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現在の岩手県遠野市は、以前は山にかこまれた山間隔絶の小天地だった。民間伝承の宝庫でもあった遠野郷で聞き集め、整理した数々の物語集。日本民俗学に多大な影響を与えた名作。
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Posted by ブクログ
『遠野物語』柳田國男 オーディブルで聴いたが、古い言葉遣いが残っているため、なかなか一度で聞き取ってすべてを理解することは難しかったが、それでも聴いていて没頭する物語もあり、ときおり私は「え!」と叫びながら、ぞくぞくするということがあった。 いったい、このぞくぞくする、ということは、どういう感動...続きを読むなのか、とも思う。 柳田國男は、青年時代に文学者たちと交流し、自らも詩を試みたが、やがて彼ら自然主義文学者から決別して、この『遠野物語』という、山の中の生活のなかに、残っていた前近代的な物語を、書き残すことを仕事とするようになった。 恋とか私小説とか、そういったものと、決別すること。それは、自己中心的な、独りよがりな世界観の表出でない、もっとちがった表現をもとめるようになったということだろうか。とにかく、どんな物語があっただろうか、それを挙げてみて、検証したい。 まず思い出せる物語は、嫁と姑問題の話である。姑がやたらと嫁をいびるもので、それに怒った息子が、家の扉を閉めて、鎌をとぎだす。この鎌で母の左肩に切りつける。しかし、命は取られなかったので、右肩を切りつける。そのときに、助けて―と大声を叫んだのを聞きつけて、村人が扉をあけて、母を助け出す。息子は捕まって警察に届けられようとしている。それを見た、母は、肩から滝のように血を流しながら、「私はなんの恨みももたないで死んでいくから、息子はゆるしてくれ」と言った。それを聞いて、村人は皆こころを動かした。その後、息子は鎌を振り上げて警察を追いかけまわしたりしたが、結局狂人だからということで、放免されて、今も村の隅の家に住んでいる。 最後の、母親の言葉に、村民が心を動かした、という表現に、われわれはどのような「感動」を受け取るのか。それは、私小説や、恋、といったものではなく、もっと複雑な、いや、単純なものを、読み取るだろう、と思う。 また、この息子に、精神の障害や、現代流の病名をつけてみたところで、「この感動」の理解の助けにもならないし、この感動を取り去ることはできないだろう。 他にも、現代映画のスプラッターものを思い出してみて、娯楽感覚で楽しんでみることも、最初は思い浮かべてみるのであるが、すぐに浮ついたこころが静まり返る。 「息子はゆるしてくれ」という言葉をかけることが、患者本人を特定する精神障害を越境し、また、スプラッター映画の狂人を、無罪放免することで、映画としてはおもしろくない結末にするのである。 滝のように血は流れたが、被害者は一人もいなかったのだから。 もう一つ、私にとって印象深い物語は、震災の津波被害の物語である。 津波で妻と子を失くした男の物語だ。津波から一年経った夏のある夜中に、トイレで用を足していると、霧の中から、男女2人が近づいてくる。よく見ると、女は亡くなった妻である。去っていくのを追いかけて、声をかけ、事情を聴くと、連れそう男は、夫のところに嫁に来る前に、親しかった男であって、今は二人で暮らしているという。子どもがかわいくないのか、と問うと、妻は泣き始めてしまい、夫が足元に目をそらしていると、二人は去って消えてしまった。そのあとを追ったが、彼女らは死んだ者だと思い返し、夜明けまで道に立って考えていたが、やがて朝になって帰った。そのあと長い間、心を病んでしまった。 原文は「その後久しく煩いたりといえり」で締めくくられているが、この言葉が、私の胸を打った。朝まで山の道に佇んでいた男が、いったい何を考えたであろうと、察すると、胸が張り裂けそうになる。 「俺はで生きていくから、お前はふたりで幸せになれ」と、前の話の母のように、言ってあげればよかったじゃないか、と裁くことが、誰にできようか、と切なくなってしまう。 そうではなくて、きっと、「子どもがかわいくないのか」ということを、妻に伝えたくて、妻もそれを聞きに来てくれたのにちがいないのだ。それで、妻も、いっしょに、子どもがいなくなったことを、泣きにきてくれたのであろう。 そのことに思い至ると、私もまた、涙を流すことを止めることができない。
それぞれの逸話が独立している上に数が物凄いので、暇つぶしにめちゃくちゃいい〜〜…と思ってたら 予想以上に一個一個面白くて時間溶けました もっとはよ読めばよかった
昨秋、花巻と合わせて遠野をようやく訪れることができた。 そこから少し経ってしまったけど、柳田の『遠野物語』を再読。 自分が見た遠野が、どれだけ柳田・佐々木の生きた時代の遠野と変わっていないのか、あるいは変わったのか。
ほんの100年ほど前の出来事や習俗は、きれいさっぱりどう消えちゃったんだろう。ホントはまだすぐそばに人ならぬものは存在してるんじゃないか…と考えたくなる一冊でした。遠野まで行かなくても、身近な祠から親しみたいけど、不審者に見られそうでもじもじ。
実際に読んでみると、座敷わらしや天狗を紹介しただけの本ではなくて、かの地で伝えられているお話をくまなく聴いて記したものでした。 「迷信でしょ。」 と、おそらく当時も避けて通るところを、聴いたそのまま記したのが「遠野物語」でありそのまま記すところに価値があるのだ、と、理解しました。 また、この本が...続きを読む端緒となり、民俗学が成立したこともうなずくことができました。 端的に感じたのは「昔の人」に分類された第八段の冒頭です。 「黄昏に女や子供の家の外に出てゐる者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ。」 これを読むと「神隠し」と郷の人が言っているのは誘拐のことだと理解出来ます。 しかしながら、犯罪として捜査するのではなく「神隠し」として対処、諦めていたのだと解ります。 プロの誘拐魔が女や子供をさらっていくのですから、 おそらくは郷の人が捜査しても太刀打ちできるものではなく、ならば「神隠し」として諦めるのが生活の知恵だったのかな。と推測しました。 他には、河童が他で語られるのと、遠野郷とのでは少し違うことを記した五九段も面白かったです。 面白かったと言えば、特に面白かったのは、 里の神「カクラサマ」に分類されている七〇段と 遠野物語拾遺「子供神」五一~五六です。 子供がご神体をおもちゃにするお話です。 五一を抜粋します。 「近所の子供らが持ち出して、前阪で投げ転ばしたり、また橇にして乗ったりして遊んでいたのを、別当殿が出て行ってとがめると、すぐその晩から別当殿が病んだ。巫女に聞いてみたところが、せっかく観音様が子供らと面白く遊んでいたのを、お節介をしたのがお気にさわった」 他のお話でも、叱った大人が逆に病気になったりけがをしたり、神様の罰が当たります。 さすがに、現代の子供はこんなことはしないと思いますが、 たとえ、子供が祠から木造のご神体を持ち出し、水たまりに放り込んで「戦艦だ!突撃だ!」と乗って漕いで、遊んでいても、遠野郷では叱ってはならないのでしょう。 その他、 盛岡市に旅行すると「前九年」と電信柱に町名が書いてあるのを見つけて「へぇ」と思ったのですが、 前九年や後三年の戦いから地名の由来を語る段(例えば遠野物語拾遺の七。現在の遠野市小友町での八幡太郎と安倍貞任の矢の射合い) も、その土地で語られている歴史に思い馳せました。 また、 蛇を殺してはならない などのいましめ。 山で迷って古民家を見つけたらそこにあるモノは神様からの贈り物だ などの言い伝え 拾遺の最後は年中行事を 「他とおおよそ同じ」 としながらも、農閑期の家にこもりがちな時期に行事が多く配置しているのが 興味深い、 と感じられる内容でした。 やはり、こういう本は、一度おおもとを読むと良いな。読んで良かったな。と思いました。
今、インスピレーションがピピッと来て、荒俣 宏の「帝都物語」という題名は、この「遠野物語」からきているのではないかと気づきました。 違うかな? 「遠野物語」を読むのは、2回目です。 NHKで、「100分で名著」という番組があって、これが最近のお気に入りなんですが、それで取り上げられているのを見て、...続きを読むまた読みたくなったのです。 言葉的には、若干読みにくいのですが、読むたびにいろいろ想像が膨らみます。 こういう話が伝わっていくシステムがどんどん失われていくのは、とても悲しいことだと思います。 でも、今のネットの広がりは、「お話」がテキストとして半永久的に残っていくので、もしかしたら、ぼくらは、新しい「遠野物語」的な世界を獲得していけるのかもとも思います。 拾遺集は、今回はじめて読みましたが、褌を盗む話とか、今のマンガにもありそうなホラっぽい話が楽しかったです。
日本独特の昔からある怪談話にそそられて読んだ。 地理的な背景も詳しく説明されているため情景を想像し易い。 民俗性を重視しすぎているからか、ラフカディオハーンの怪談のより淡々としている気がした。 個人的には上田秋成の雨月物語やラフカディオハーンの怪談の方が好き。
内容はとても面白かったです。何回でも読み返したい本。遠野物語が読みにくい人は、拾遺から読んでもいいかと思います。遠野の地理の位置関係が分かり辛く、一生懸命調べたのですが、読み終わってから地図がついてることに気づきました…。これから読む人は是非活用してください。
・遠野の人々は、動物も人間のような感情を持つ畏敬すべき存在、だと考えていました。 雌狼が子供を殺され復習にやってきた時、素手で応じる猟師の話があります。 子供への愛情から襲ってくる狼に対し、武器を持って戦うのは卑怯だと考えて、猟師は自分のワッポロを脱いで腕に巻き狼と対峙しました。その後、狼も猟師も...続きを読む深い傷を負ってまもなく死んでしまいます。 文明の利器である鉄砲で野生動物と向き合うのは、ある意味では卑怯で、 狼も人間も野生動物で、只の動物だとなった時には、素手と素手で戦うのが、最も敬虔な勝負というふうになるのだろうと思いました。 一方で、猟師であるならばより効率よく狩ればよく、鉄砲を使わず命まで落としてしまうのはナンセンスだと考える人もいると思います。 けれどもこれは現代人にとっては最も見えにくい(理解しがたい)、「狩猟民の精神」が垣間見えます。文明の利器によって人間はある程度、自然に勝ち、その効率の良さに甘んじてしまいがちですが、たとえば自然の猛威に触れ自然にはまるで敵わないことを思い知った時、人々のこれまでの生き方、在り方さえを問われると思うのです。 その時、「遠野物語」は非常に大きい意味のあるものだといえて、人間が人間だけしかいないというそういう世界ではなくて、動物とも自然界ともバランスを取りながら慎ましく生きていく、現代の中では無意味に思われがちな事でも全体として大きく見据えたとき、遠野の人々の考えから学ぶことは一杯あるのだということを知りました。
日本民俗学の父と呼ばれる柳田國男先生。 岩手県遠野の民間伝承を採集して まとめられた「遠野物語」。 日本の原風景を牧歌的に語るのではなく、 昔話のように教訓を含んだもの、 風習や伝説とともに、とりとめのない 世間話のようなものも含まれているのも 口承たるリアルさで面白い。 目に見えない世界が信じ...続きを読むられ 怪異が不思議としてではなく、 人々の生活と地続きだった古き時代。 自然への畏敬の念、人々の暮らし。 時に閉塞感があり、時に温かみをもって 周囲と繋がり、年中行事で四季を感じ、 目に見えないものを想う心の豊かさ。 現代に語り継がれた物語などの原点も たくさん含まれていて感慨深く面白かった。
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