岸本佐知子のレビュー一覧
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かなり面白かった。エンデの『モモ』や太宰治の『トカトントン』がしれっと出てくるあたりも、個人的には妙に信頼できた。
岸本さんは、なんだか生きづらさを抱えやすいタイプな気がする。でも、その生きづらさを太宰みたいに重苦しく見つめるのではなく、ユーモアや想像力(妄想?)で遊びに変えてしまう。
「書くことなんて何もない。頭の中をひっかき回し、苦しまぎれに壺の蓋を開けてみたら、何十年にもわたって“なかったこと”にしてあったものがどろどろに発酵していた」
(あとがき)
まさにその言葉どおりのエッセイ集。
「なんかよくわからんけどこの人楽しそうでいいなw」と思わせてくれるのがすごい。 -
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面白かった。有名な古典小説「罪と罰」をネタにした対談集。
前半は、この小説を読んでいないメンバーが読まないままに語り合う座談会。最初はこれまで知っていた断片的な知識を元に内容をあれこれと内容を想像し、途中から各章ごとに数ページを抜き出して読み、それを元に内容を「推理」する。これらが面白い。断片から空想を広げていくわけだが、その過程がとてもファンタスティックである。新しい断片を読む度に、これまでの想像が更に飛躍していったり、ひっくり返されていったりするさまもスリリングである。
いったん座談会が終わってから各自が「罪と罰」を読み、そのあとで語り合うのが後半の座談会。読む前の座談会の答え合わせ及び振り返りという感じなのだが、ひとりひとりの読みが鋭くて読んでいて知的好奇心を大いにそそられた。また、作品に対するリスペクトが随所に感じられて、とても気持ちがよかった。
僕自身は、高校生の時に「罪と罰」を読んだ。1週間もかからず一気に読んだように記憶している。それなりに読み応えがあったが、古典的名作という以上に強く印象に残ってはいなかった。改めてこの座談会の記録を読んで、あたらめて読みたくなった。たぶん、以前とはまったく違った印象を持つに違いないと感じる。 -
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ネタバレ日本翻訳大賞の選考委員の岸本佐知子さんの訳書。
岸本さんはエッセイ集『ねにもつタイプ』は読んだものの、遅読の僕は訳書は本書が初めてかと思ったが、かろうじてショーン・タン『セミ』だけは読んだことがあった。
これは面白い!
小国〈内ホーナー国〉が、隣の大国〈外ホーナー国〉に侵略されるお話。
二十世紀に引き続き「戦争の世紀」となった二十一世紀では、いたるところで際限もなく繰り返されているお話ではある。
作者のソーンダーズは、二〇〇五年に四冊目の著作として本書を発表した。
当時のアメリカは「ブッシュ・ジュニア」大統領の時代で、同時多発テロからイラク戦争へという頃である。/
【国が小さい、というのはよくある話だが、〈内ホーナー国〉の小ささときたら、国民が一度に一人しか入れなくて、残りの六人は〈内ホーナー国〉を取り囲んでいる〈外ホーナー国〉の領土内に小さくなって立ち、自分の国に住む順番を待っていなければならないほどだった。】(本書。以下同じ。)/
やむを得ず隣国の〈外ホーナー国〉にはみ出してしまう、そんな内ホーナー人を外ホーナー人たちは苦々しい思いで見ていた。/
【「さて、では採決しよう」とフィルが言った。「祖国のため、これ以上の暴力行為を防ぐために、われわれはこの侵略者を解体するのか、しないのか?」】/
【ああでも、とフィルは思った。なんかいま調子が悪い気がする。いまはよく考えるのことがひどくできない。あのいまいまし脳はどこイた?どこに置いテきたですか?長いことお出かけになりやがっているよ脳は。これではスバラシ名案が浮かばれないのも無理もない。俺はあの変てこなぐるぐる歩き侵略者どもに言てやりたイのだ、貴様らなんかに俺たちの気持ちがわかられますか、あのヒトデナシ人どもと隣り合わせて生きるねばならない気持ちが、あのやくざヒトデナシ連中は自分らをヒトと思い上がり、俺たちの素敵大きい土地広いをみだらに欲しがり、俺たちが広い大きい先祖土地すばらしいに住んでいるからといって憎々しい目でこっちを見る。それのこと話たい。なのに急にいま口が素敵にしゃべれない。】/
ソーンダーズと岸本さんのコラボによる名調子に酔い痴れる。/
ソナケデ、僕もドモシテモ イトコト言テやられたくナタ。
アメリカ人さんエ、
(外国人宣教師のイントネーションで)
「オウヲ シンジマスカ?」
また、〈入管〉のオマワリさんエ、
(東京オリンピックの時の〈オ・モ・テ・ナ・シ〉のリズムで)
「ヒ・ト・デ・ナ・シ!」/
ソーンダーズと岸本さんの訳書がガゼン読みたくなってきた。 -
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目の前にゴツゴツした石塊がある。
なんだか殺風景に見えるが、それをハンマーで叩いて割ると、キラキラと輝く断面が現れる。宝石の原石だ。しかも割るたびに様々な色合いの光を放つ不思議な石。
この短編小説集を読み終わって頭に浮かんだのは上記のようなイメージだ。
本書には22の短編が収められている。
最初は、突然ざっくりと切り取られた日常の断片が目の前に無造作にボン、と放り投げられたような印象で、面食らった。
次の短編、またその次…と読むうちに気づく。
場所も時代も、語り手の職業も年齢も全然バラバラだが、なんとこれは同一人物の物語だ。
著者のルシア・ベルリンは、アラスカで鉱山技師の家庭の生まれ。鉱山町を転々とし、戦時中はエルパソに転居し母方のアル中親族に囲まれ孤独で過酷な日々を送り、二度の退学を経験。その後チリに移住。打って変わってそこでは上流階級の仲間入りをし、ミッションスクールに通う。メキシコの大学進学後は、3度の結婚を経験し、四人の子供をもうけ、カリフォルニアやバークレー等に移り住みながら、掃除婦、教師、電話交換手、看護助手などをしながら、自らもアル中に苦しむ。その後は…
ともう、この時点で一人の人生としてはお腹いっぱいというくらいに千変万化で、落差も大きい。
どの短編も、基本的には著者の体験に基づく、言ってしまえば「ちょっと話を盛った思い出話」なのである。
しかし、それなのにまるでプリズムのように様々な光を放つ作品集ができあがっているのである。
さて、「光」や「輝き」という喩えを用いてきたが、実は内容を見ると、親族からの虐待、学校でのいじめ、生まれついての病気、3度の離婚、重度のアル中、妹の逝去……と明るい話なんて殆ど無い。
本人がそんな境涯だから、彼女の周りに現れる人々や世界もはみ出しものや落伍者ばかりであり、モチーフとしているものはどちらかと言えば暗い。
「どんな悲惨なことでも、笑い話にしてしむえるのなら平気で話す」
と語り手は言う。
本作の語り口は、テーマに関わらずどこか穏やかで、時に軽妙でリズミカル。トントントン、と繰り出される言葉にするっと読まされてしまう。
はっきり言うと、本書を2/3くらいまで読んだ時点ではまだ本書には全然ハマっておらず、実話の羅列ではないか…くらいに思っており、著者と相性良くないな。と思っていたのだが、段々と魅せられてしまったのか慣れたのか、『さあ土曜日だ』から先の3編はとても良かった。
一つ残念に思うのは、巻末のリディア・デイヴィスが寄せた文章によると、ルシアの文章の真髄を味わうには英語の原書を読むのがどうやらベターだと言うことだ。
私が英語が読めたなら、本書の評価はもっと変わるのかもしれない。 -
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ネタバレジョージ・ソーンダーズ、またイカれた本である…面白かったです。
〈内ホーナー国〉〈外ホーナー国〉〈大ケラー国〉、どの国民も意味わからない形態をしているので寓話的になってますが、
フィルがこうなった原因がほとんど逆恨みみたいなものだということ、フィル以外は内も外も善悪ハッキリ付けられないくらいに流されてる人たちということ、引っ掻き回すマスコミと中途半端に介入し満足して去っていく第三者の国〈大ケラー国〉がいること…はやけに現実的でした。
悪い夢みたい。
元々全員が〈異形の者〉だったはずが、それはもう「フィルの体」に付けられた名前でしかなくなった。
でも、分断の気配が残り続けてるという終わり方なので、また繰り返されるのかもこれは〜という苦味が残りました。
後書きも面白かった。
「時とともにみずからを更新しつづける」作品、本当にそうです。
今の情勢だから、フィル=ドナルド・トランプだと思ってしまうけれど、この先は別の人が当て嵌められる日もくるかもね。たぶんね。 -
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これは、どこかの世界の独裁政権者のおとぎ話。
……と考えられたら、どれだけよかっただろう。
2026年の今この本を読むと、
某国の大統領の顔がちらついてしまって、背筋が寒くなった。
『短くて恐ろしいフィルの時代』ジョージ・ソーンダーズ
独裁政権をコミカルに描いた寓話の代表格といえば
言わずもがな、ジョージ・オーウェルの『動物農場』。
登場人物は動物たち。
けれど、誰が権力を握ろうとも、
結局また次の独裁者が生まれる…
そんな痛烈な風刺を描いた作品だ。
そして本書『短くて恐ろしいフィルの時代』でも、
権力の座についた人物は独裁へと傾き、
やがてジェノサイドを始める。
まさに、この時代に読むべき物語だと思った。
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最初は、一度に一人しか入れない<内ホーナー国>と、
それを取り囲む<外コーナー国>という設定に、
「なんじゃそれ??」という気持ちで読み始めた。
けれど<外コーナー国>の国民たちは、
なぜか<内コーナー国>の国民を見下していて、
何かと理由をつけては税金を取り立て、
むしり取るものがなくなると、どんどんエスカレートしていく。
登場人物たちは機械や動植物のパーツでできているから、
表現そのものはどこかマイルドに見える。
でも、これが生身の人間だったら…と思うと、
その地獄の輪郭が急にはっきりしてくる。
そして何より恐ろしいのは、
その地獄が現実の世界と地続きに見えてしまうことだ。
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「河出文庫ベスト・オブ・ベスト2025」のキャンペーンで
ヒグチユウコさんの装画に惹かれて手に取った一冊でした。
さらりと読めてしまうのに、
『動物農場』と同じように、
きっとずっと記憶に残り続ける物語。
いちばん恐ろしいのは、思考を止めてしまった人間たち。
風見鶏のように権力者へ迎合していく人間たち。
自分はそうなっていないか。
ふと、立ち止まって考えてしまいました。 -
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短編集という形になっているが、作家自身がモデルと思われる主人公の人生が断片的に描かれている。
語られるのはなんとも不条理な人生。生まれ持った障害、虐待、アルコール依存症、貧困、差別。それを淡々と語る。ユーモアも淡々と。その淡々と語られる言葉がなぜだかとてもきらきらしていて、目の前にぱっと情景が現れる。そしていつの間にかどっぷり嵌っているのだ。ただ、どんどん読めるという作品ではない。ストーリーというよりは言葉を味わう作品のように思う。
訳者の岸本佐知子さんの力も当然あるとは思うが、ルシア・ベルリンが生前に見出されなかったのが信じられないくらい。 -
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2026.20
本屋さんに行く度に表紙とタイトルに惹かれて
毎回買うか悩んで買わない
それを10回くらい繰り返したあたりで買った
読んで良かった
前半の「火星から来た男」「キッチンドア」が
ものすごく印象に残っている
とくにキッチンドアで感じる
恐ろしい戦争の足音のようなものが
今の不安な気持ちとリンクしてゾワゾワした
差別や蔑視について考え
じんわりとした痛みを感じる短編集だった
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P43 何年かが過ぎ、新聞や雑誌の紙面が戦争の記事で埋めつくされるようになって、クリスティーは初めて彼の来た国がアジアのどこにあるのかを知った。その国の名は知ってはいたが、気にも留めていなかった。あまりにも馴染みの薄い地域だった。彼女の頭の中ではそのあたりの国々がいつもごちゃまぜになっていた。
だがどんなに考えても、彼の住む都市の名前までは思い出すことができなかった。絵はがきはとうの昔にどこかへ行ってしまった。彼は(北)だったろうか、それとも南)?彼は戦争の近くにいるのだろうか、遠く離れた安全なところだろうか?クリスティーンは何かに憑かれたように雑誌を買いあさり、一つひとつの写真を食い入るように見つめた!死体になった村の住民、行進する兵たち、大きく引き伸ばされたカラー写真の中の替えた顔、怒った顔、処刑されるスパイたち。地図をたどり、深夜のニュースを見、やがて遠いところにある国とその周辺は、彼女にとって自分の国より近しいものになっていった。一度か二度、彼を見つけたように思ったこともあったが、けっきょくは無意味だった。どの顔もみな彼に見えた。
P75 ベティが死んだと知らされたとき、私はいずれ自分も同じ運命をたどるのだと思った。あんなに他人に尽くし、好意を示したことへの代償がこれなのだ。それが彼女や私のような女(と当時の私は思っていた)の運命なのだ。
P90 この頃になるとようやくミセス・バリッジも、前の戦争のときのように報道官制が敷かれていることを知るだろう。バリッジにはその先がどうなるかは確信がない。いや、どうなるかはわかっているのだが、どういう順序でかは確言がない。彼女の予想では、次に来るのはガソリンと石油だ。いつも家に来るガソリン屋が時間になっても現れず、角のガソリンスタンドはある朝突然開鎖される。ただそれだけ、何の説明もない。
P222 私たちは現実世界に生きている。正確には、自分たちが現実だと思い込んでいるものの上に生きている。本物の現実世界(というのも妙な言い方だが)はグロテスクで、いびつで、危険に満ちている。私たちはその化け物じみた現実に背を向け、肌触りのいい人工の現実をつくりあげ、その上にあぐらをかいている。目を閉じ耳をふさぎ手足をひっこめ、自分はイノセントであると主張している。 -
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優れた社会風刺の小説であることは、言うまでもない。
本筋のテーマより、むしろ、わたしが興味を惹かれたのは、「小説を読んだ時に、イメージされるもの」の謎である。
実は、それは「読書の快楽」の根幹ではなかろうか?
そして、さらには、人間の認知に関する重要な謎ではなかろうか?
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本作の情景や登場人物を、頭に「正確に描く」ことは、極めて難しい、というより不可能である。
(想い描くことが難しい文章を、読者に次々と投げかけることが、ジョークであり、コメディとして機能しているのだが)
だが、「なんとなく描く」ことはできる。
というより、あきらかに正確ではないが(細部や、空間的な連続性はないが)、なんとなく絵が思い浮かんでくる。
この「なんとなく思い浮かんでいる」という事態そのものが、本当は、ものすごく不思議なことである。
(子供の頃に、この不思議さに、うっすらと気がついていたような記憶が蘇ってきた…。この人間の能力は、けっこう難しいから、子供向けの本には「挿し絵」が付いているのだろうか)
読書中の頭の中の情景理解を、絵に描き写すことはできない。
描き写せば、その時点で別物になってしまう。
細部が存在しない・連続して繋がっていないものに、具体的な細部や、空間的な連続性を描かなけばならないからだ。
写実的には描けないし、描いたら「ウソを描き足す」ことにになってしまう。
もし、本作をアニメ化したとしたら、それは、読書後に腰を据えて、読書中には無かった「細部や、空間の連続性を描き足す」ということである。
読書中でも、部分図や、その配置図や、その関係図は、理解されている(ように思える)。
この論点は、実は、とてつもなく重要ではなかろうか。
読書の「楽しさ」というより、読書の「快楽」の根底に、この「イメージすること」の、圧倒的な不思議さが、大きく関わっている気がする。
わたしたちは、本当は、何をイメージし、何が伝達されているのだろうか?
この疑問は、本作のような「シュールなお伽話」だと気が付きやすいが、「現実的・写実的な小説」でも同様のことが起こっているのは間違いない。
つまり、日常会話を含む「言葉で語られる物語全般」でも起こっていることである。
さらに言えば、物語に限らず、「哲学書や論文」、果ては「数式」まで含む、「すべての言語表現」においても、起こっていることではなかろうか。
つまり、「言葉によって、何が描かれ、何が伝達されているのか?」という謎である。
これは、本当に不思議である。
この謎について、わかりやすい研究書などが出ていないだろうか?