます。
だけれど、普通の本好きとしては、やや読むのが面倒くさいです。
さて、その最後の300ページですが、その展開とそれまでの流れからくる計算を考えてみると、
ドストエフスキーは本当に酸いも甘いも噛み分けた、
悪党であり識者であり才人であり愚か者だなぁという感想を持ちました。
愚か者だっていうのは、小説に出てくる愚かな人物にすごく血が通っているから
これは彼の分身じゃないのかと思うせいもありますし、
登場人物を苦しめすぎだという気もするからです。
ただ、後者の、登場人物を苦しめすぎだ、という感想は的外れなのはわかっています。
そうでもしないと、表現できないことというのがあるからですよね。
それにしても、主人公のニコライ・スタヴローギンはどれだけイケメンだったんだろう。
これだけの色男で悪漢っていうのはなかなかいませんよね、創作の中の男だとしても。
逆に、ファム・ファタールなんて呼ばれる、魔性の女はわんさかいませんか。
女ってやつぁ…。そしてそれにひっかかる男ってやつぁ…。
ん。なんで、魔性の女にひっかかる男っていうのはちょっと哀れだけど愚かな感じがして、
スタヴローギンにひっかかる女はすごく哀れで可哀相なんだろう。
女ってものの一途さがそう感じさせるんですかねぇ。
この作品のテーマの一つに、無神論がありますが、
現代ではそれが当たり前になってしまいました。
とくに、日本では、ほぼ無神論だったりしないでしょうか。
19世紀のロシアでは、無神論の世界こそ退廃であり終わりであるみたいな
捉え方をしているところがありますが、
それだけ、人間という存在は神様抜きでは暴走して破滅するであろうことを
自覚しているといえるでしょう。
はたして、現代の無神論の世で、神様の代わりに秩序を繋ぎとめられる存在というのは、
なんなんでしょうね。法律、愛。ぱっと思いつくのはそういうところかな。
そういえば、人間の脳には電気で刺激すると神様を思い浮かべる部位があるそうです。
神様を信じたり、その存在を考えたり、祈ったり、そういう行為は遺伝子にすら記載され
設計されているものなんですかね。
人間の人格の安定のためには、神様が必要なのかもしれない。