磯崎憲一郎のレビュー一覧
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ネタバレ⚫︎受け取ったメッセージ
人生に起こる様々な出来事は
時間と距離を持って俯瞰すると
まとまった一つの風景として見える
そしてその風景が
近景しか見えないか、遠景しか見えないか、
両方とも見えるのかは
人それぞれ。
⚫︎あらすじ(本概要より転載)
結婚すれば世の中のすべてが違って見えるかといえば、やはりそんなことはなかったのだ―。互いに二十代の長く続いた恋愛に敗れたあとで付き合いはじめ、三十を過ぎて結婚した男女。不安定で茫漠とした新婚生活を経て、あるときを境に十一年、妻は口を利かないままになる。遠く隔たったままの二人に歳月は容赦なく押し寄せた…。ベストセラーとなった芥川賞受賞作。
⚫︎あ -
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そうそうたる顔ぶれがそれぞれに「利他」について説いているんだけど、何となく見えてくるものがある。特に、伊藤亜紗と中島岳志の利他論に学ぶところが大きい。すなわち……。
利他とは、人のためになることのようなとらえ方が一般的だと思うけど、それを意識的にするのは「利他」ではない。何らかの気持ちのメカニズムが働くにせよ、本人的には説明がつかないうちに、自分のためでなく動いてしまうことが利他なのだ。
一生懸命に利他的なよき人物であろうなどと努めてしまうが、そんなことを考えているうちはまだまだということだろう。考えてみれば、利己的な言動だってわざとそうしているのではなく、自然とそうしてしまうからこそ利己的な -
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ずっと以前から、私が求めていたものは利他だったんだなぁとわかった。
小さい頃から「意志が弱い」ことがコンプレックスだったけど、むしろその「余白」が私には力になっていたのかもしれない。
状況に身を置き、そこから生まれる力にほだされて、気づいたら動いてしまってきた。
「そうやって仕事増やして、自縄自縛してる」
これも真実だろうけど、それは「だから私はダメなんだ。バカ」ということに帰するのではない。
そもそも、状況に流されてまとまりがつかなくなったという物語の帰結で私をマイナス評価する必要なんてないのに、そういう気持ちにさせられてしまうのはなぜなのか。
他者から受ける評価への恐れ、かな。
もっと -
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かなり好きだった。「次に妻が彼と話したのは、それから十一年後だった」がカッコよすぎる、それまでの澱みからこの跳躍。観覧車のゴンドラに最後もなにもない、どれもが最初であり最後でもありそしてやはりそのいずれでもない、そういう時系列のない壮大な循環のなかで一つ一つの出来事、そして人間が偶発的な成り立ちをしている。だから複数いた女は結局ひとつの人格でしかないともいえ、彼の発案した商品だって無数の可能性のなかでたまたま彼がその役を引き受けたに過ぎないし、妻の「いまに限って怒っているわけじゃない」という言葉もそこに収斂される。そしてそういったことを受け容れたときにようやく、家を建てる=場を固定するという決
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二十代の長く続いた恋愛の終わりを迎えた者同士が夫婦となり、不安定な関係のままある出来事を境に夫が妻に
11年間口を聞かれなくなるというストーリー。
あらすじからして感じが悪くかなり人を選びそうな題材ですが、如何様にもドロドロした愛憎乱れる悲喜劇のようなテイストに
できそうなものを徹底して冷え冷えとしてかつ、引いた視点で物語が淡々と進んでいくのが余計居心地が悪いと感じます。
登場人物の名前は一切出てこず、主人公の男視点で進むにも関わらず、3 人称の彼というフレーズが使われるくらい冷え切った文体です。
不気味な読後感と抗いようもない時間の無常さにぐったりときました。
好み別れる作風だと -
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この作家のことを知っている訳ではないが、私小説のようなプロローグは自身が過去に何処かで経験した幾つかの場面を組み合わせて再現したものなのだろうな、と直感する。話の展開の妙ではなく切り取られた一つの場面に内在する数多の感情の一つ一つに意味を見出そうする文体は保坂和志を彷彿とさせる。自分自身が気付いてすらいなかった感情が何処から湧いてくるのか、それを探って言葉に投影してみる。ジャームッシュのオムニバスの中の短篇映画の一つを根掘り葉掘り解説したらこうなるとでも言うように。しかし、前後関係も何もかも無視して絡み合う融合した複数の感情(それを感情という言葉にした瞬間に言い表したい事の半分は指の間をすり抜
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この人の書く本には常に、何というか骨子というか主張というか「言いたい事」と言う物が一つあって、そんな事を言えばどんな作家だってそうなのかもしれないが、そういうレベルでは無く、もっと明文化された「本論の骨子を一行で書け」とか言う試験問題の答えの様に、シンプルに削ぎ落とされた物を構築してから書き始めてるんじゃないかと思わされる。それ程ゴツイ鼻筋が通っている。
「赤の他人に、、、」もそうで、タイトルに表される主題ー置き換えの効かない自分の人生と実は誰でも良かったんじゃないかと言う実感ーを表す為に、主人公の想像と話中の現実の境目がどんどん曖昧なって行く。
どこに連れていかれるか分からないという評が帯に -
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意識の波のようなものを感じた。語り手はどんどん移り変わり、過ぎていく。個々の意識など瑣末なことだと言わんばかりに、人類全体を包む大きな波の中で、たゆたう感覚。
コロンブスの話の後に出てくるチョコレート工場で働き始めた青年が、冒頭の兄妹の兄の方と同じ人物であるとは言い切れない。さらにそれは、妹や両親にいたっても同じことが言える。イコールであると同時にノットイコールなのだ。どちらであっても同じことで、大きな意識の流れの中で、それを区別することは出来ない。
瓜二つの顔、瓜二つの人生、瓜二つの意識。「人間」という一括りの存在として、死ぬことも生きることも、大きな円環の中を巡り巡っているように感じる。
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「贈与」や「利他」がタイトルに含まれる本が増えていますね。
現代に生きる私たちは、交換や利己によっぽど疲れているのでしょうか。
ただ「贈与」や「利他」に漂う胡散臭さがあるのも事実。
結局人間は純粋に利他的には生きられないのではないか。
最近、私の考えていたことです。
この本を読んで、その考えは合っていると感じるとともに、
利他は意図せずしっかりと存在することも実感できました。
それは自分という器を誠実に生きるということ。
自分が全力になれることを全力でやることが、人類の歴史や系譜に奉仕することになるという作家・磯﨑憲一郎さんの言葉は、私たちの迷いを幾分和らげてくれるのではないでし -
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「利他」に偽善的なものを感じつつも、必要なものだよなあという気持ちもあり、興味のあるテーマなので読んでみた。
正直3章以降は難しすぎたのだけれど、伊藤亜沙さん、中島岳志さんの文章に、何度も視野を広げてもらった。以下、特に印象的だった部分のメモ。
伊藤亜沙さんの文章では、効果的利他主義という考え方を知った。徹底的な「評価と比較」をして行う利他だ。
例えば、他者のために働きたいと考える若者が、限られた給料のNPOに就職したりせずに、ウォール街でお金を稼いで寄付する方を選ぶというような考え方となる。
利他の原理を「共感」にしないのが目的らしい。共感によって行う利他では、ふだん出会うことのない遠い国 -
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「日本蒙昧前史」がすごくおもしろかったので続きもと思って読んだけど、まさかパンダ初来日や石坂浩二の結婚の話を読むとは思わなかった。別に興味あるわけでもない話題なのに、リズムよくうねうね続いていく文章をどんどん読んでしまう。まるでその場を見てきたかのようで、当事者本人が書いているようで、小説みたいな当事者目線。パンダが初めて中国からやってきて、絶対殺すなと政府高官に脅され、パンダの生態もまったく知らないままに飼育することになった飼育員の話はすごくおもしろかったし、石坂浩二とか浅丘ルリ子とか加賀まりことか検索しながら、そうなんだーと驚きながら読んだり。(これらの俳優たちはもちろん知ってるけど、彼ら
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「鳥獣戯画」(磯崎憲一郎)を読んだ。
これは何小説と言えばいいんだろう。
退職したての小説家の物語、美人女優の物語、文覚上人の物語、明恵上人の物語、小説家の青春物語、会社勤め時代の物語、それはあたかも巻物を開くように次々と物語が移りゆき、っと、巻物!、ああ、これは高山寺の鳥獣戯画から今も連綿と続く人物戯画なのか。(穿ちすぎ)
(なんか感じたことをうまく言い表わせていないな)
2011年6月から2012年8月の一年三ヶ月の間に磯崎憲一郎作品を五冊読んで以来だから十年以上のブランクがあって六冊目。
うろ覚えながら「まあたしかにこういう語り口の人だったよな」とつぶやく。 -
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数値化すればするほど減っていく利他性。言動が内発的な利他性から、外発的もしくは内発的な利己性になってるから?
人は信頼してる時、他者の自立性を尊重。悩んでる人に対して諭すことなくツンツンして自らの解決を待つ感覚
利他とは聞くことを通じて相手の隠れた可能性を引き出すこと、と同時に自分が変わること
二つそれぞれあるのに、不ニであり、一に似たのも。主語が2人の考えに似てるような気がした
現代では、論理上の矛盾がないことが正しさの証とされるが、現実世界の説明としては非常に脆弱。むしろ矛盾のまま表現できる方がよほど現実的です。
計算された利他は、本質的な意味では利他にはなりえない。
自分がした