柳田国男のレビュー一覧
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この「遠野物語」は日本民俗学、開眼の書である。
岩手県遠野出身の小説家・民話蒐集家の佐々木鏡石が語った民話を、柳田國男が筆記、編纂した。
題目を見ると、山男・山女・河童・天狗・神女・姥神・仙人。家の神だと(オクナイサマ・オシラサマ・ザシキワラシ)等々。
妖怪や怪談、伝説、村の行事と多岐である。
佐々木鏡石が代々、土地で伝えられている話を直接聞いたり、中には近親者や友人の話、自身の体験とリアリティー溢れている。
書店で購入した時には気付かなかったが、"遠野郷本書関係略図"なる地図が付いていた。
地図で場所をチェックしてみると、実際この目で確かめてみたくなる。
私は土淵村辺りを散策したい。
しばらく東北地方は御無沙汰しているので、弾丸ツアーでもいいから遠野郷を体感してみたい!
できたら、白水温泉に入る余裕もあったらいいけど...。 -
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200ページ足らずの薄い本ではあるが物足りなさは感じない。
本書では、いただきます、ありがとう、すみません、などのような、あまり深く意味を考えず習慣的に使ってしまいがちな言葉の成り立ちや元来の意味について、各地に残っている膨大な数の方言を手掛かりに考察している。
結論の出し方はやや感覚的であいまいであり、もう少し明確化する余地があるようにも感じられるが、言葉を使う際は何も意識せずに周りを真似るのではなく、その意味をきちんと理解し、使うべきかどうか、使うならどういう場面で使うべきかを考えてほしい、という柳田の切なる願いはひしひしと伝わってくる。それは言葉に対する柳田の考察が真摯な態度と豊富な知識に基づいて行なわれているからである。
私も読後改めて自分が言葉を粗末に扱っていることを反省した。
「もっぱら若い女性を読者に予想して、書いてみたもの」(p7)と柳田本人が自序で明言している。決して押しつけがましくも高圧的でもないのでぜひ世の女の人に薦めたい。 -
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若者というより子ども向けに書かれたらしく、宮本常一なみに平易な書物だ。ここでは柳田的文学趣味は開花せず、素朴な民俗学的知が開示されている。
火といえば、レヴィ=ストロースの『神話論理』にあっては、自然そのものから分離しだした文明/文化を象徴する鍵概念である。
柳田の論述は相変わらずどのくらいの時代のことを言っているのかわからないが、主に農村における、「火と扱うための道具」をどんどん掘り起こす。本書は戦時下において書かれたそうだが、当時既に日常生活の火は電気に取って代わられており、火の文化を忘れ去られないために、柳田はここに書き留めたらしい。
確かに火は多くの場面で過去のものとなりはしたが、原発事故が起こりエネルギー問題に直面している現在から見ると、電気は「火の文化」ほど人類の歴史に深く根付いたものではなかったなという感慨を持つ。 -
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【本の内容】
かつての岩手県遠野は、山にかこまれた隔絶の小天地で、民間伝承の宝庫だった。
柳田国男は、遠野郷に古くより伝えられる習俗や伝説、怪異譚を丹念にまとめた。
その幅広い調査は自然誌、生活誌でもあり、失われた昔の生活ぶりを今に伝える貴重な記録である。
日本民俗学を開眼させることになった「遠野物語」は、独特の文体で記録され、優れた文学作品ともなっている。
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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100分de名著で「遠野物語」を読んでいる。その第二回について、こちらに書く。
三人の女神が統べる遠野三山(早池峰山、石上山、六角牛山)は、女神の嫉妬を恐れて女性は登らない。反対に男性の成人儀礼の山となっている。
面白いのは、他の山は男の神様が統べるようになっている。混沌とした神様の体系。ギリシャの神々ともまた、違う。恐ろしい部分と豊かな部分を見せる。まさに自然そのもの。
里や家の中に神様がいる。
オシラサマ、座敷童。
家に福をもたらす神様。
実際にあった豪農の盛衰を語る。孫左衛門の家のことが繰り返し語られる。
柳田は神様は本当にいたと思っていたか。
「不思議であることをそのまま認めていた」
九六 遠野の町に芳公馬鹿とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。この男の癖は路上にて木の切れ塵などを拾い、これを捻りてつくづくと見つめまたはこれを嗅ぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりてその手を嗅ぎ、何ものにても眼の先きまで取り上げ、にこにことしておりおりこれを嗅ぐなり。この男往来をあるきながら急に立ち留り、石などを拾い上げてこれをあたりの人家に打ちつけ、けたたましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすればその晩か次の日か物を投げつけられたる家火を発せざることなし。同じこと幾度となくあれば、のちにはその家々も注意して予防をなすといえども、ついに火事を免れたる家は一軒もなしといえり。
知的障害の人々にも人を超えた能力を持つ人がいる。経済原理のの中の合理主義ではなく、居場所をもたせる。この白痴の男の嗅覚は非常に高かったのか、それともたまたまいつもの奇行が火事の家に当たり、それに尾ひれがついたのか。それはどうでもいい。ともかく、それが人々に語り継がれて、「許されている」しかも本人が去年まで生きてる、ということに、日本人の「人智を超えたもの」との付き合い方がある。
しかも、この男の能力は火事を防げなかった。人間の能力を超えたものは防げない。自然災害に対する日本人の諦めの良さはここから来ているだろう。
自然に対する態度は、それでいいと思う。私だってミサイル程度で殺されるゴジラは見たくない。神々とつながる人々はどうか。白痴の男は、共同体の中では人智を超えた者になった。共同体の中の居場所を与えていることは素晴らしい。しかし彼は自然そのものではない。白痴の人間は、一方では毎日家族が世話をしていた人間だっただろう。しかし、遠野物語の中では自然そのもののように扱われている気がする。神々と人々との付き合い方ではなく、人々と人々との付き合い方はどうするか、その答えを求めるのは、遠野物語の任務ではないのかもしれない。
明治から昭和にかけて、日本は史上稀に見る変革期を迎えた。政治体制の変化だけではなく、生活、民俗の変化が著しかった。その中で失われたものを大切にし、そのエッセンスはもしかしたら、現代に脈々と受け継がれているかもしれない。いや、受け継がれているのである。だからこそ、そこから得るものを探して行きたい。
ずっと昔、常民文化研究会の指導教官だった高桑守史先生との「論争」を、今しきりに思い出している。
(2014.6.17記す) -
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なぜ、便利なもの、必要なものほど、新しい手段ができるとすぐに忘れ去られてしまうのだろう。
過去のこと、しかもそれが自分の生まれる前となると、人に聞くか、本を読むかで、手段は実に少ない。今なら映像に残せたりするのだろうけれど、一定以上の昔になるとそうもいかない。
そして、火にまつわる文化は当然古い。作者が語るように、新しい物が広がり忘れ去られてしまっているような事柄・物事も、限りないほどあるのだろうと思う。
想像力さえあれば”不便さ”はわかるとはいえ、それを解決する”工夫”や”努力”は忘れ去られれば届かない。
街灯から、家の明かり、かまど等々、多くの場所で使われてきた火の歴史からは、生きることの懸命さが感じられるようで。
必要なものほどすぐに忘れ去られてしまうのは、きっと懸命であるが故なのでしょう。
不便さを楽しむというのは、贅沢なことであるのだろうし。
明かりを少し暗めにしたり、月の光を浴びたりしながら、火とそれを囲む人とのいにしえに思いを馳せてみるのも良いのでは。 -
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いつかは読もうと思っていた本。なかなか時間が掛かった。ある程度晦渋な本でも段々スピードが上がってくるものだが、この本は終始手こずった。
言葉遣いが古いし、当時の常識や話題を当然と書かれていると、何のことやらと考えてしまう。
フォークロアで収集した様々の説話の披露は多すぎて、興味を覚えつつも、この話はいったいどういう趣旨になるのかと思う処も多かった。
とは言いながら、最終的な論旨には正直驚いたことが多い。
・田植えは日神と水神の婚姻。稲の神の誕生の儀式。暮れる日を招き返す奇跡は田植えの日ならばこそ。
・タマヨリヒメの名は固有名詞ではなく、一般名称。
・田植えの日、食事を配る化粧した女性。ヨメとは神に仕えるため化粧した女性のこと。家庭の奥さんのことではなかった。
・八幡神は童形の神。王=みこ、と松王丸の名から解き明かし、本来はミコガミだったものが、王→応と読まれ、応神天皇とされたもの。その母、タラシヒメの名も本来はタマヨリヒメ同様に一般名称。同じく、後に神功皇后とされた。
・瓢箪、瓜はウツボ船。神の乗り物
神に仕える女性の簪(かんざし)の話があり、白川静先生が婦という文字は簪をつけた神に仕える女性としたことを思い出す。柳田学説にはそういう多方面への影響がある。
いろいろ不思議に思うことは多い。
・童神と母神に伝わる人身御供の伝説。事実があって神が生まれたのか。後からの理由づけなのか。
・ある時期に八幡神は広まったらしい。何故?。更に何故、仏教に近しいのか。
・小野の一族が地方の神職になっていった、そのパトス。
著者は古代に神に仕える漂泊の女性集団をイメージしている。う~ん。想像力がついていかないな~。 -
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先日読んだ『桃太郎の誕生』の続編のような位置にある本。やはり「昔話」を中心主題とし、それと「文学」=書かれたものとの接点を探る。
冒頭扱われる「竹取物語」は、やはり当時既に広まっていった昔話を活用して書かれたものだ。柳田によるとこの物語の原型は全国に広まっている「羽衣談」の変形でもある。
天上からやってきた天女が、地上の人間としばし過ごし、福をもたらしたのちに、再び天上へと去ってゆく。そういえば鶴の恩返しもそうである。しかもどうやら、この「天上」というのは富士山の山頂ではないかということが、この本ではほのめかされている。かぐや姫が生まれた「竹」自体が、富士山山頂にイメージされていたのではないか。
富士山をめぐってはやはり多数の神話的・宗教的な伝説が存在した。山が不可思議なものであり、それゆえに神聖であるという日本人の発想をたどれば、なるほどそうなるのかもしれない。
神話が庶民の、無数のパロールの層を経由することによって、昔話や童話に変容する。こう考えると、昔話をめぐる探索の思考もまた、「神話論理」を追いかける冒険なのだ。 -
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柳田国男は「山人」を、はじめ日本の先住民族の末裔と考えていたらしい。海をわたってきた倭人(大和民族?)が、先住民族を隅に追いやって、結果、先住民族が山に立てこもったということが、実際古代にあったと考えられないでもないが、冷静に考えて、彼らがほとんどそのまま江戸・明治付近まで、ずっと山に住み続けたというのは考えにくい。
柳田国男もそう思ったのか、『山の人生』の頃にはこの考えを撤回したようだ。
この本の編集者大塚英志氏の考えでは、もともとロマン主義的なパッションを秘めていた柳田が、結局そのような自己を抑制したということになる。
ロマンというか、柳田国男がひどく文学者気質であることは間違いない。かれは田山花袋にネタを提供して小説を書かせていたそうで、花袋の短編が2つ、巻末に載せられている。
柳田と南方熊楠との往復書簡も載っているが、全部ではないようだ。熊楠のバイタリティが強烈なので、このやりとりを読んでいると、熊楠のほうが存在感が圧倒的である。互いのスタンスを痛烈に批判し合った書簡はここでは省かれているようだ。 -
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柳田『日本の祭』は実は既に持っている本に入っていたので、改めて買う必要はなく、単に間違ったのである。しかし、ほとんど覚えていないこれをこうして読み返してみた体験は得難いものだった。
たぶんこの書は柳田国男の代表作の一つと言ってよいだろう。比較的体系的に、日本の民俗的な祭について書かれており、いつもより散漫さが少ないし、読みやすく、民俗学入門書としてもわりといいのではないだろうか。
一カ所印象的だったのは、近頃の日本人は正月の意味もわからずに「おめでとう」とばかり言っている、と柳田がぼやいているくだり。そういえば正月もまた神事であったかもしれない。しかし世は移ろうものであり、民俗的事象も、日本が西洋文化を浴びるように受け入れ、めざましく「発展」を遂げた現在から言うと、「神事」が完全に忘却されてしまっているとしても、それをただ受け入れるしかないのではないかと思う。
ぜんたいに柳田国男には啓蒙的スタンスがいつもあって、日本の伝統的「民俗」の痕跡について、もっと日本人はみんな学ばなければならない、としつこく言っている。ほとんど一人で「日本民俗学」を創始したような人だから、そういう感情を持っていても仕方がないというか、共感的に理解することもできるのだが、さすがに21世紀の現在の時点からは冷めた目で見つめざるを得ない。
それはそれとして、やはり日本の民俗事象の「起源」をさぐってみるのは知的冒険として、実に楽しいことは確かなのだが。 -
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この本に収められた文章は、どれも「言葉」をめぐる民俗学的検証である。だから見ようによっては、言語学がなすべきだったかもしれない仕事を、民俗学者柳田国男が博識を注入して、独特の視点でやってしまっているという奇妙さが感じられる。
たとえば「ありがとう」「もったいない」といった、極めて日常的な言葉をとりあげ、歴史的な文献をもとに、それは「元はそういう意味ではなかった」という指摘を次々に繰り出してくる。
柳田はここで、みんながそれぞれの日本語の由来をより深く学び、もっと美しい日本語を話して欲しい。という思いを打ち出している。しかし言語は通常、誰が規定するのでもなく、人々のあいだで自然に成長・変容していく「生き物」であるということを考えれば、柳田の姿勢には若干お堅いんじゃないの、という気がしないでもない。
この種の本は、現在では「雑学」本として多数書店に並んでいるが、柳田国男の本書はその先駆けであるとともに、楽しく読み通せる優れた書物だと思う。