江川卓のレビュー一覧

  • 悪霊(下)

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    下巻では、シュピグーリン工場の連中が起こした火事を契機に、物語が一気に加速する。
    ピョートルを中心とする《五人組》と呼ばれる組織がロシアの転覆を企てている。
    それを背後で動かしているのはスタヴローギンなのか?
    その人間像は僕には最後までわからなかったが、彼が自殺したときの衝撃は忘れないだろうと思う。
    『カラマーゾフの兄弟』よりもはるかに重く、難解な小説である。

    「リャムシンさん、お願いだからやめてください、あなたががんがんやるものだから、何も聞きとれやしない」びっこの教師が言った
    …
    リャムシンが席を蹴った。「だいたいもう弾きたくなんかない!私はお客に来たので、ピアノをぼんぼんやりに来たんじゃありませんからね!」
    (下巻115ページ)
    ここおもしろいです。

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    2020年05月28日
  • 悪霊(上)

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    これまでに何冊か読んだドストエフスキーの小説の中で、最も難解な作品。
    主人公はステパン・トロフィーモヴィチではなく、ニコライ・スタブローギンだとわかるまでに時間がかかった。
    上巻のクライマックスは、ニコライとガガーノフの決闘であろうか。

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    2020年05月28日
  • 罪と罰 下

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    19世紀ロシアの小説家ドストエフスキー(1821-1881)後期の長編小説、1866年。

    一般的には、実存思想の先駆とも云われ、思想小説と見做される。しかし、主人公ラスコーリニコフが殺人に到るまでの心理描写や、予審判事ポルフィーリイとの論争場面、さらに終盤のスヴィドリガイロフとドゥーニャとの緊迫したやりとりなどには、推理小説さながらの迫力と戦慄が感じられる。さらに、都会の貧苦に喘ぐ人々を描いた社会小説とみることも可能であろうし、エピローグに於けるラスコーリニコフとソーニャの姿は深遠な愛の物語ともなる。ドストエフスキーの作品には、小説という文学形式の多様な相貌が詰まっているように感じる。ときに難解と云われながらなお読む者を惹きつける所以の一つではないか。

    ドストエフスキーの作品に対する個人的な印象として、冗長なまでのお喋りと偏執的なまでのリアリズム的描写と、この二つの過剰さがある。そこから、ドストエフスキーに独特の息苦しさを感じてしまうことがある。本作品でもそれは変わらない。文章を長く引き延ばして少しでも高い原稿料を得るためにそうしたのだという話も聞いたことがあるが、そうした彼の文体と小説の思想内容との間に何か関連が在るのか無いのか、興味がある。

    ○「青年」像の現代性

    ときに「現代の預言書」とも称されるほどにドストエフスキーの小説が帯びているとされる現代性は、この長編小説の冒頭に既に現れているように思う。或る暑い日暮れのペテルブルク、登場したラスコーリニコフは、不安・不穏・不機嫌・自意識を重苦しく抱える現代の青年の姿であった。観念的で独善的で極端に走りやすく、自尊心が強く他者を見下し、疑心暗鬼と神経症に苛まれ、内省的で没社会的で都会の孤独の裡にありながら、内面に於いて過剰な自意識が世界との闘争を演じている、そんな青年は、我々自身であるところのあの病的な自己意識の姿は、ドストエフスキー以前の文学作品には登場していないように思う。大袈裟に云えば、世界文学史上の画期ではないか。第一部冒頭のラスコーリニコフの姿は、現代における一つの典型的な青年の登場であると感じられた。

    こうした都会の孤独な青年の内面が、人間存在に於ける機制としての「実存」という在り方を、ひとつの時代精神として、云わば作りだしていく invent していくことになったのではないか。

    「大学時代のラスコーリニコフには、ほとんど友人というものがなかった。みなを避けていて、だれを訪ねるでもなく、だれの訪問を受けるのもきらっていた。もっとも、みなのほうでもすぐと彼には背を背けた。学内の集会にも、学生仲間の雑談や気晴らしにも、彼はなぜかいっさい加わろうとはしなかった。勉強は骨身を惜しまずするほうで、そのことでみなの尊敬を受けていたが、だれも彼を好こうとはしなかった。彼はひどく貧乏なうえに、妙に人を見下したような、つきあいにくいところがあり、何か自分だけの秘密でも持っているふうだった。一部の友人たちの目には、彼がみなを子どもあつかいにして、知能も、知識も、思想も、自分が一段上だといわんばかりにお高くとまり、ほかのものの思想や関心を何か低級なものと見ているように映った」

    「……陰気で、気むずかしくて、傲慢で、気位の高い男……疑り深くなって、ヒポコンデリー[自分は病気に罹っていると思い込む不安障害の一種]気味……自分の感情を人に話すのが嫌い……ただ冷淡で、人間らしさが感じられないほど無感動になる……まるで相反したふたつの性格が交互に現れて来るみたい……いつも暇がない、邪魔をするな、と言うのが口癖のくせに、その実は、ごろごろしてばかりいて何もしない。皮肉は言わないけれど、それも機知が欠けているからじゃなくて、そんなくだらんことにつぶす時間の持ちあわせはないといったふう……人の言うことは半分までしか聞かない……その時点でみなが関心を持つことには背を向けてしまう……」

    ○罪/罰

    「罪」とは何か。原語は преступление 、「越える」を意味する接頭辞 пре (英語の ex-, over-, super- )と「歩む・踏む」を意味する動詞 ступить(英語の step )との合成語であるという。則ち、神の掟や共同体の法を「踏み越える」ということ、それが「罪」であると。物語の冒頭、貧しく酒に溺れた小官吏マルメラードフが云う。「わかりますか、あなた、わかりますか、このもうどこへも行き場がないということが?……だって、人間、せめてどこかへ行き場がなくちゃいけませんからな」。この行き場のない出口無しという情況、これこそはラスコーリニコフをはじめ多くの内省的な青年が投げ出されているところの境位である。過剰な自意識がついに世界大にまで拡大してしまった青年にとって、現実世界は余りに卑小であり、そこに自己の存在を根拠づけることはできない、自己の存在余地は無い。なぜなら、自己とは本来的には全き可能態・不定態であるにもかかわらず、現実世界がそのような自己に対して無数の卑小な限定を課してくる、というのがここでの情況であるから。そのようないま=ここからの"突破"としての、"踏み越え"としての「罪」。それがラスコーリニコフにとっての老婆殺害の形而上的意義だった。現実の社会関係の裡で自己に負わせられるあらゆる概念的規定=属性の限定を脱ぎ棄てて、可能性の縮減という暴力を超え出ようとする、無限定への志向、則ち実存の超越的機制が、ラスコーリニコフをして「罪」に向かわしめた。

    「だいたい、人間は何をいちばん恐れている……? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それをいちばん恐れているじゃないか……」

    「いまの彼にとっては、過去の一切が、はるか下方、見えるか見えないかの深い底に行ってしまったように思われる。以前の考えも、以前の問題も、以前のテーマも、この眺望全体も、彼自身も、いや、すべてが、すべてがそうなのだ……あたかも彼自身がどこか高みへ舞いあがり、いっさいが彼の視野から消えてしまったようでもある……」

    ところで、この超越への志向の裡には「支配への欲望」が含まれている。ラスコーリニコフは自分が単なる客体=「凡人」=「しらみ」=「操作される側」=「法・倫理に服従する側」=「保守的」=「世界を維持する側」であることに我慢がならなかった、彼は絶対的な主体=「非凡人」=「人間」=「操作する側」=「法・倫理を踏み越える権利をもつ側」=「破壊的」=「世界を変革する側」たることを欲していた(「たんなる存在だけでは、彼にはいつも不足だった。彼はつねにそれ以上のものを望んだ」)。彼は自分が全てを超越し得る存在であるということ、則ち実存のその絶対的な自由性(「つまり、いっさいが許されるんだ」)を、証立てたかった(「ぼくは……ぼくは思いきってやりたかった、だから殺した……ぼくはね、ソーニャ、ただ思いきってやりたかったのさ、それが原因のすべてだ!」)。次の言葉には、ラスコーリニコフに於ける実存への志向と支配への欲望とが実は表裏一体である、ということがよく表れている。「ぼくがあのとき、一刻も早く知りたいと思ったのは、自分はみなと同じようにしらみなのか、それとも人間なのか、ということだった。ぼくはふみ越えることができるのか、それともできないのか!」。この言葉は彼の「凡人・非凡人」論と同根である。

    「罪」へと踏み出すことによってラスコーリニコフの情況はどのように変わったか。彼は絶対的な自由・絶対的な主体性を求めることで、それと表裏の関係にあるところの絶対的な孤独へと到った。それは神の喪失であり共同体からの追放である。あらゆる人間的な意味づけや存在根拠を失った、ニヒリズムという地獄である。「罰」と云うならば、これが「罰」であろう。「この瞬間、彼は、いっさいの人間といっさいのものから、自分の存在を鋏で切りはなしでもしたように感じた」。世界からの、人類からの、意味からの、隔絶である。絶対的な自己喪失である。目的合理的連関の円滑なつながりの裡に埋没していれば享受できた安っぽい幸福としての安楽もあったであろうに、人間を即物的に限定するそうした連関を拒絶し無化しようと志向する実存は、「偉大な苦悩と悲しみ」を味わわなければならない。

    そしてこのニヒリズムそのものが、やはり行き場も出口も無い=外部の無い境位なのである。なぜなら、実存は無際限の自己否定=自己超越の運動の裡にあるが、こうした実存の超越的機制によって到達し得るのが一切の概念的規定の無化という境位である以上、ニヒリズムを超越した先もまたニヒリズム以外では在り得ないから。ニヒリズムからの超越を志向する実存の運動それ自体が、予めニヒリズムの裡に内在しているのだから。「Aからの超越という機制それ自体が実はAへの内在に他ならない」という実存に於ける超越=内在の機制としての自己関係性、これこそが出口無しという情況の正体ではないか。

    ○共感共苦としての愛

    絶望しか在り得ないこの情況にあってなお希望が在り得るとすれば、それはそこに於ける苦悩そのものではないか。物語の終幕でドストエフスキーは、ラスコーリニコフとソーニャの二人が、お互いの愛によって救済されることを示唆している。それは、"踏み越え"てしまった「罪」人である二人が、唯一手にした「罰」としての孤独と苦悩を共感共苦することで可能となったのではないか。

    「ふたりはどちらも青白く、やせていた。だが、この病みつかれた青白い顔には、新しい未来の、新しい生活への全き復活の朝焼けが、すでに明るく輝いていた」

    「彼はただ感じただけだった。思弁の代わりに生活が登場したのだ」

    実存の無限運動の行き着くところは、ニヒリズムか/他者への自己喪失か/土壌回帰(イデオロギーへの頽落)か、これらのいづれかであろうか。

    ○「凡人・非凡人」論批判

    ラスコーリニコフは、自身が犯した「罪」を正当化するために、以下のような論理を用いた。則ち、人間は「凡人」と「非凡人」の二つの部類に分けられる。前者は生殖で個体数を殖やす以外に能の無い低級な人間で、後者は「新しい言葉」を発する天賦の才によって全人類のために世界を変革する人間である。そして後者は新しい世界秩序を実現するという目的のためならば旧体制を破壊しその法を踏み越える権利を有する。なぜなら、失われる「凡人」の生命の価値は、「非凡人」によって実現される新秩序の価値に比べれば無に等しいから。そして、老婆は「凡人」であり自分は「非凡人」である以上、自分は彼女を殺害する権利を有する……。ここには、実存という哲学上の観念とファシズムという政治的イデオロギーとの危うい親和性が、典型的な形で表れているように思う。両者はどのくらい近く、またそれぞれを分かつ点はどこなのか。

    まず、この「凡人・非凡人」論に於いて、「凡人」/「非凡人」は如何なる指標によって区別されるか。「凡人」は自己自身に対して無自覚な云わば即自的な存在として世界に埋没しており、あらゆる局面で object level に在る。一方、「非凡人」は自己を意識する対自的な存在として世界から超越しようとしており、自己に対しても他者に対しても meta level に立とうとする。「非凡人」には、あらゆる他者からの限定的規定を超越しようとする「力への意志」がある。つまり、実存への覚醒を果たしたか否かが、両者を区別する指標となっている。ラスコーリニコフはここで、実存の超越という機制への覚醒を、共同体に於ける「選民」たる"条件"としているのである。しかしそれは、実存を実体化しているという点で不可能である。なぜなら、実存を object level に措定して肯定的規定によって語ることは不可能であるから、実存とは不定態への志向性であるから。「実存に覚醒した英雄」などというものは成り立ち得ない。

    ところが、こうした俗人俗世からの"突破"の志向が政治権力に回収・包摂されてしまうとき、それは20世紀のファシズムと重なってくるのではないか。ファシズムとは、特定の政治共同体を所与として、予めその外部への超越を暗黙の裡に取り下げてしまっている、そのような不徹底性により政治化してしまった、実存主義の頽落形態の一つではないか(それはまさに、恣意性を隠蔽し普遍性を僭称する虚偽意識=イデオロギーそのものである)。自己自身に徹底性を要求する実存主義が不徹底であるということは語義矛盾ではあるが、ファシズムとはこのような歪さを含んだものではないか。

    「罪」としての"突破"は、あらゆる政治権力・あらゆる共同体・あらゆるイデオロギーに対して、一切の手加減をすることができない。実存の不徹底な超越なぞ自己矛盾でしかないのだから。そしてこの徹底性ゆえに、それは、実存の超越への志向を可能としている機制それ自体へと向けられる自己否定=自己超越の無限運動でなければならない。土壌をその都度毎に喪失し続けるしかないこの自己関係的機制の相に到ることで、この永久運動の志向ならざる志向性のその無限遠点に於いて、実存主義はファシズムへの頽落を不可能にも免れ得るのではないか。

    ドストエフスキーは文学に於いて初めて本格的に実存主義を展開したが、彼の思想の射程には実存主義的なテロリズムとしてのファシズムまでもが含まれていたのではないか。

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    2018年07月21日
  • 罪と罰 下

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    後半のスピード感はすごい。登場人物の性格の複雑さといい、展開の予測できなさといい、意外と普通に読んでも楽しめるレベルではないか。初めてドストエフスキーで完読できた。

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    2017年08月28日
  • 罪と罰 下

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    いよいよ完結の『罪と罰』
    自らの罪と向き合い翻弄するラスコーニコフの絶望的だが、希望のある終末へと向かっていく。はっきり言ってしっかりと読み込めているとは思えない。ただなんというか、意識の大きなうねりに身をゆだねていくうちに、様々な感情のぶつかり、葛藤を感じ、その波にのまれていった読書体験。最後ラスコーニコフのソーニャへの態度に何か救いを感じた。人間としてまっとうに生きるというのが正しい言い方ではないのかもしれないが、それでもやはり神のもとに生きる一人の人間としての生を取り戻すところは、一人の人間の再生の物語とも感じた。
    さていよいよそろそろカラ兄かな。

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    2016年11月04日
  • 悪霊(下)

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    スタヴローギンなしには、物語の精彩を欠いていただろう。そこに精神のもがきがあるからだ。あとは俗悪で、または、単に俗っぽさがあるのみだ。ステパンの最後の独白も良かった。良心があった。別立てにされたスタヴローギンの告白はやはり本編に含めるべきだろう。でないと、最後の彼の自殺が物語の救いにならなくなる。色々なことが明晰になるし、チホンとの対話が抜き差しならず、スタヴローギン性がより深みを増すからだ。あとは火事場の描写が迫真だった。

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    2016年11月03日
  • 悪霊(下)

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    上巻で詰みそうになったけれど踏ん張って読んでよかった。下巻に入ってからは面白くて面白くて一気読みだった。最も印象に残ったのはキリーロフだった。
    いろいろと考えあぐねているし、これからも年単位で考え続けることになりそう…

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    2015年12月19日
  • 悪霊(上)

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    再読である。まるで初めて読むように味わうことができた。日本の近現代文学にも影響を与え続ける名作をたっぷりと味わえ、普段の読書より濃密な時間を過ごすことができた。スタヴローギンがやはり気になる。彼の最後が暗示する「未来」とは予想してみたくなる。ステパンもカルマジーノフも滑稽でもあるが、生きることに真摯で好感持つことができた。「スタヴローギンの告白」にもある通り、作者のこの作品にかける情熱は熱く沸き立っている。

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    2015年08月14日
  • 悪霊(上)

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    ネタバレ

    この作品の中で語られる思想的な側面についての批評は、多くの方々の先行するそれをご覧ください。他のレビュアーの方々の批評はもちろん、これに関する論文等、読み込めば読み込む程の面白さがあると思います。

     私はむしろ、ドストエフスキーという名前、作品の分量、そして「思想的な」難解さという、この作品についてまわるイメージ・評価が先行しているようにな印象を受けます。
     本作の思想的な対立軸や、対決の内容自体を追いかけて読むことも面白いと思います。しかしそもそも、それ以前に、この作品は物語として、読者をこれでもか、これでもかと引き込んでくれる面白さ、楽しい(というとやや語弊があるか?)仕掛けに満ちています。
     次の展開がついつい気になってしまうワクワク感、クスクスと笑いが漏れてしまう強烈な皮肉、ゾクゾクと背筋を凍らせる背徳、思わずうめきを漏らしたくなる鈍痛のような衝撃、等々・・・
     思想的・哲学的な側面に深く踏み込まなくても、純粋に物語として楽しめます。そして、そのような読み方は決して間違っていないと思いますし、むしろ間違っていると斥けてはならないと思います。物語として楽しめた時点で、十分に小説の楽しみを享受できているといえるのではないしょうか。

     登場人物別に言えば、まずステパン氏が面白い。この作品の笑い担当といってもよいかもしれません。彼は生活力のない、浮世離れした感のある、貴族をパトロンに持つ学者先生です(『学者先生(爆)』としたいところです)。やや社会不適合なタチの、今風に言えば「自宅警備員」風の人物です(中年のいい年なんですが)。そんな彼に向けられる、語り手の少し遠回しで辛辣な物言いは、上巻冒頭部から冴えわたっています。学者先生を向こうに回して、鋭いジャブを繰り出します。パトロンのワルワーラ婦人の彼に対する理不尽なまでの罵詈雑言とともに、彼の登場する場面は笑い通しになること請け合いです。
     次に、ピョートル。彼はステパンの息子で、混乱・騒擾を引き起こしてロシア社会を転覆させてしまおうという陰謀を抱いて、小説の舞台である街にやってくるのです。今風に言えば「中二病」をこじらせている点では、あの親にしてこの子と言った感があります。しかし、彼はとにかくよくしゃべる。16ビートのドラムス、速弾きのギターの様な、究極のマシンガントーク。彼の言葉の身も蓋もないあけすけな内容、異常な熱のこもったアブナイ独演会。これが夜な夜な、「同志」達の秘密の集会等の場の、ろうそくが照らす薄暗がりの中で展開されます。時に笑いあり、時に迫力あり、醜悪なのについつい聴き入ってしまう―一級のペテン師の弁舌に身を委ねる、危険な愉悦があります。彼のハイテンション・ハイテンポな語り(というか騙り)が読者の脳内で再生されたとき、その強烈な魅力に引きずり込まれることでしょう。
     最後にスタヴローギン。下巻の「スタヴローギンの告白」に全てが詰め込まれています。人を誘惑し、陥れ、破滅させてしまう彼の悪魔的所行-身の毛もよだつ、同時になぜかその背徳に強く胸を打たれてしまう、高鳴る鼓動を禁じ得ない感覚。これは他のどんな物語でも、そうそうは得られません。これこそがこの作品の真骨頂でしょう。
    長々と恥かしげもなく述べ立ててしまいました。私の低劣な作文力では、もはや(当然のことながら)この作品の魅力を語り伝えることは出来ません。とにかく、だまされたと思って読んでみて下さい。難しく考えずに、書かれたことを享受してみてはいかがでしょうか。心を根底から揺さぶる仕掛けが満載です。この巨大な熱量を持った物語を満喫してください。こんなに強烈な、こんなに迫力のある物語、そう簡単には出会えないのですから。

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    2014年12月30日
  • 悪霊(下)

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    非難する術を持たぬ子どもの無意識の威嚇、愚かしくて痛ましいほどの無防備な絶望の姿。それは確かにこの世に数少ない、まるで心臓に釘を刺すように胸を打つものである。それがスタヴローギンの感じた(自分では感知できない)唯一の良心の在り処だったのかもしれない。

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    2014年05月24日
  • 罪と罰 下

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    『思弁の変わりに生活が登場したのだ。』
    自分の世界から世界の中の自分に移行できるかどうかが鍵だなあと思った。人を否定しているのに人に助けや愛を求めてしまう自分を罵って逃避するのではなく、そうでしか生きられない自分の存在を真摯に見つめてまず認めること。生身の体の伴わない思弁からでなく、自分自身から始めること。

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    2014年05月18日
  • 罪と罰 上

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    人の精神状態はあらゆる行動の基盤だ。アリストテレスは情念によってではなく理性によって行動しようと欲する者のみが善を行うことができると言うが、理性が感情をコントロールするのは並大抵のことではない。輪郭をもった感情が理性によって変化していくことはどの程度可能なのだろうか。

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    2014年04月13日
  • 悪霊(上)

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    「地下室の手記」→「罪と罰」→【悪霊】→「カラマーゾフ」の順で読んでいくと、長さ的にもムリなく、ドストエフスキーの根暗な魅力にハマれると思います(^ω^)

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    2014年02月24日
  • 悪霊(下)

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    ピョートルとキリーロフが対決し、両者の関係は修復不可能になる。主人公とされるスタヴローギンは最後まで影が薄くて五人組を裏で動かす大悪党として映ってこない。本筋に関わらないのに何故こんなにステパンが登場するのか?いつ果てるともつかない夜の営みのような、モヤモヤ感がいつまでも続いた後の突然の火事や暗殺のシーンは生々しい。ピョートルが啓示を与え悪事を働いたモノどもは逮捕されるが、一人ピョートルだけが国外逃亡する。何故こんな奴に大の大人が掌中の駒として操られるのか、隷従するのか、現代でもそういうことは起こり得る。

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    2015年09月06日
  • 悪霊(上)

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    帝政ロシア末期、地下組織が脱退者を殺害したという「ネチャーエフ事件」をモチーフに書かれた。革命勢力を揶揄しているとして、ソ連時代は弾圧された問題の小説。子離れしない親を持つ各々の息子スタヴローギンとピョートル。二組の親子を中心とした人間関係を成す多彩な登場人物たち。やはりキリーロフが好きである。語り手の一人称は誰だろう?と思っていたら、いつのまにか「G」という名前で呼ばれる人物として物語の中に入り込んでくる。個人的には「スタヴローギンの告白」はあまり好きでない。10年位前に改版されて文字が大きくなった。

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    2015年09月06日
  • 罪と罰 上

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    某犯罪学の教授曰く、法学部生が読むべき本。有名文学作品というと暗くて重いというイメージだったが、先が気になる展開のおかげもあってサクサク読めた。タイトルからして深いテーマを扱っているがあまり身構えずに読み始めても楽しめると思う。大学生くらいなら主人公の考え方に共感できてしまう人も少なくない…ような気がする

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    2013年08月25日
  • 罪と罰 下

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    ネタバレ

    主人公にかなり感情移入していたので救いがある終わり方でよかった。最後の短い部分ではあるが刑務所の中での主人公の変化は読んでいて安心?できる。

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    2013年08月25日
  • 罪と罰 下

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    下巻では一つ一つの会話を噛みしめ、読む時間を多く費やしてしまった。が時間を費やしても読んでおきたかった一冊と言えるはず。1860年代のロシア人も、2010年代の日本人も、大事なところはさして変わらないのではないのか?という思いを持ちながら読み進めていった。

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    2013年07月27日
  • 罪と罰 中

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    とにかく人間の感情、悲哀、エゴ、理不尽さなどが隅々に描かれている。中編になって、やっと登場人物の名前(と愛称)をおぼろげながら把握できてきた。ラスコーリニコフの罪がいつ暴かれるのか、スリリング。

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    2013年07月10日
  • 悪霊(下)

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    「完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりましなのです」雑誌連載時にはその内容ゆえに掲載を見送られた「スタヴローギンの告白」内で用いられる、上記の言葉が個人的ハイライト。そう、無神論というのは「絶対的な神が存在する場所に、絶対に何も置こうとしない」という思想を信仰する、一つの宗教的態度である。宗教に無関心な人にでも、星に祈りたくなる夜は来る。あなたが好きなものを語る時、それは一つの信仰告白が行われているということなのだ。それでも僕らは何かを信じずにはいられない、人は真に堕ちきるには弱すぎる存在なのだから。

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    2013年01月23日