あらすじ
数千年来の常民の習慣・俗信・伝説には必ずや深い人間的意味があるはずである。それが攻究されて来なかったのは不当ではないか。柳田の学問的出発点はここにあった。陸中遠野郷に伝わる口碑を簡古かつ気品ある文章で書きとめた『遠野物語』、および『山の人生』は、柳田学の展開を画する記念碑的労作である。 (解説 桑原武夫)
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
「遠野物語」
"願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ"
冒頭文がすばらしいの一言。
「共同幻想論」の後に読んだので、
共同体の抑圧の強さが民話の中から窺える。
たぶん、
小規模だからこそ共同体の幻想が強固にあったのだろうし、
国家が「父的」になればなるほど、
ムラ社会が解体されていったのは必然の帰結なのだろうな。
今はまた、
新たな共同幻想を構築する時期なのかもしれん。
「山の人生」
「遠野物語」のような文語体のほうが、
郷愁の念というか今は昔感というか、
味わい深くて好き。
解説に書いてあるように、
「遠野物語」は学問的というよりも、
文学的な色合いが強いのでしょう。
今では「トンデモ」な設定や話に聞こえるけれど、
当時の習俗に照らし合わせて考えると、
民話と科学的事実の間にある、
共同体の無意識が浮かび上がってくる(ような気がする)。
そういったいわゆる「共同幻想」は、
現在まで活きる「想いの科学」とでもいうのか、
そんな視座を与えてくれる、
という点で本書の試みは、
当時の実証主義的な歴史学への警鐘でもあり、
また活きる学問への啓蒙でもある。
今の日本人というのが、
もともと日本にいた土着の「国つ神」と、
海からの渡来の「天つ神」の混血という話は他の本にも出ていたけれど、
この本で言う「山人」が国つ神の末裔ではないかという考察は、
肯んずるに吝かではない。
というのも、
日本の律令制の導入には、
渡来の人たちが大きく関わっているわけだから、
(天皇家には朝鮮半島から来た人の血が入っているらしいし)
「古事記」や「日本書紀」にある、
国つ神から天つ神への「国譲り」もそのような文脈で捉えると、
結構わかりやすいんじゃないかしら。
そうしてヤマトタケルの東征の話にあるように、
天つ神の勢力が大きくなるにつれ、
国つ神が平地からどんどん追いやられていった。
それが「山人」なんじゃないかな、と。
それから、
天狗が坊さんの格好してるのは、
修験道の開祖である役小角からくる山岳信仰が影響しているみたい。
ナウシカの「森の人」も「山人」の影響下にあると思う。
Posted by ブクログ
「遠野物語」を目当てで購入したのだが、それを加味して読む「山の人生」での考察が面白かった。
鬼や天狗などは初めからその存在の伝承が囁かれていたのではなく、前提となる事情があり、それに説明がつけられたものだという風な指摘が印象に残った。だから別の妖怪でも特徴が一致していたり、また、地域によって異なる風貌で言い伝えられていたりする。
神隠しや山男の発祥についても触れられている。自分では考えてもみなかった可能性や背景が示唆されており、膝を打った。
Posted by ブクログ
中学校の修学旅行で岩手に行くことになり、事前に研究発表会が行われたとき
発表内容に一部を調べるのに使ったのが遠野物語でした。
様々なフィクションで、メタファーとして、目にしてはいましたが、きちんと通して読んだことがなかったので読んでみることに。
民俗学としてはもちろん、単純に、物語としてもとても面白いです。
『遠野物語』が目当てでしたが、『山の人生』も非常に興味深い内容でした。
様々な逸話を考え合わせて事実を突き止める作業にとてもロマンを感じます。
Posted by ブクログ
「山に埋もれたる人生あること」
柳田国男は、歴史として農民の厳しい現状を様々な人たちに伝えたかったのではないかと考える。この本が出版されたのが1926年 また、本文の初頭に「三十年あまり前」 と書かれていることから、この本に書かれている時代として1896年以前に起こった貧困問題が書かれているのではないかと考える。なぜ、柳田国男はこのような文章を何のために書いたのか、という事だが、この時代背景として1880年代半ばに起きた日本での産業革命を中心に、政府が農民に負担をかけた地租改正などが、農民から餓死者を増やし、貧困や不景気の問題を巻き起こしていた一つの問題ではないかと考える。また、柳田国男自身が農民の貧しい生活に触れ、感じた経験から、社会的問題の貧困や不景気が人の闇に触れたり、精神的に追い詰められたりすることで自らのこころを失い、人を殺してしまうという事の恐ろしさを伝えている。さらにまた、人間が想像する空想の世界と現実の世界とでは理想の落差が大きく、空想を見つめ現実に目を向けようとしない現実逃避者が多いために、こういう事実があるというのを伝え、改めて農民における貧困や不景気の苦しさを、国民を始め政府に伝えたかったのではないかと考える。このことから、柳田国男は、農民の厳しい現状を伝え空想の世界と現実の世界で巻き起こっている問題について歴史的に伝えたかったのではないかと考える。
Posted by ブクログ
「遠野物語」は、伝承を百数十個収録している。短いものも多く、歴史的、資料的価値はともかくとして、読み物としてはイマイチ。
「山の人生」は、平地に棲む人間とは異なる山の人間(山男、山姥、大人etc)についての逸話を集めたもの。
Posted by ブクログ
『遠野物語』はずっと前に角川文庫で「補遺」まで読んだが、『山の人生』は読んでいなかったので、読んでみた。愛知県や岐阜県の例もたくさん引かれていて面白かった。柳田によれば、天狗や鬼というのは、山に住む漂泊民を平地人がうやまった者で、古代では国津神と呼ばれていた。彼らは平地人よりも大きな身体で、斜面を非常に早く移動することができた。凶悪な者は鬼として武力で討伐されたが、なかには里に買い物にきたり、山小屋でこっそり火にあたっていたり、米の飯をねだりにきたりしていたらしい。また、時には輸送に使役されたりもしていた。山人が配偶者を求めて連れ去ったのが「神隠し」だが、神隠しのなかには自ら山に入った者も多く、女性が産後に山に入ってしまったり、鋭敏な子供が山に迷いこんだりしたらしい。柳田の記述は脱線が多く、これがまた面白い。「カゴメカゴメ」は、鋭敏な子供(申し児)に神の言葉をしゃべらせるため、村人が集団で囲んでマジナイを唱えた行事が子供の遊びに変化したとする。「ゴヘイモチ」は今では「五平餅」と書くが、「御幣餅」「狗賓餅」(ぐひんもち:狗賓は天狗)などと書き、木を伐採する時に天狗や山人に供えたもので、岐阜の鵜沼などではこれを焼くと「天狗が集まってくる」から、村で焼くのではなく、山小屋で焼いたと伝えられている。