あらすじ
数千年来の常民の習慣・俗信・伝説には必ずや深い人間的意味があるはずである。それが攻究されて来なかったのは不当ではないか。柳田の学問的出発点はここにあった。陸中遠野郷に伝わる口碑を簡古かつ気品ある文章で書きとめた『遠野物語』、および『山の人生』は、柳田学の展開を画する記念碑的労作である。 (解説 桑原武夫)
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昔話というデータを収集し、そのような話が誕生に至った経緯を考察。その結果、山男・山姥・天狗・鬼なども「やまびと」に還元される。便利な機器のない時代にもかかわらず恐ろしいまでの研究魂に圧倒。
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1910年の『遠野物語』と1926年の『山の人生』を1冊にしたもの。
桑原武夫が解説で指摘しているように、『遠野物語』はあくまでも「今日」や「近頃」の話として語られているのが、興味を惹かれる。実際、「西洋人」の風習や1896年の三陸大津波に関する話も収録されているし、マッチ工場も登場する。家産が傾く話も目立つが、これも明治期のことのように思われる。伝説や民話集としてだけではなく、幕末~明治期の急激な社会変動のなかでの人びとの記憶としても読める作品なのだろうと感じた。
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柳田国男 (1875-1962) の『遠野物語』(1910, 明治43年) は、日本文学史上に長く残る逸品である。岩手県遠野郷に伝わる神、妖怪、世間話、習俗を簡古かつ気品ある文で書き留めた比類のない作品であり、興味深く魅力のある話の宝庫である。例えば、ザシキワラシについては、次のように記している。
「橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にて此方へ来たる。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門がところからきたと答う。これから何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸(きのこ)の毒に中(あた)りて一日のうちに死に絶え、------」
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遠野物語・山の人生
(和書)2013年07月10日 21:47
1976 岩波書店 柳田 国男
人間という存在を吟味することへの一つの道筋であり、語られるエピソードの数々もよかったけれど国男さんの吟味されたコメントが面白いです。
前から読んでみようと思っていましたがなんだか読みづらそうに思えて避けていましたが、この岩波文庫は凄く読みやすく創られていて感動しました。
岩波文庫はいいですね。全集とかから持ってきて読みやすく配慮されていていいです。岩波文庫永遠なれ。
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「遠野物語」
"願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ"
冒頭文がすばらしいの一言。
「共同幻想論」の後に読んだので、
共同体の抑圧の強さが民話の中から窺える。
たぶん、
小規模だからこそ共同体の幻想が強固にあったのだろうし、
国家が「父的」になればなるほど、
ムラ社会が解体されていったのは必然の帰結なのだろうな。
今はまた、
新たな共同幻想を構築する時期なのかもしれん。
「山の人生」
「遠野物語」のような文語体のほうが、
郷愁の念というか今は昔感というか、
味わい深くて好き。
解説に書いてあるように、
「遠野物語」は学問的というよりも、
文学的な色合いが強いのでしょう。
今では「トンデモ」な設定や話に聞こえるけれど、
当時の習俗に照らし合わせて考えると、
民話と科学的事実の間にある、
共同体の無意識が浮かび上がってくる(ような気がする)。
そういったいわゆる「共同幻想」は、
現在まで活きる「想いの科学」とでもいうのか、
そんな視座を与えてくれる、
という点で本書の試みは、
当時の実証主義的な歴史学への警鐘でもあり、
また活きる学問への啓蒙でもある。
今の日本人というのが、
もともと日本にいた土着の「国つ神」と、
海からの渡来の「天つ神」の混血という話は他の本にも出ていたけれど、
この本で言う「山人」が国つ神の末裔ではないかという考察は、
肯んずるに吝かではない。
というのも、
日本の律令制の導入には、
渡来の人たちが大きく関わっているわけだから、
(天皇家には朝鮮半島から来た人の血が入っているらしいし)
「古事記」や「日本書紀」にある、
国つ神から天つ神への「国譲り」もそのような文脈で捉えると、
結構わかりやすいんじゃないかしら。
そうしてヤマトタケルの東征の話にあるように、
天つ神の勢力が大きくなるにつれ、
国つ神が平地からどんどん追いやられていった。
それが「山人」なんじゃないかな、と。
それから、
天狗が坊さんの格好してるのは、
修験道の開祖である役小角からくる山岳信仰が影響しているみたい。
ナウシカの「森の人」も「山人」の影響下にあると思う。
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遠野物語:1910年(明治43年)。
日本民俗学の開拓者・柳田国男の代表作。陸中遠野郷(岩手県の遠野盆地近辺)に口承で伝わる民話を柳田が編纂したもので、本邦民俗学の発展に多大な貢献をしたとされる名著である。民間伝承を、その原型を尊重し余計な装飾を排して聞いたままに記したとされるが、簡素ながらも気品のある美しい文語体で綴られており、日本民俗学の記念碑としてのみならず、その文学性も高く評価されている。
土の匂いのする物語だ、と思った。混沌が、混沌のまま残されている。のどかな民話集かと思って読むと、結構な衝撃を受けるだろう。座敷童、天狗、マヨイガなどノスタルジックな怪異譚も多いが、神隠しの話などは超常現象ではなく何者かによる拉致監禁ではないかと疑われる節もあるし、息子による母殺しという明らかな刑事事件も混在しているし、お伽話として片付けるにはあまりに生々しく泥臭い。閉鎖された寒村の心の闇をのぞいてしまった気がして、ちょっと背筋が寒くなった。「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」という序文の言葉は、あながち誇張でもないようである。
しかし、慣れてしまうと妙に心惹かれるものがある。お酒に例えるならば、泉鏡花などに代表される純文学としての怪異譚は大吟醸で、こちらは地元の民家で作られるドブロクという感じだろうか。最初は飲みにくいが、いったん慣れると癖になる。これが民俗学という学問の「味」なのかもしれない。好き嫌いが分かれると思うが、私はこの味が嫌いではない。それを発見できたのが本書を読んでのささやかな収穫だった。折をみて、この分野のほかの本も読んでみたいと思う。
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遠野という土地にまつわる口承の物語。
ある作家が指摘していたように、
これは一つの研究の成果であるのに、
まるで一つの文学を読んでいるような気分になるのだ。
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我々が空想で描いて見る世界よりも、 隠れた現実の方が遥かに物深い。柳田国男『遠野とおの物語』1910
諷刺の笑いというのは淋しいもので、それの出しゃばる時世はきっと明朗でないのだが、 また一方に牽制するところがあって、我がおろかを棚へ上げている者を自粛せしめる。柳田国男『不幸なる芸術』
魂になってもなお、生涯の地に留まるという想像は、自分も日本人である故か、私には至極楽しく感じられる。柳田国男『魂の行くへ』
仏教が新しい考えを日本にもたらしたというより、日本固有のものが仏教に触れて変質していった。柳田国男
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まれびと。海のかなた、別世界から村にやってきて人々に恵みを与えて去っていく。折口信夫おりくち・しのぶ『まれびと(稀人)の歴史』1929
あの世は抽象的なものではなく、自分の生活している世界の「あの山」の向こう、「あの海」の彼方に聖なる世界(仏の世界)がある。▼「しぬ」の漢字は「萎ぬ」。生気が無くしなしなになること。その逆は活く(いく)。折口信夫『死者の書』1943
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庶民の生活を描き出すことで、今日の文化を築き上げてきた生産者のエネルギーはどういう人間関係や環境の中から生まれて出てきたのかを探る。宮本常一『忘れられた日本人』1960 ✳︎性に奔放な庶民の女性たち。cf. ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』1585
ヨーロッパでは都市(生活領域)の中心に教会が建てられ、神がまつられる。日本では生活領域の端(自然との境界)に神がまつられる。山の奥(オク)と海の沖(オキ)はともに聖なる領域への志向性をあらわす同じ語源の言葉ではないか。オギュスタン・ベルク『日本の風土』1986
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○付喪神つくもがみ。道具は長い年月が経つと精霊が宿る。神社で人形・もの供養をする。
○道祖神どうそしん。外から悪いもの入ってこないよう村を守る。
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「遠野物語」を目当てで購入したのだが、それを加味して読む「山の人生」での考察が面白かった。
鬼や天狗などは初めからその存在の伝承が囁かれていたのではなく、前提となる事情があり、それに説明がつけられたものだという風な指摘が印象に残った。だから別の妖怪でも特徴が一致していたり、また、地域によって異なる風貌で言い伝えられていたりする。
神隠しや山男の発祥についても触れられている。自分では考えてもみなかった可能性や背景が示唆されており、膝を打った。
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短い章で区切られた遠野物語は口碑の書き留めなので、一方的な言い伝えや噂話にすぎないが、山の人生は論文として書かれているので、山人の存在は純粋に好奇心をくすぐられる。山人は日本の先住民族で大和民族と同化して我々になったのか。山窩とも呼ばれた漂泊民ともう一つの山人もいたと思える。むしろ岡本綺堂が「くろん坊」に書いたのは「人ではなく猿でもなく、からだに薄黒い毛が一面に生えているので、俗に黒ん坊と呼び慣わしているのであって、まずは人間と猿との合いの子ともいうべき怪物である」。岡本綺堂の描く黒ん坊は人語を話さない。「享和雑記」にも書かれているそれは濃州の黒ん坊であり、言ってみれば広島比婆山のヒバゴンのようなものか。そして時に山の神と同一視される。民俗学への興味が一気に増す一冊。
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取材して聞き書きした、短編。
その取材感がそのまま出ているので、
なかなかリアリティがあって、
そのリアリティが感じさせる怖さが、魅力的。
現地も訪れると、より世界観が広がります。
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前段の「遠野物語」はいつか読んだ。でも後段の「山の人生」と合わせて読むことで、改めて感心せざるを得ません。
興味ポイントは2つあります。
ひとつは、山に、実際に人がいたという事実。古くに渡来民族に追いやられたと思われる日本の先住民族ではないかという指摘です。彼らは顔赤く、背が高く、目が爛々と光る異人であった。
かれらが、里人とある時には接触したり小ぜりあいを起こしたり同化したりしつつ、やがて「山姥」「河童」「デェラボッチ」「天狗」の伝説に昇華していったと推論するわけです。
「山の人生」というタイトルはよくつけたもので、山にあった異形のものでも、それはかつて「普通の人間」であったという示唆ですね。
もうひとつは、この書が書かれた大正から昭和にかけての時代…まだ神隠しやらが「実際に」起こっていた同時代に、伝承や民間の文書をたんねんに冷静に読み解くことで、その裏に潜む「事実」をあぶりだそうという、柳田国男の先見性というか、科学の萌芽への驚きです。
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ところでちょっと突飛な連想ですが、次のようなことを思う。
ときは現代。
むかしのような迷信はなくなったろうか。実は今もあるんじゃないか。
ある種の都市伝説とか、スピリチュアル系・宗教系のもろもろとか、あるいはチェーンメールとか、「祟り」のような不思議譚や恐怖譚は今も事欠きませんやね。
そういう怪異系に限らず、インターネット上でささやかれる数多の情報、データ、ウワサは本当にそれと信じていいものかどうか。
山の魑魅魍魎と、情報の海の魑魅魍魎…人間は大して進歩していないんじゃないかしら。
それらを読み解くリテラシーというものを、当時の柳田国男以上に、現代人こそ持つべきなのかも知れません。
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中学校の修学旅行で岩手に行くことになり、事前に研究発表会が行われたとき
発表内容に一部を調べるのに使ったのが遠野物語でした。
様々なフィクションで、メタファーとして、目にしてはいましたが、きちんと通して読んだことがなかったので読んでみることに。
民俗学としてはもちろん、単純に、物語としてもとても面白いです。
『遠野物語』が目当てでしたが、『山の人生』も非常に興味深い内容でした。
様々な逸話を考え合わせて事実を突き止める作業にとてもロマンを感じます。
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伝承文学の原石そのままの魅力を抜き出したような(しかし実際には意図的に漂白された)遠野物語も素晴らしいが、柳田自身の考察が前面に出ている山の人生が抜群に面白かった。日本各地の地方に伝わる神隠しの口頭伝承、それと同時に山の人(つまり、仙人だ)について語られた説話を結び付け、山の人とは日本民族が定住する前からこの地に住んでいた先住民の末裔ではないかと推測するその論はとても刺激的だ。「我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い」という一言は、物語の起源に向き合い続けた者が持つ説得力がある。
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100分de名著で「遠野物語」を読んでいる。その第二回について、こちらに書く。
三人の女神が統べる遠野三山(早池峰山、石上山、六角牛山)は、女神の嫉妬を恐れて女性は登らない。反対に男性の成人儀礼の山となっている。
面白いのは、他の山は男の神様が統べるようになっている。混沌とした神様の体系。ギリシャの神々ともまた、違う。恐ろしい部分と豊かな部分を見せる。まさに自然そのもの。
里や家の中に神様がいる。
オシラサマ、座敷童。
家に福をもたらす神様。
実際にあった豪農の盛衰を語る。孫左衛門の家のことが繰り返し語られる。
柳田は神様は本当にいたと思っていたか。
「不思議であることをそのまま認めていた」
九六 遠野の町に芳公馬鹿とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。この男の癖は路上にて木の切れ塵などを拾い、これを捻りてつくづくと見つめまたはこれを嗅ぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりてその手を嗅ぎ、何ものにても眼の先きまで取り上げ、にこにことしておりおりこれを嗅ぐなり。この男往来をあるきながら急に立ち留り、石などを拾い上げてこれをあたりの人家に打ちつけ、けたたましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすればその晩か次の日か物を投げつけられたる家火を発せざることなし。同じこと幾度となくあれば、のちにはその家々も注意して予防をなすといえども、ついに火事を免れたる家は一軒もなしといえり。
知的障害の人々にも人を超えた能力を持つ人がいる。経済原理のの中の合理主義ではなく、居場所をもたせる。この白痴の男の嗅覚は非常に高かったのか、それともたまたまいつもの奇行が火事の家に当たり、それに尾ひれがついたのか。それはどうでもいい。ともかく、それが人々に語り継がれて、「許されている」しかも本人が去年まで生きてる、ということに、日本人の「人智を超えたもの」との付き合い方がある。
しかも、この男の能力は火事を防げなかった。人間の能力を超えたものは防げない。自然災害に対する日本人の諦めの良さはここから来ているだろう。
自然に対する態度は、それでいいと思う。私だってミサイル程度で殺されるゴジラは見たくない。神々とつながる人々はどうか。白痴の男は、共同体の中では人智を超えた者になった。共同体の中の居場所を与えていることは素晴らしい。しかし彼は自然そのものではない。白痴の人間は、一方では毎日家族が世話をしていた人間だっただろう。しかし、遠野物語の中では自然そのもののように扱われている気がする。神々と人々との付き合い方ではなく、人々と人々との付き合い方はどうするか、その答えを求めるのは、遠野物語の任務ではないのかもしれない。
明治から昭和にかけて、日本は史上稀に見る変革期を迎えた。政治体制の変化だけではなく、生活、民俗の変化が著しかった。その中で失われたものを大切にし、そのエッセンスはもしかしたら、現代に脈々と受け継がれているかもしれない。いや、受け継がれているのである。だからこそ、そこから得るものを探して行きたい。
ずっと昔、常民文化研究会の指導教官だった高桑守史先生との「論争」を、今しきりに思い出している。
(2014.6.17記す)
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昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相異は、実は本人に対する周囲の者の態度にある。我々の先祖たちは、むしろ怜悧にしてかつ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである。
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小林秀雄の「信ずることと知ること」(「考えるヒント3」に収録)、三島由紀夫の「小説とは何か」(「小説読本」に収録)を併せて読むことをオススメ。
読まない先から、のどかな民話集だと思っている人もいるようですがww、序に、山神山人の伝説を「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」という強い言葉が書かれているのを見れば、そういった類のものではないことが判るでしょう。
この序が「名文中の名文」であるという三島由紀夫のコメントに何らの異論も覚えない。
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河童とか座敷童のでてくる遠野物語読んでみたかったのですが早池峰山とかは一度登ってみたいとおもいました。
山の人生の方は神隠しとか山の神に嫁入り、山姥とか奇怪な事例と考察があっが平地に暮らす人々とは違う文化や暮らしぶりが窺われた。サンカのことにも少し触れていましたが流浪の民が日本にもいたことにロマンを感じました。
けれども飽きてしまい最後まで読めませんでした。
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ごく短い物語ばかりたんたんと続くのだけれど、読み進むうちに不可思議な酩酊感に襲われる。文語のリズムが心地よい。京極夏彦のリミックス版と平行して朗読してみたら面白いかもしれない。例えば宮沢賢治との関連を読み解きながら。
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「山に埋もれたる人生あること」
柳田国男は、歴史として農民の厳しい現状を様々な人たちに伝えたかったのではないかと考える。この本が出版されたのが1926年 また、本文の初頭に「三十年あまり前」 と書かれていることから、この本に書かれている時代として1896年以前に起こった貧困問題が書かれているのではないかと考える。なぜ、柳田国男はこのような文章を何のために書いたのか、という事だが、この時代背景として1880年代半ばに起きた日本での産業革命を中心に、政府が農民に負担をかけた地租改正などが、農民から餓死者を増やし、貧困や不景気の問題を巻き起こしていた一つの問題ではないかと考える。また、柳田国男自身が農民の貧しい生活に触れ、感じた経験から、社会的問題の貧困や不景気が人の闇に触れたり、精神的に追い詰められたりすることで自らのこころを失い、人を殺してしまうという事の恐ろしさを伝えている。さらにまた、人間が想像する空想の世界と現実の世界とでは理想の落差が大きく、空想を見つめ現実に目を向けようとしない現実逃避者が多いために、こういう事実があるというのを伝え、改めて農民における貧困や不景気の苦しさを、国民を始め政府に伝えたかったのではないかと考える。このことから、柳田国男は、農民の厳しい現状を伝え空想の世界と現実の世界で巻き起こっている問題について歴史的に伝えたかったのではないかと考える。
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岩手県遠野地方の民話、伝説、伝承、言い伝え、怪談話。昔こんなことがありました的な短い話がたくさん。古い文体で読みにくい。オチのはっきりしない話も多いが、昔話ってそういうもの。
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「遠野物語」は、伝承を百数十個収録している。短いものも多く、歴史的、資料的価値はともかくとして、読み物としてはイマイチ。
「山の人生」は、平地に棲む人間とは異なる山の人間(山男、山姥、大人etc)についての逸話を集めたもの。
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さかしいとか賢いという古い時代の日本語には、普通の児のように無邪気でなく、なんらかやや宗教的とも言うべき傾向をもっていることを、包含していたのではないかとも考える。
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スコヒ、ペィジヒラヒテ、ハゲシク、ココロヲ、ユサブラレタリ、トオノノクニノ、ブンタイニ。
岩手県遠野市に限らず、怪談、民話は日本に流れ着いた異国人や奇形、狂人の起こした実話がもとになっていることも少なくないはず。
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遠野物語は子供の学校の読書リストに入っていて,彼女は読もうとしたがすぐに挫折してしまったらしい.それで私が読んでみることにした.これを読んでいると,私が子供の頃は家の外にも中にもあった真っ暗な闇を思い出す.一種のノスタルジーのようなものも感じる.子供が読めなかったのは文語文のせいだけではなくて,明るい都会に育つとこういう話には心情的に入りにくいこともあるのかなと思った.こういう本が昔は新潮文庫の百冊に入っていたのだ.
「山の人生」は興味がわかず途中でやめてしまった.
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現在では真偽の程を確かめる術がないかもしれませんが、地道な取材によって得られた様々な証言がまとめられている点で、文化人類学上貴重な資料なのだと感じました。
ビックフット(?)は実在したのではないかと少しだけ思いました。
ただ、前半は文語体で読むの大変です。
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【ブッククロッシング待機本】読みたい方はご連絡下さい。
伝承をまとめて、検証した 読み応えあるも 面白い本。
ホントに座敷わらしや 山男に逢えそうな気がしないでもありません。
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『遠野物語』はずっと前に角川文庫で「補遺」まで読んだが、『山の人生』は読んでいなかったので、読んでみた。愛知県や岐阜県の例もたくさん引かれていて面白かった。柳田によれば、天狗や鬼というのは、山に住む漂泊民を平地人がうやまった者で、古代では国津神と呼ばれていた。彼らは平地人よりも大きな身体で、斜面を非常に早く移動することができた。凶悪な者は鬼として武力で討伐されたが、なかには里に買い物にきたり、山小屋でこっそり火にあたっていたり、米の飯をねだりにきたりしていたらしい。また、時には輸送に使役されたりもしていた。山人が配偶者を求めて連れ去ったのが「神隠し」だが、神隠しのなかには自ら山に入った者も多く、女性が産後に山に入ってしまったり、鋭敏な子供が山に迷いこんだりしたらしい。柳田の記述は脱線が多く、これがまた面白い。「カゴメカゴメ」は、鋭敏な子供(申し児)に神の言葉をしゃべらせるため、村人が集団で囲んでマジナイを唱えた行事が子供の遊びに変化したとする。「ゴヘイモチ」は今では「五平餅」と書くが、「御幣餅」「狗賓餅」(ぐひんもち:狗賓は天狗)などと書き、木を伐採する時に天狗や山人に供えたもので、岐阜の鵜沼などではこれを焼くと「天狗が集まってくる」から、村で焼くのではなく、山小屋で焼いたと伝えられている。