柳田国男のレビュー一覧
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忌(いみ)について、日本各地の風習、奇習を集めた事典。
ところどころ、拾い読みをしていると、現世とは別の不思議な世界へと誘われるような気分になる。一つ、拾い読んで見る。
「首切り石」以下抜粋
伊勢の三重郡では、縞の入った石を首切り石というのは、形から思い付いた名のように思われるが、これを拾うと首が切られるという。知らずに拾ったらそっと首を三度撫でてから捨てよともいう(郷土石号)。
その石を拾った情景が浮かんできたり、どうしてそんな風習が生まれたのか気になってしまう。
人間は、コレクションしたがるものだが、忌をテーマに集めた柳田国男さんって、どんな人物だったのかも気になってしまう。 -
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面白かった事例をメモするとキリがないので、我が郷土に関する部分だけを記録する。いつか、話のタネになるかもしれない。
〈忌を守る法〉
・「金忌(カナイミ)」阿哲。春分に近い戊(つちのえ)の日を地神の祭日とし、農耕は休み、鋤鎌などの金物を一切使用せず。
・備中真鍋島では、忌小屋に女が入ることを山上がりと謂う。村は浜にあり、小屋はいずれも高い所に設けるからである。
〈忌の害〉
「産負け(サンマケ)」備前和気。
産の火に負けること。赤子祝い以前の家の者が漁の仲間に入ると、産負けして怪我をしたり、漁が当たらなかったりして人から忌まれる。故にこの祝いを早くすませて、世間を広くするという。
〈土地の忌 -
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短い章で区切られた遠野物語は口碑の書き留めなので、一方的な言い伝えや噂話にすぎないが、山の人生は論文として書かれているので、山人の存在は純粋に好奇心をくすぐられる。山人は日本の先住民族で大和民族と同化して我々になったのか。山窩とも呼ばれた漂泊民ともう一つの山人もいたと思える。むしろ岡本綺堂が「くろん坊」に書いたのは「人ではなく猿でもなく、からだに薄黒い毛が一面に生えているので、俗に黒ん坊と呼び慣わしているのであって、まずは人間と猿との合いの子ともいうべき怪物である」。岡本綺堂の描く黒ん坊は人語を話さない。「享和雑記」にも書かれているそれは濃州の黒ん坊であり、言ってみれば広島比婆山のヒバゴンのよ
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本書は、民俗学者・柳田国男が発表した『遠野物語』を、岩手県遠野に生まれ、遠野市内の小学校校長を務めた佐藤誠輔(1928年~)氏が口語訳したものである。1992年に初版、2013年に改訂新版が出版され、2014年文庫化された。
柳田国男(1875~1962年)は、兵庫県に生まれ、東京帝大卒業後、農務官僚、貴族院書記官長等を務める傍ら、全国各地を訪れて民俗調査を行い、日本民俗学の祖と称される。
『遠野物語』は、遠野地方の民話蒐集家・小説家であった佐々木喜善により語られた遠野地方に伝わる逸話・伝承を、柳田が筆記・編纂し、1910年(明治43年)に発表されたもので、日本の民俗学の先駆けとも称される作品 -
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現在では夜這いという言葉は印象の、よくない言葉であるが、
「たとえばヨバヒという言葉の内容が、はなはだしく低下して、後には君父の前では公言しにくいような、醜悪な所行のごとく、解せられることになったのも一つの結果である。上代の史書や文学にいくらでも用例は求められるが、ヨバヒは聘礼であり、またしばしば婚姻という漢語をもってその対訳としていた。野辺の維子や山川のかわずの鳴く声を、ツマヨブといったのを見てもわかるように、本来はヨバフすなわち続けて喚ぶことを意味する語の名詞形で、もとはあるいは両性互いに相喚ぶことをいっていたのかも知れないが、後々は男子の遠くより、尋ね寄る場合にのみ多く用いられたのは、お -
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ネタバレ言葉の語源。
結構詳しいほうじゃないかと自負していた。
けれども、一般的に言われる語源のさらに先、そこから説明されると、もういちいち新鮮でたまらない。
「挨拶」というのは近世の漢語で、もともとそんな言葉のなかった頃は「言葉をかける」「声をかける」という行為を挨拶としていた。
「挨拶」という言葉とともに、ある種の形式が伴うようになり、「言葉かけ」のような言葉が消えていく。
と言われると、確かに挨拶の決まり事を守ることが第一義となり、相手の様子などはろくに見もしなくなったのかもしれない。(ビジネスあいさつの場合)
今挨拶の言葉として使われている「おはよう」「こんにちは」「さようなら」などは、そ -
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前段の「遠野物語」はいつか読んだ。でも後段の「山の人生」と合わせて読むことで、改めて感心せざるを得ません。
興味ポイントは2つあります。
ひとつは、山に、実際に人がいたという事実。古くに渡来民族に追いやられたと思われる日本の先住民族ではないかという指摘です。彼らは顔赤く、背が高く、目が爛々と光る異人であった。
かれらが、里人とある時には接触したり小ぜりあいを起こしたり同化したりしつつ、やがて「山姥」「河童」「デェラボッチ」「天狗」の伝説に昇華していったと推論するわけです。
「山の人生」というタイトルはよくつけたもので、山にあった異形のものでも、それはかつて「普通の人間」であったという示唆で -
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この「遠野物語」は日本民俗学、開眼の書である。
岩手県遠野出身の小説家・民話蒐集家の佐々木鏡石が語った民話を、柳田國男が筆記、編纂した。
題目を見ると、山男・山女・河童・天狗・神女・姥神・仙人。家の神だと(オクナイサマ・オシラサマ・ザシキワラシ)等々。
妖怪や怪談、伝説、村の行事と多岐である。
佐々木鏡石が代々、土地で伝えられている話を直接聞いたり、中には近親者や友人の話、自身の体験とリアリティー溢れている。
書店で購入した時には気付かなかったが、"遠野郷本書関係略図"なる地図が付いていた。
地図で場所をチェックしてみると、実際この目で確かめてみたくなる。
私は土淵村 -
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200ページ足らずの薄い本ではあるが物足りなさは感じない。
本書では、いただきます、ありがとう、すみません、などのような、あまり深く意味を考えず習慣的に使ってしまいがちな言葉の成り立ちや元来の意味について、各地に残っている膨大な数の方言を手掛かりに考察している。
結論の出し方はやや感覚的であいまいであり、もう少し明確化する余地があるようにも感じられるが、言葉を使う際は何も意識せずに周りを真似るのではなく、その意味をきちんと理解し、使うべきかどうか、使うならどういう場面で使うべきかを考えてほしい、という柳田の切なる願いはひしひしと伝わってくる。それは言葉に対する柳田の考察が真摯な態度と豊富な -
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若者というより子ども向けに書かれたらしく、宮本常一なみに平易な書物だ。ここでは柳田的文学趣味は開花せず、素朴な民俗学的知が開示されている。
火といえば、レヴィ=ストロースの『神話論理』にあっては、自然そのものから分離しだした文明/文化を象徴する鍵概念である。
柳田の論述は相変わらずどのくらいの時代のことを言っているのかわからないが、主に農村における、「火と扱うための道具」をどんどん掘り起こす。本書は戦時下において書かれたそうだが、当時既に日常生活の火は電気に取って代わられており、火の文化を忘れ去られないために、柳田はここに書き留めたらしい。
確かに火は多くの場面で過去のものとなりはしたが、原発 -
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【本の内容】
かつての岩手県遠野は、山にかこまれた隔絶の小天地で、民間伝承の宝庫だった。
柳田国男は、遠野郷に古くより伝えられる習俗や伝説、怪異譚を丹念にまとめた。
その幅広い調査は自然誌、生活誌でもあり、失われた昔の生活ぶりを今に伝える貴重な記録である。
日本民俗学を開眼させることになった「遠野物語」は、独特の文体で記録され、優れた文学作品ともなっている。
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