磯崎憲一郎のレビュー一覧
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数値化すればするほど減っていく利他性。言動が内発的な利他性から、外発的もしくは内発的な利己性になってるから?
人は信頼してる時、他者の自立性を尊重。悩んでる人に対して諭すことなくツンツンして自らの解決を待つ感覚
利他とは聞くことを通じて相手の隠れた可能性を引き出すこと、と同時に自分が変わること
二つそれぞれあるのに、不ニであり、一に似たのも。主語が2人の考えに似てるような気がした
現代では、論理上の矛盾がないことが正しさの証とされるが、現実世界の説明としては非常に脆弱。むしろ矛盾のまま表現できる方がよほど現実的です。
計算された利他は、本質的な意味では利他にはなりえない。
自分がした利他の行動に対する相手の言動に過干渉にならず、任せたり信頼する姿勢 -
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東京工業大学のなかにある人文社会系の研究拠点「未来の人類研究センター」に集まった研究者のうち、「利他プロジェクト」の5人のメンバーでそれぞれ<「利他」とは何か>について執筆したものをまとめたものが本書です。発刊は2021年。
「利他」といえば、「利己」の反対の行為で、つまり自分の利益を考えて振舞うのではなくて、他者の利益になるように助けてあげること、力になってあげることとすぐにわかるじゃないか、とせっかちにも僕なんかはすぐに答えを出してしまったりするのですが、本書を読んでみると、一言に「利他」といっても、たとえばそこに「利己」が裏面にべったりとひっついていることがわかってきて、かなり難しいのです。
そりゃあそうなんです。利他、とか、善、とか、すごく簡単であれば、とっくのとうにみんながそれを行っている世界が実現しているでしょう。それだけ、人間の表面的な欲望よりも、裏面的な欲望、それは自己顕示欲だったり承認欲だったり、見返りが欲しい欲求だったり、権力欲や支配欲だったりなどするものが、強烈に人間の根幹を成してもいるからなのかもしれません。だからといって諦めるのではなく、客観視することで自覚が芽生えるものでもありますから、善の押し付けで他者の迷惑になることなどをできるだけ防ぐため、こうした研究は役に立つかもしれません。また、すぐに役に立たなかったとしても、深い意味を宿した人間考察の記録としての面がありますから、知的好奇心を持つ人達らにこれから考えの続きを委ねることができるかもしれません。
それぞれの執筆者が「利他」について掴んでいるものは、言葉にしづらい抽象的で透明なといってもいいような概念でした。そんな概念を、研究者たちは言葉でなんとか表現しようと力を尽くしているようなところがありました。「利他」のあるべき姿を表現するのは、ストレートにはできないことのようです。なので、読者として受け取るときも、彼らが言葉で端的に表現できてはいないことをわかって、それでもなお、彼らが書き記した数々の言葉をいくつかの点とし、それらを読者が線で結び合わせて考えてみることが大切になります。そうやって見えてきた、まるで星座のようなものが「利他」、というふうになります。そんな星座のような「利他」座から、具体的な像まで想い浮かべることができたなら、その人の精神性が一皮むけるものなのかもしれない。
では中身にも入っていきますが、まず始めのほうで地球環境の問題も利他に関係するものとして触れられるのですが、「わあ!」と驚くようなトピックが語られていました。それは、アメリカ人の平均的な生活を世界のすべての人がするとしたら、必要な資源を確保するのに地球が五個必要だといわれているらしい、というところでした。こんなの普通だな、と思っている生活も、かなりの贅沢をしているんですねえ。僕らが様々な不満を持つ不公平な「社会」は、もっと大きな「世界」に包まれていますが、そもそもその「世界」自体においても不公平な構造をしている。強者と弱者の構造を当たり前のものとするならば、アメリカ人の生活、もっと広く言うと先進国の生活の何が悪い、ということになるますけれども、弱者をつくることで自分が強者となって快楽に溺れたり、贅沢をしたりするのってどうだろう、とも思える人も多いのではないでしょうか。強い者が弱い者を攻撃したりいじめたりするのって卑怯ですが、それを、卑怯っていうほどじゃないでしょ、というふうに詭弁と心理術で倒錯させてしまうその原動力がお金の影響を受けた人間心理なのかなあと思ったりもします。
では次のトピックへ。ブッダが、アートマンの否定というのをやった、と書かれています。アートマンは絶対的な自我のことで、ヒンドゥー教では、ブラフマンすなわち宇宙と本質的に同一のものとされていたそうです。で、ブッダは、絶対的な自己は存在しないと考え抜いたそうなんです。我はどこまで追求しても存在しない。これはブッダの開いた仏教でとても重要なところだそうです。ここは中島岳志さんの執筆部分にあったところでした。この、自我があると考えるか、無いと考えるかは、「利他」行為をするうえで、重要なポイントになるでしょう。
ここにつながるような部分を、伊藤亜紗さん執筆の章から引用します。
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「自分の行為の結果はコントロールできない」とは、別の言い方をすれば、「見返りは期待できない」ということです。「自分がこれをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲ととらえており、その見返りを相手に求めていることになります。
私たちのなかにもつい芽生えてしまいがちな、見返りを求める心。先述のハリファックスは、警鐘を鳴らします。「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」。(p51-52)
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→ただまあ、自己犠牲とは見返りを求めない無償の行為なのではないのかな、という自己犠牲の定義に関わるところで考えてしまいもするのですけれど、それはまず置いておいて。自我があると考える向きが強ければ、自分がしてやっている、という意識が働くでしょう。「自分がやってあげている」という思いで、利他をするでしょう。そうすると、行為者としての感覚が、「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、」につながるような気がしてきます。となれば、「気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」になっていくので、それはそれで、認知の歪みを呼ぶような性格の変容になってしまう。善いこと(善いだろうと自分が判断したこと)をしたがために、自分のパーソナリティによくない変化がもたらされてしまうのは、誰でも心外ですよね。
なかなかまとめきれないのであきらめることにして、ここからは引用をしていきます。
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「10時までに全員入浴」という計画を立てたとします。けれども、それを実行することを優先してしまうと、それがまるで「納期」のようになってしまって、お年寄りを物のように扱うことになる。お年寄りは、そんなビジネスの世界では生きていけません。計画を立てないわけではないけれど、計画どおりにいかないことにヒントがあるのだと村瀬さんは言います。
とくに「ぼけ」のあるお年寄りはこちらの計画に全く乗ってくださらないし、それを真面目に乗せようとすればするほど、非常に強い抗いを受けます。その抗いが、僕たち支援する側と対等な形で決着すればいいのですが、最終的には僕らが勝ってしまう。下手をするとお年寄りの人格が崩壊するようなことになります。だから計画倒れをどこか喜ぶところがないと。計画が倒れたときに本人が一番イキイキしていることがあるんです。――――伊藤亜紗、村瀬孝生「ぼけと利他Ⅰ」、「みんなのミシマガジン」2020年8月13日 (『「利他」とは何か』p56-57)
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→物扱いか、人間扱いか。介護現場に限らず一般社会でも、もっと人間扱いのふるまいやそういった気持ちの持ちようがつよくなるといいなあと思います。
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たとえばどうしても問題行動を繰り返してしまう人がいる。その人に対し「なぜこんなことをしたのか」と叱責するのでも、専門家がその人を診断して病名を与えるのでもなく、問題行動を起こした本人が自分について研究するのが当事者研究です。そして当事者研究においては、「外在化」といって行動を一度単なる現象としてとらえることが重要だと言われています。それはつまり、行動を神的因果性においてとらえるということです。
神的因果性においてとらえるということは、その人を免責することです。つまり自分がやってしまった問題行動をひとつの現象として客観的に研究するのです。そうすると、不思議なことに、次第にその人が自分の行動の責任を引き受けられるようになるのです。つまり一度、神的因果性において行為をとらえることで、人間的因果性への視線が生まれるわけです。(p173-174)
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→当事者研究という言葉を目にすることがありますが、こういう効果があるのだな、とわかる部分でした。でも、問題行動のある人が他責思考でいる場合はどうなんだろう、という気がしました。自分に責任はないとするところで神的因果性に近いですが、責任を他者という人間に背負わせている時点でまたメカニズムが変わっているのではないでしょうか。他責思考の人ってけっこういますし、自分もなにかの局面で責任逃れを反射的にやってしまって他人にかぶせるみたいなことは、とくに若い頃にやってしまったことがあります。そういうタイプの人は、どうやって神的因果性に向かわせるといいのでしょうねえ。
といったところなんですが、内容がなかなか難しかったうえに、何度も小休止を挟んでちまちま読んでしまったので、どこか誤読しているような感覚が強くあるんです、あるんですが、まあしょうがない。あしからず、ということで。 -
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中3生の模試の国語で、伊藤亜紗さんの『「うつわ」的利他』の一部が題材として出題されていて、興味をもったので読んでみました。
「利他」は「偽善」「自己満足」「押しつけ」と紙一重で、特にネットではそんな言葉で全く関係のない赤の他人から揶揄されたり非難されたりする可能性もあって、最近はうっかり親切な行動もとれないような雰囲気があったりもします。だいたい、「偽善」「自己満足」「押しつけ」をすり抜ける「利他」ってどんなものなんだろう。そんな思いがありました。
伊藤亜紗さんの章は読みやすく分かりやすかったですが、いちばん面白く興味深く読めたのは中島岳志さんの『利他はどこからやってくるのか』でした。志賀直哉の『小僧の神様』、チェーホフの『かき』、モースの『贈与論』に出てくる様々な贈与に関する慣習、「ありがとう」への違和感の話…ポロポロと目から鱗が落ちていく…「ふと」とか「思わず」とか、そういう「オートマティカルなもの」に動かされる。きっとそうなんだろうと思いました。
國分功一郎さんの『中動態から考える利他ー責任と「帰責性」』は非常に難しくて、十分に理解できたとは思えていませんが、ここで述べられている「神的因果性」というのは中島さんの章で出てきた「オートマティカルなもの」と同じようなものかな、ととらえると少し分かる気がします。「中動態」については以前別のところで読んで、「そんな態があるのか!」と驚いたのを覚えています。自分の中で何かが動く状態を指す態。こんなことを思いつくなんて、学者さんて本当に本当に頭がいいんだなあ。
「しよう」と思って善いことをするのも、いいことには違いないけれど、「思わずしちゃった」的にできればよりいいのかな。 -
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ネタバレ目次
・終の住処
・ペナント
芥川受賞作にはあまりご縁がないが、間取り好き、住宅好きの私としては、素通りできないタイトル。
しかし、思っていたのと違った。
まあ、芥川受賞作ということを考えれば、こっちが正統か。
30歳を過ぎて結婚した男の、妻とのままならぬ結婚生活を描いたもの。
お互い20代の時に長く交際していた人と別れたあとで付き合い始め、結婚願望などというものも感じないまま流されるように結婚。
妻はいつも、ここではないどこか遠くを見ていて…。
男は、仕事はできるようだ。
女性にももてる。
何しろ11年間に不倫した相手は8人だ。
だけど、どうにも男の輪郭ははっきりしない。
結婚についてもそうだったけれど、流されているだけのように思える。
妻はいつも、ここではないどこか遠くを見ているように男は思っているが、妻もまた男に対してそう感じているのではないだろうか。
そんな彼が作品中初めて自らの意志で行動したのが、2歳の娘を連れて家族で遊園地に行こう、だった。
2歳児の行動は当然親の想像とは異なって、彼は遊園地に来たことを後悔するのだが、妻は「観覧車に乗りましょう」という。
観覧車の高みから見た世界。
観覧車を見上げる世界。
妻がいるのは、彼がいるのは、不倫相手がいるのはどちらの世界だろう。(わりと結婚直後から不倫をしている男である)
なんてことを考えながら観覧車に乗る男。
それから11年、妻は口を利かなかった。
次に彼が自発的な行動が「家を建てるぞ!」
それに対して妻が「そうね、もうそろそろ、そういう時期ね」
ここから夫婦で話し合って理想の家を作る、わけではなく、妻が見つけてきた建築家にすべて丸投げ。
こだわりの強い建築家が家を完成させたとき、娘は既に独立し、”これから死に至るまでの年月を妻とふたりだけで過ごすことを知らされた。それはもはや長い年月ではなかった。”
え~、家を建てるわくわく感ないの~?
というのはおいといて、実はこういう男性多いのかもなって思いました。
これからは減っていくと思いたいのですが、家庭に対することはお手伝い程度で基本丸投げ。
結婚したという事実だけで、社会的信用ができ、職場での立場は順繰りに上がっていく。
家に居場所はないけれど、会社にはいつまでもいられる。
良い人生をおくることはできましたか? -
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ガルシアマルケスまがいの文体は、よっぽどセンスのよい著者でない限り、避けるのが無難だろう。この人はセンスがそこまでよくないので、やめておいた方がよい。結構しんどかった。
100年くらいに渡る年代記みたいな体裁のお話はすごく好きなので、楽しく読めた。特に、ニュータウンが出来ていくあたりが好き。自分はロードサイトとかで一時期社会学界隈で話題になったようなド郊外の生まれ育ちなので、ニュータウン的な街の寒々しさには親近感を覚えるのだ。
女優の息子が電車で恋に落ちる話も好きだった。ああいう風に始まる恋って実際あるからねー。ないような気がするけど、ごく稀にあるんだよ。 -
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ラテンアメリカ文学の影響を受けたという作者の作品。表題作も併録の「ペナント」も、異質な、重層的で、異空間な作風。「ペナント」に関しては全く理解できなかった。
多分「終の住処」に関してもそれほど理解は出来ていないのだと思う。とにかく一文が長く、それこそ海外文学の影響を受けた様で、文章も読みやすくは無いが難しいわけでも無くそれでも複雑だったりする。ストーリーに関していえばあってないような、滅茶苦茶な構造。個人的な本作の魅力はその中に含まれる独白にある。特に、人生経験を積めば当たり前に思うだろうが、「10年の月日よりも今という一瞬の方が長い」といった様な文章が平然と並んでいるこの言葉の引き出しに感嘆を思わず漏らしてしまう。 -
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磯崎憲一郎作品のほんの一部しか読んでいないけれど、この作家の「時間」というものの捉え方、特に「過去」というものを見つめるまなざしはとても特徴的だと思う。一種の「温かさ」というか、「目線」や「視線」というよりも「まなざし」と表現すべき、人の肌の温度や意思のようなものを感じる。
まるで自分の子どもを見つめるそれのような。
それは多分、過去の「切り取り方」によるものなんじゃないかと思う。
仰々しい前置きや有り難い後日談なんか無しにして、無限に続く時間軸の一部を、無造作に切り取ってそのまま記述するだけの。
「時間軸」という言葉を遣うと、人は大体、「過去があって、その上に今があって、その先に未来がある」という捉え方をするのだろう。そこには因果律的な「原因と結果」の思想があって、あくまで「今」を支点とした発想だ。
一方、この本で言えば最後の「恩寵」の一篇や、またはデビュー作の「肝心の子供」が分かり易いと思うのだけれど、磯崎さんは「過去」というものを無造作に切り取ることでそのまま手元に引き寄せて、(虚実綯い交ぜにして)見えたものを直接書き記しているのではないかと思う。時間軸上のそれぞれを、独立した個別の存在としてとらえているのだろう。
「終の住処」では、自分の妻や子どもを「他人」としか捉えられない男が描かれていて、著者自身も「自分の子供とはいえ結局は別の生き物なのだ」というようなことを何かのインタビューで言っていた(と思う)。
これもつまり、自分の子供(言うなれば「未来」)を、自分(「今」)が生み出したものではなく、独立した一つの存在として見ている、とは言えないだろうか。
けれどそこにはやはり断ち切りがたい「繋がり」があって、だからこそ、切り取られた時間軸の両端にある無限の広がりを感じるのではないだろうか。