・石井正己編「菅江真澄 図絵の旅」(角川文庫)は読んだといふより見たと言ふべきか。書名通り図絵中心の書である。真澄は三河の生まれの人だが、その絵は東北のものが多い。若い頃旅立つたまま、こちらに帰ることなく亡くなつたからである。彼の絵は独特のもので、その絵の「真澄独特の稚拙な表現は、文人の間に流行して
...続きを読むいた真景図とは違って、御伽草子絵に近い」(辻惟雄、331頁)ものであるらしい。風景画も多いが、民俗的な絵も多い。個人的にはこちらに興味がある。真澄は2400点ほどの絵を残してゐるとい ふ。それからすればここに載るのは112点、20分の1以下である。それでも色がついて細かなことまで 分かるやうになつたのはありがたい。
・真澄30歳、旅立つたばかりの頃の絵、七夕人形(26頁)、これはつるし雛である。伊那といつても松本に近い場所である。松本の押し絵雛のやうなものであらうか。軒端に7つの人形がぶら下がつてゐる。刀を差す人形もあるから、子供ではなく大人なのであらう。七夕行事の人形であるといふ。これにどのやうな 行事が伴つてゐたのか、残念ながら分からない。てるてる坊主もある。一気に北海道に飛ぶ。「てろてろぼ うず」(46頁)である。これは変はつてゐて、半分に切られたのが木にぶら下がつてゐる。しかも逆さまである。「雨が晴れると、このてろてろぼうずを一つに合わせて完全な形にし、御馳走をしてお礼を申すという。」(同前)かういふことをする地域が今でもあるのだらうか。これはアイヌの習俗ではないといふ。ついでにずつと後ろに飛ぶとおしらさま(258頁)がある。真澄晩年の絵である。多くの布に包まれた2体もあるが、男女や馬、鶏もある。馬娘婚姻譚と言ふから、馬と娘が多いのかと思へばさうでもないのであるらしい。真澄の時代も現在も変はりなく信仰されてゐるのはさすがと言ふべきか、19世紀初めのおしらさまを見ることができるのである。珍しいものをかうして描いて残してくれたのは本当に有り難い。関連して恐山がある。真澄40歳の頃の絵である。見開き2枚の絵が載る。左側75頁の絵は参道から地蔵堂を描 く。地蔵堂は小さいやうな気がする。今の地蔵堂はそこらの寺の本堂くらゐはある。ところがここのは、灯籠や石段と比べると、そんなに大きなものとは見えない。村の地蔵堂といふ感じであらうか。恐山といつたところで、現代のやうに人が多く行くやうな場所ではなかつた。これで良かつたのかもしれない。手前には 温泉がいくつか、これは現代と同じである。左手には煙が出ているところがいくつもある。昔も何とか地獄と言つたのであらうか。ここを更に行けば宇曽利湖なのだが、これは右の74頁にある。三途の川は丸木橋 である。人の姿が見えないのは実際に人がほとんどゐなかつたのであらうか。イタコの口寄せでもと思ふのだが、「この時代にはまだ(中略)イタコの口寄せは見られない。」(73頁)さうである。あれも人がゐてこそ成り立つ。さういふ事情であるかどうか。とまれ、恐山が昔から荒涼とした風景であつたことが分か る。その他、112点しかなくても十分におもしろく見ることができる。これがオールカラーで全点そろつ てゐたらと思ふ。壮観であらう。そして民俗や風景に関する多くのことを教へてくれるはずである。個人的には、真澄が若い頃に絵を描かなかつたのが残念でならない。若書きでも習作でも、三河周辺の絵が残つてゐればどれほどおもしろいことか。風景であれ民俗であれ、真澄の目は確かである。真澄の目で見た江戸の 三河の風景を見てみたいと思ふ。しかし、東北の風物で我慢するしかないのが残念である。