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柳田国男 (1875-1962) の『遠野物語』(1910, 明治43年) は、日本文学史上に長く残る逸品である。岩手県遠野郷に伝わる神、妖怪、世間話、習俗を簡古かつ気品ある文で書き留めた比類のない作品であり、興味深く魅力のある話の宝庫である。例えば、ザシキワラシについては、次のように記している。
「橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にて此方へ来たる。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門がところからきたと答う。これから何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸(きのこ)の毒に中(あた)りて一日のうちに死に絶え、------」
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遠野物語:1910年(明治43年)。
日本民俗学の開拓者・柳田国男の代表作。陸中遠野郷(岩手県の遠野盆地近辺)に口承で伝わる民話を柳田が編纂したもので、本邦民俗学の発展に多大な貢献をしたとされる名著である。民間伝承を、その原型を尊重し余計な装飾を排して聞いたままに記したとされるが、簡素ながらも気品のある美しい文語体で綴られており、日本民俗学の記念碑としてのみならず、その文学性も高く評価されている。
土の匂いのする物語だ、と思った。混沌が、混沌のまま残されている。のどかな民話集かと思って読むと、結構な衝撃を受けるだろう。座敷童、天狗、マヨイガなどノスタルジックな怪異譚も多いが、神隠しの話などは超常現象ではなく何者かによる拉致監禁ではないかと疑われる節もあるし、息子による母殺しという明らかな刑事事件も混在しているし、お伽話として片付けるにはあまりに生々しく泥臭い。閉鎖された寒村の心の闇をのぞいてしまった気がして、ちょっと背筋が寒くなった。「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」という序文の言葉は、あながち誇張でもないようである。
しかし、慣れてしまうと妙に心惹かれるものがある。お酒に例えるならば、泉鏡花などに代表される純文学としての怪異譚は大吟醸で、こちらは地元の民家で作られるドブロクという感じだろうか。最初は飲みにくいが、いったん慣れると癖になる。これが民俗学という学問の「味」なのかもしれない。好き嫌いが分かれると思うが、私はこの味が嫌いではない。それを発見できたのが本書を読んでのささやかな収穫だった。折をみて、この分野のほかの本も読んでみたいと思う。
Posted by ブクログ
我々が空想で描いて見る世界よりも、 隠れた現実の方が遥かに物深い。柳田国男『遠野とおの物語』1910
諷刺の笑いというのは淋しいもので、それの出しゃばる時世はきっと明朗でないのだが、 また一方に牽制するところがあって、我がおろかを棚へ上げている者を自粛せしめる。柳田国男『不幸なる芸術』
魂になってもなお、生涯の地に留まるという想像は、自分も日本人である故か、私には至極楽しく感じられる。柳田国男『魂の行くへ』
仏教が新しい考えを日本にもたらしたというより、日本固有のものが仏教に触れて変質していった。柳田国男
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まれびと。海のかなた、別世界から村にやってきて人々に恵みを与えて去っていく。折口信夫おりくち・しのぶ『まれびと(稀人)の歴史』1929
あの世は抽象的なものではなく、自分の生活している世界の「あの山」の向こう、「あの海」の彼方に聖なる世界(仏の世界)がある。▼「しぬ」の漢字は「萎ぬ」。生気が無くしなしなになること。その逆は活く(いく)。折口信夫『死者の書』1943
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庶民の生活を描き出すことで、今日の文化を築き上げてきた生産者のエネルギーはどういう人間関係や環境の中から生まれて出てきたのかを探る。宮本常一『忘れられた日本人』1960 ✳︎性に奔放な庶民の女性たち。cf. ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』1585
ヨーロッパでは都市(生活領域)の中心に教会が建てられ、神がまつられる。日本では生活領域の端(自然との境界)に神がまつられる。山の奥(オク)と海の沖(オキ)はともに聖なる領域への志向性をあらわす同じ語源の言葉ではないか。オギュスタン・ベルク『日本の風土』1986
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○付喪神つくもがみ。道具は長い年月が経つと精霊が宿る。神社で人形・もの供養をする。
○道祖神どうそしん。外から悪いもの入ってこないよう村を守る。
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