柳田国男のレビュー一覧
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この本では怪異的な伝説の類が収集され、テーマごとに論じた文章が集められている。たとえば一つ目小僧や、人間に化ける魚や鰻、白鳥に化身する餅、巨人など。
一つ目小僧に関しては、隻眼の神のイメージが変容して妖怪化したものだろう、と柳田は結論づける。
これはいいが、他の文章は読み進めていくと、どうも解釈−結論づけが恣意的のそしりを免れず、学問(科学)としてあまり緻密な検証が完遂されていないような気がした。『海上の道』は特にそうだったが、確かな証拠が少ない中で、あまりにも飛躍的に仮説へと進んでしまうような危うさを感じてしまうのだ。
だがこのことは、開拓者としての柳田国男の価値を損じるわけではない。フロイトと同様、たどりついた「仮説」に幾つもの問題があったとしても、すべての人に先んじて革命的な思考をまっとうしたという事実が、彼の歴史的な偉大さを明らかにしている。
おまけに柳田国男の文章は相変わらず随筆風で、膨大な知見が柳田という主体の中で結びつき、からみあい、ゲシュタルトとして醸成されていく様子が読んでいて彷彿とされるために、柳田を読むことはわくわくするような読書体験をもたらしてくれるのだ。
本書は妖怪じみた伝説を集めたということで、一般に興味もひくし、やはり、何よりも楽しめる一冊だった。 -
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柳田國男の時代でも意味が失われた忌や言葉があるから早く収集しないと!って感じだったんだ。かつての農村村社会をベースにした日本、隔世の感がある。同じような忌や習慣が東北から、沖永良部みたいな南の島にまで共通して蒐集できるのが面白い。
血の穢れ系、月の障りで隔離される系について。
生理中の女性が休めるように穢れということで隔離してたんだ〜みたいな言説を見たことあるけど、この辞典から察せられるに絶対そうじゃないな。お産の隔離小屋も月のものの隔離小屋も環境劣悪そう。
呪力のあるものを忌んで名前を呼ばない、という忌が面白かった。山でその名を呼ぶとそいつに見つけられて悪い目に遭う、というのはヴォルデモート卿の名前を呼んではいけない呪いと同じものを感じる…ヨーロッパにもこういう忌の慣習があってハリポタはそこからとったのかも?そういえばロシア語で「熊」という単語は、元の名を忌んで呼ばないうちに、忌名のほうが「熊」という単語になってみんな元の言葉を忘れてしまった、というのを聞いたことがある。
薬指を「名無し指」という風習が、中国から日本の南の島にかけて広がってる話が面白かった!
確かに現代中国語でも薬指は「無名指」で、勉強したとき不思議に思ってた!!!
「べにさしゆび」と呼ぶのも、呪力のある指だから効果があっての発想、ってのになるほど。思えば薬を塗るのでも人差し指のほうが便利だろうに「薬指」と呼ぶのも薬指の呪力が信じられたから?単に薬師如来の手印からきてるのかもしれないけど。
髪や爪を火にくべてはいけない、葬式でやる風習を日常でやってはいけない、ってのは部分的には現代にも通じてるかも。飯を盛った茶碗に箸を突き刺してはいけない、とかも葬儀の風習だから悪いマナーだし(とはいえ実際に茶碗に箸を突き刺す葬式の習慣を実際に目にしたことがない、古めのフィクションか何かで見た記憶)
持ち主が立て続けに死ぬ田んぼを「病田」という話。日本住吸血虫の中間宿主がいる特定の田んぼでは寄生虫による病死が続発した話を思い出した。忌はただの迷信だったのか、経験則に基づき危険な土地を避けるための知恵だったのか… -
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ネタバレ言わずと知れた、柳田國男の名著、その漫画化。
「オシラサマ」「河童」「狐」「御犬」の四話が収められている。
オシラサマは養蚕の神、狩りの神、女性の病気の神、etc. ・・・ その由来の物語。いかにも昔物語っぽい構成。
遠野物語といえば、河童 やね。人間社会の闇を、架空の生き物に託して語る、これも神話的なテンプレート。
狐の不思議な話は、全国に残る。その昔、狐は人語を解し、人間に化けて人を騙すことが本当にあったのかもしれない。
御犬、ニホンオオカミのこと。なぜ、御犬は滅びることになったのか。人間世界の膨張による自然との力関係の変化。オオカミの存在とともに、我々が大切なものを失っていく物語。
昔話、神話、言い伝え、妖怪伝説、あらゆる物語に通底する、日本の文化、あるいは人間の本性に迫る物語。
こうした、フィクションを通じて、昔の人は、大切なことを子々孫々、印象的に心に残るように脚色して伝えてきたのだな、ということが良くわかる。 -
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原典の『遠野物語』は1910年、のちに民俗学の祖となる著者・柳田国男によって自費出版されたものです。その文語体の文体の美しさが本書の解説でも素晴らしいと言われていまして、こうして口語体にすることで、面白みや美しさが損なわれてしまうのですが、それでも文意をわかりやすく伝えるべく挑んだ冒険作と評価されています。
「遠野」はアイヌ語が語源のようです。たとえば、「トオノ」の「トオ(トー)」は湖を表すのだ、と。アイヌは北海道のみならず、東北やロシアにもダイナミックに活動域を広げていたと、以前読んだことがあります。その痕跡をこうして身近に感じられると、遠い話ではないような気がしてきます。
さて。61ページのあたりなどで、いくつかの段に渡って語られるザシキワラシのお話はよく知られていると思います。それまで屋敷に宿っていたザシキワラシに逃げられた瞬間から、馬屋で大蛇が出て、主人に「そのままにしておけ」と言われたのを聞かず、下男たちが面白がっていたぶって殺してしまう。すると、馬草の中からさらに小さな蛇たちがわんさか飛び出してきて、それも下男たちがみな殺してしまう。そのあと蛇塚を作るのですが、相当な量の死骸があったそうです。それからまもなく、下男がみたことのないキノコを屋敷の敷地内に見つけ、食べれるかな、と話し合っていると、また主人が「やめておけ」というのを聞かず、おからといっしょに混ぜながら炒めれば食べられるなどという下男の中でも物知りとされている男の言葉を信じて食べてしまう。もちろん、一家は全滅。その屋敷の繁栄はあっという間についえたというお話がありました。これは、遠野物語といえば語られる代表的なお話のひとつでした。まあこの話は、下男の無知無教養が不幸につながっているわけですけれども。
明治時代の学者・南方熊楠がザシキワラシに対する解釈として、人柱で家の土台に埋められた男女の子どものに対する意識、あるいは彼らの霊だとした、という逸話も注釈に載っていました。人柱ってそんなにありふれた行いだったのでしょうか。ちょっと認識が揺らいできます。
個人的に好きな話が、143ページにある72段目のお話「子ども好きのカクラサマ」。雨ざらしになった、木彫りの神様の座像です。これを子どもたちがひっぱり出しては川に投げ、道路の上を引きずり、そのうちこの座像の目も鼻もわからなくなるほどおもちゃにされていました。この乱暴な扱われ方に一言言わずにおれなかった大人たちが、「そんなに乱暴にするもんでねえ。ちゃんと元のところさ返しておけ」と子どもたちを叱り、子どもたちは従います。すると、子どもたちを叱った大人たちは足が動かなくなるものがでたり、高熱を出して寝込むものが出たりなどしました。不思議に思って、ある者に拝んでもらうと、あの座像であるカクラサマがでてきてお告げをします。「この大人たちは、おれがせっかく子どもたちと、楽しく遊んでいたものをじゃましたがら、少し罰を与えておいた」。大人たちはお詫びをし、元の体に戻してもらったそうです。
木彫りの神様って昔はよくあったのかもしれないですね。余談ですが、木彫りの神様の座像と読んで思いだすのが木彫りの仏様の像でした。これらは円空や木喰らによるものが伝えられていますよね。このあたりもちょっと知りたくなってきます
また、明治29年の大津波の話も、さらりと語られていますがすごいです。38.2メートルの津波が三陸を襲い、日清戦争の凱旋記念花火大会に来ていた大勢のひとたちが全滅したりしたと注釈にありました。溺死者は2万2千人だそうです。2011年の東北大地震時の大津波をほうふつとさせます。
あと、とある峠のお堂の話にあるのですが、その壁に、旅人たちが、盗賊にあったとか、不思議な女とすれ違ったときにニコっと微笑まれたとか、猿にいたずらされたとか書き記していくのが昔からの習わしだと『遠野物語』にある。なんだか、「今も昔も」なメンタリティーですよね。こういう風俗・習俗の源流が知れるのはおもしろいです。
本書を読んで『遠野物語』の内容を知った後は、ぜひ原典にあたってその文体の調子から丸ごとを味わってほしい、というような願いが本書には込められています。昔の文語体で読むのは骨が折れそうでハードルの高さを感じますが、ちょっと余裕が持てたときなんかに、挑んでみたいです。 -
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100年前に口語で伝えられていた本当のお話 1900年初頭に発刊されたこの本、約100年前の岩手県で語られていた話。河童が出てきたり、山女が出てきたり、まるで日本昔ばなしに出てくるお話のよう。これが本当に口語で伝えられたお話なのだから、そこにはリアルなものが存在する。読んでいて思うのが、昔の日本、ほんの100年前は自然に宿る神の存在や今は架空の生き物とされているものを、ちゃんと崇めたり、信じて生活していたことが分かる。それほど我々の生活、そして自然に囲まれた日常には、身近に感じれていたものなんだ、と。昔の人の生活スタイル、精神をだいぶ今の日本人は失ってしまったが、今だからこそその感覚を少しでも取り戻そう、という動きがある今このタイミングを逃してはいけない気がする。
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『幽冥談』『怪談の研究』(版は違うが)『山の人生』は先に読んだことかあるが、こうして各段階ごとに編集されているとまた思想の変遷がわかって面白かった。
日本も多民族国家だったという視点はアイヌ以外では今の日本では感じにくい。各地の風土記で中央に反抗する勢力も「異民族」というより「現地勢力」または「地元民の先祖」のような感じにとられる。そういう視点を知ると当時の情勢はもちろん、想像・ロオマンスのなかの幻にもとれる。
ロオマンスをしつこいほど繰り返す田山花袋の目にうつる柳田国男はこんな感じかと、生暖かい目で見守る?観察する?ような気持ちになった。
また機会を見て細かに読んでいくつもりだけれど、ひとまず読みきった漠然とした印象では、「日本の川」のような流れと思った。
漠然としてはっきりせずロオマンスと自然に溢れる源流から、信仰と異民族が跋扈する山岳部を抜け、山と人間社会が接する里山、現実世界である平野を越えて、海にいたる。
ぼんやりとして個人的憧れにも結びついた初期、山人への夢想、博覧強記の熊楠、移り変わる思想はきっかけ・背景も含めて面白い。
『海上の道』も先に読んだけれど、あれも結局山が海に変わったのでは?とも思った。 -
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自然主義と子供の頃の体験、国家公務員としての立場、ロマン主義などの柳田国男の背景は難しい。ここは長く研究している・読み込んでいる人むけかと思う。
なので、編者の意図とは違う視点での読書になったが、印象深いところを書き出すと、
不安定な子供の立場…共同体からの承認を得てはじめて生存を許される、心身が定まらないがゆえに神隠しにあう・依坐となる、親子心中の犠牲者となる。そのなかで神隠しにあった柳田の恐怖心なども見え隠れする。
母衣については先に読んでいた山本ひろ子『大荒神頌』で花祭の論考でそれの答えになるような事例があった。
隠れ里への憧憬と畏れ…隠れ里の伝承とともに、現実に見つかった・外界に開かれた土地を挙げるのは、伝承と現実の接点をあえて書き留めたようにもみえる。
重力源としての柳田…親友田山花袋、遠野物語を古本屋でサルベージして喜びにうち震える折口信夫、遠野物語の住人佐々木喜善。柳田本人、その作品に影響される人々と、その重力圏内にいる人。いまだに遠野物語にとらわれている現代人がいることからも、本人が考えていた自然主義やロオマンスを超えた(ズレた?)ところに、強い力があるのかもしれない。 -
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咳のオバ様、神社の片目の魚、神様が決めた国境と山の背比べの話など、日本各地に残る昔話や神話として語り継がれた物語で、似たようなものを集めた本。
類似した昔話がある場所には、「姥ヶ池」などの似たような地名が残っているというのも印象的だった。
また、日本各地には様々なバリエーションのお地蔵様が記録されていた。願掛けのたびに墨汁や酒粕を掛けられて臭くなっているところを見かねた村人が綺麗に洗ったらバチが当たった話や、子供に悪戯されていると思い子供を叱ってお地蔵様を元の位置に戻した人の夢枕で「せっかく子供と楽しく遊んでいたのに」と怒る地蔵、歯が剥き出しの地蔵など。今では語る人も居なくなって、どうしてそのお姿なのかもわからなくなったものも多数。
コニュニケーションが希薄になった現在、語られなくなった昔話を、こうして記録していくことはとても重要なことだと思う。この記録を読むことができたのはとても貴重な体験だと感じた。
話のネタになるので、柳田國男の本は他も見つけたら読んでおきたい。 -
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文化論ということだけど、その当時の東北各地を旅した気分になれる紀行文としても楽しめた。
柳田の目に移った自然、土地土地の植生の変化とそれがみせる美しさや物悲しさ。
人間についていえば、今に通じる三陸大津波や豪雨後の様子、それに巻き込まれた人々、旅先特有の哀しさ。
特に目は口ほどに云々を如実に語る「子供の眼」は悲惨な境遇・体験に面してしまった子供の状況とその眼が語る様が、ひどく胸に迫った。
ほかの著書の口碑・伝承などから考察を巡らす内容は最後の「東北文学の研究」になるけれど、ここでの海尊系の話と八百比丘尼伝承との結びつきは面白い。
紀行文?と考察が楽しめる点ではお得な感じの一冊。