柳田国男のレビュー一覧
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この本は柳田が生前に編んで出版したアンソロジーで、一応、民俗において「女性」が登場する論説が収められている。
最初の方の「巫女」論はおもしろい。女性を<自然>の権化とみなす世界観は、きっと妊娠・出産・月経といった現象が、密接に森林や夜の月などといった「世界」に結びついているように見えたことから発祥したのだろう。このような傾向は、もちろん、日本に限らず世界中のあちこちに見られた。
女性=自然だからこそ、その中から生まれてくる新生児は<自然>から派出してくるのだ、という確信が、そこにはある。
けれども、この本の後続の論文はシャーマニズムから離れ、単に女性が「ちらっと」出てくるだけのようなものもある。女性をテーマとした論文集としてはちょっと弱いのである。
解説によると「巫女考」という柳田の論文が重要で、優れているらしいが、これはどうやら私は持っていないようだ。どこで手に入るだろうか? -
Posted by ブクログ
いろいろな「遠野物語」が出てますが、表紙がきれいだったのと「拾遺」が収録されているのでこれを購入
山の神様や家の神様、野辺の狐狸や狼、猿などなど
神さまや仏様が田植えをしてくれたり火事を消してくれる話が、なんだかほっこりとして好きです
「真面目に信心すればいざという時に助けてくれる」という教訓話として片付けたくない温かみを感じるのは、柳田国男の文才のせいかなあ
狐狸や猿のいたずらに対しては、けっこう容赦がない(笑)
狐汁にして美味しくいただきましたとさ、ちゃんちゃん
農作物を荒らすこともある獣に対しては、農民は憎しみも持っているだろう
本当に表紙がきれいだし手触りもいいから、シリーズの他のものも欲しくなってしまう
一つ目小僧とか好きですし -
Posted by ブクログ
柳田国男の86歳のときの最後のメッセージといわれる。
前にも、一度読んだことあるが、
そのときは、『つまんない』という感じだった。
あまり、重要なことが言われていないと思ったのだ。
今回読んで、同じ感想だった。
民俗学の考えていることは
なぜこんなに、つまんないのだろうか。
大きなテーマは
『日本人はいかにしてわたってきたのか』ということである。
西海岸を伝う方法と東海岸を伝う方法
風の言葉の収集から・・みえてくること。
椰子の実が、伊良湖岬の海岸に流れ着いたこと
宝貝を求めて沖縄 宮古をめざす
漂流物は 椰子の実だけでなく 人間も漂流する
日本はコメ作国家であるが モミだけでは稲作は伝わらない。
という この構成の仕方は、
風、椰子、人間、コメが 海上の道を通ってやってきた。
ということなのだろう。
ふーむ。
コメが伝えわったことが 日本の文化の中心になった。
何だろう、この物足りなさは、
松岡正剛は、千夜千冊で
海上の道
のなかで、
松岡正剛は言う
『柳田の民俗学は思想の言葉をもたなかった。
見聞をしたことを記載することが柳田の方法で、
それを聞き書きというなら、
まったくそれ以上でもそれ以下でもなかった。』
というのが、正しいのかな。
柳田国男小論
日本の歴史の流れから 柳田国男の変遷が詳しく書かれている。
日本の植民地政策(外なるもの;台湾、朝鮮、内なるもの沖縄、アイヌ)
との関連で、詳しく述べられている。実に参考となる論証である。
海上の道の始まり
貨幣としての宝貝
殷の時代に 宝貝が貨幣だった。
その宝貝は ベトナムもしくは 沖縄からとどいた・・。
殷の時代のヒトが 沖縄にたどり着き 定住した。
それが、コメの文化の始まり?
そして 沖縄特有の酒 泡盛 はどのように来たのか?
柳田国男は 学生時代に 伊良湖の海岸で
椰子の実 を見たことが
日本人はどこから来たか?
という疑問の発端だった。
椰子の実を見た事が、島崎藤村の詩に結実する。
日本は島国なので、
どこからこようと『海』を渡るしかない。
樺太経由であろうと 朝鮮半島経由であろうと
海を通ってやってきた。
柳田国男の 『海上の道』は、黒潮の道だった。
黒潮に乗って やってきた文化。
黒潮が日本でぶつかるときには 沖縄である。
その沖縄が 黒潮から運ばれてきたものを、
一時的に 受けとめ そしてヤマトへ 運んでいく。
沖縄に 黒潮文化が根付いていないといけない。
モミは 黒潮に乗って、沖縄にたどりついたとしても
沖縄の稲作の遺跡は 古いものは残っていない。
私は水田を 石垣や伊平屋島でみたが、
日本の原風景のようなイメージが あった。
なぜ、沖縄に 稲作文化が根付かなかったのだろうか?
それが 九州南部では 稲作の古い遺跡が見つかっている。
海上の道は モミをはこばなかったのだろうか。
柳田国男は、
海上の道の 先は ミクロネシアやポリネシア インドネシア
と想定していたのだろうか?
それとも、ベトナムから中国福建省だったのだろうか?
どうも、稲が伝わるという意味では 福建省を考えていたのだろう。
イネが雲南起源説であり 照葉樹林文化という考え方で言えば
福建省から海上の道で、やってきたことも考えられるが、
(泡盛が・・・タイから もしくは 福建省経由できたように、
(沖縄のお墓の形式が福建省から来たような。
そいう伝わり方の中に モミがなかったのだろうか?
イネの起源説が 揚子江の中流域となったことによって
少し、様相が違うような気がする。
モミと稲作文化は、
揚子江中流域からはじまり、揚子江の河口に ながれて、
九州南部にたどり着いたのだろうか。
確かに ニンゲンは ハプロタイプからいえば
海上の道を漂流してきたようだ。