大岡信のレビュー一覧
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日本の詩歌 その骨組みと素肌
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“戦後日本を代表する”といっていい2人の詩人(大岡信、谷川俊太郎 ともに当時40代)による“対話”。1975年の2月から3月にかけて、3回行われた対話を活字にしたもの。
コップについて書いた二人の詩を比べるくだり(p.115~128)は面白い。“きちんと物が見えるように書く”のが谷川の詩、“はじめは物を見ているように書きだしても、決して物自体には到達しない”のが大岡の詩。
そして、その前にあるくだり(p.105~108)。外国詩の翻訳・輸入における失敗(“日本語ではとうてい詩として成立しないようなものをそのまま日本語にして、これが詩ですといった傾きがある”(p.105)や、マザー・グースの唄(口承童謡)の視点の欠落や、諺・極り文句といった俗な言葉を圧殺してきた“一種の個性絶対主義”(p.107)など)は、なんと50年以上前に、詩人の口から指摘されている事柄だったのか、と驚く。
「“個性絶対主義”は、50年経っても相変わらずな気がするなあ…」 -
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シリーズ最終巻で、巻十七以降があつかわれています。
著者によると、巻十七以降の四巻は大伴家持のいわば「歌日記」であり、家持と彼の生きた時代についての説明を交えながら、歌の魅力が語られています。
著者は、家持の生きた天平時代の歌が、それ以前の歌とは異なり、「私」的な関心事に集中しているといいます。そうしたなかで、家持は「公」と「私」の緊張関係とたえず感じずにはいられないような状況に置かれており、そのなかで彼の歌が詠まれていったのだと著者はいいます。すなわち、藤原家が皇室との結びつきを強めて勢力を拡張し、古代以来の名門であった大伴家が衰退していくなかで、傑出した感性をもっていた家持が、その孤独感を基調としながら「自然」のあたらしい把握にたどり着いたというのが、著者の家持評です。
巻二十をあつかった章では、そこに収録されている防人歌と、その収集・編纂にあたった家持についての解説がなされています。著者は、「東国十ヵ国の農民は、たとえ下層の一兵士でも、その作る和歌を見れば、和歌に対する慣れや教養において、全体として驚くに足る水準に達していた」といい、また「日本の詩歌史の中核をなす和歌、その重大な担い手として女性がいた」ということを指摘して、その点に『万葉集』の重要性のひとつがあると語っています。 -
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第四巻では、巻十三から巻十六があつかわれています。
巻十五の中臣宅守と狭野茅上娘子の恋歌の贈答にかんして、著者は土屋文明の評価に対する批判をおこなっています。著者によれば、土屋は「万葉集の純な歌境」を称揚し、「理知的なもの」をそれとは正反対のものとしてしりぞけるという立場をとっており、娘子の歌に厳しい評価をあたえています。また著者は、土屋のこうした立場に、ある種の倫理的判断が投影されていることを指摘し、島木赤彦や斎藤茂吉などにもそうした傾向があったと述べて、その見かたに反対しています。
さらに著者は、つづく巻十六に収録されている歌に見られる理知的な諧謔を高く評価し、その魅力に立ち入って解説をおこなっています。著者は、「もう四十年近く昔のことになりますが、『万葉集』を読んで巻十六にぶつかった時の、私自身欣喜雀躍したくなるほどの気分は、今でもただちに甦らすことができるほどです」と述べており、著者の『万葉集』解釈の方向性と特質が、もっとも明瞭に示されています。 -
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第三巻では、巻八から巻十二までがあつかわれています。
多くの長歌を収録している巻九では、「長歌形式の革新家」と著者が呼んでいる高橋虫麻呂の歌が紹介され、著者独自の観点からその魅力が語られています。「河内の大橋を独り行く娘子を見る歌」では、長歌という形式で日常生活のささやかなできごとにまつわる心の動きを詠んだことに注目がなされており、その歌の魅力をあるいは「フランス十九世紀末、二十世紀初頭のボナールやヴュイヤールら、身辺の光景をみごとに描くアンティミストの絵の世界をも、ふと思わせるようです」と解説しています。
他の芸術ジャンルにも通底するような魅力を発見する著者の批評は、数多く刊行されている『万葉集』の解説書のなかにあって独自のものとなっており、興味深く感じました。 -
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第二巻には、『万葉集』の巻二の補遺と、巻五から巻七までの内容が収められています。
著者は、巻五に収められている、大伴旅人の妻の死にさいして、山上憶良が彼に送ったとされる歌をとりあげ、博引傍証をきわめたその内容の特異さに目を向けています。著者は、この歌を受け取った旅人の気持ちに想像をめぐらせ、「旅人はおそらく、最初は異物を噛むような思いでこれを読み、日が経つにつれて深い慰めをそこに見出すに至ったのではないか」と語ります。
さらに著者は、この歌を送った憶良という人物の特異な性格についても考察をおこなっています。さらに彼の「沈痾自哀文」を紹介し、「ここまで徹底した現世至上主義の思想は、仏教的無常観が日本人に教えたあきらめや西方浄土への儚い祈願といったものとはおよそ異なるものと言わねばならないでしょう」と評しています。 -
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著者が、『万葉集』に採録された歌を紹介し、その鑑賞のポイントをわかりやすく解説している本です。
著者は「はしがき」で、「『万葉集』が現在でも、古典としてのみならず、それほど努力しなくても現代人が味わい、楽しむことのできる「生きた」歌集として私たちの前にあるということは、否定しようのない事実です」と述べています。詩や歌の実作者による『万葉集』の鑑賞の手引きとしては、斎藤茂吉の『万葉秀歌』上下巻(岩波新書)が有名ですが、本書も実作者としての立場から、古代の歌集としてではなく、現代のわれわれにもその魅力を理解することのできる作品として、『万葉集』の歌を紹介しているということができるように思います。
第一巻である本書では、『万葉集』の巻一から巻四までがとりあげられています。です・ます体で書かれており、親しみやすい文章ですが、歌の鑑賞をおこなっている解説文のなかで語釈的な説明を含めているため、読んでいてやや視線が前後します。もっともそのおかげで、著者の解説にみちびかれて一首一首を深く鑑賞することができるような気分になることができたので、個人的にはおもしろく読むことができたように思います。 -
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解説を書いている三浦雅士の『孤独の発明』から流れてきた。
「うたげ」(古典詩歌の集合的想像の座)と「孤心」(その場を経て還らざるを得ない個としての場)の取り合わせが面白い。
「『合す』意志と『孤心に還る』意志との間に、戦闘的な緊張、そして牽引力が働いているかぎりにおいて、作品は稀有の輝きを発した」
中盤から終盤にかけては、和泉式部と藤原公任、後白河法皇の今様狂いがクローズアップされている。
これらの時代、歌は生活手段であり、公的技芸でもあったことが現代の私からすると不思議に思う。
単なる宴会とも違い、儀式とだけ言うと固すぎる。
物を見立ててインスピレーションを働かせたり、時には自身の恋やその経験を披露したりする。
その中で、思いもよらない言葉が生まれたりするのは、対話の効果にも似ているのかもしれない。
言葉を経て、また自分に還ってゆくところも。
たとえば、演劇も集合的芸術だと言えるけれど、舞台だからこそ息づく何かを、演者はどう感じているのか知りたいと思った。 -
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大岡信といえば、昨年(2017年)鬼籍に入った国民的詩人で批評家として知られていますが、私の自宅に程近い調布市に長く住んでいたとのことで、少し親近感を持ちました。
この自選集には、調布という詩も収められています。
「まちに住むというふことは
まちのどこかに好きな所をもつといふこと。
まちのどこかに好きな人がゐるといふこと。
さもなけりゃ、暮らしちゃいけぬ。」(調布 Vより抜粋)
近所に自分の居場所を見つけて、好きな人や親しい人を作るのが、本当の生活、ということでしょうか。別の言い方をすれば、そのまちに親しむ、交わるということでしょう。
詩は、詠み人が何かとの関係性を詠うもの、と思います。
繋がりをふと感ずるとき、詩情が俄かに立ち上がってくるのが詩人なのかもしれません。
この自選集を読むとき、大岡信の感性が、時空を超えて縦横無尽に飛翔していたのが、よくわかります。スケールが大きいのでしょう。 -
日本の詩歌 その骨組みと素肌
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最初のセミの話まではそれなりに興味深く読むことができたんだけど、コオロギ、カマキリと進むにつれだんだん辛くなり(^^;)、コハナバチでは既に苦行と化し、オオタマオシコガネ(フンコロガシ)あたりでは気を失ってしまったみたい・・・・・・(苦笑) 虫の世界の弱肉強食ぶりやら生命・遺伝の神秘やらに心を動かされなかったわけじゃないけれど、もうじゅうぶんっていう感じ??
虫の世界の出来事をじっくりと観察し、擬人化した筆致で描いていらっしゃるファーブルさんの功績には頭を下げるけれど、嫌いというほどではないけれど「虫という生物」にさほどの興味を持たない人種である KiKi には、子供時代も大人になった今もこの本は合わないようです。 これでこの本にもっと図版が多ければ別の反応もあったかもしれないんですけどね。
(全文はブログにて) -
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百人一首でかるたとりをしたことがあるという人は沢山いるでしょう。けれども、それぞれの歌がどういう意味なのかは意外と知らないのではないでしょうか。古い言葉ですし、耳で聞いただけではわかりづらいものです。でも、和歌というは本来とても面白いものです。
例えば、
「君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ」
という歌があります。君のために春の野で菜の花を摘んでいる私の衣の袖に雪が降り積もっているという素直で何気ない歌ですが、春のうららかな日に、一面に咲いた菜の花の黄色と緑、そこにはらはらと舞い散る雪の白さ、綺麗な情景が目の前に浮かんできます。
もう一つ面白い歌を
「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしというふらむ」
これは「あらし」が肝です。一吹きすれば草木は萎れてしまう、なるほど山風は荒いというのはもっともだなあという意味ですが、「あらし」には「嵐」という意味も掛けてあります。つまり後半の部分に、なるほど山風を嵐と呼ぶのももっともだなあという意味も含ませているのです。さらにさらに、小粋な仕掛けがしてあります。ここでは横書きになっているので分かりにくいですが、縦に書いてみてください。そうです、意味だけでなく、見た目にも山風=嵐なのです。こういう言葉遊びが随所に見られるのもまた和歌の楽しみの一つです。
ここでは2首だけを取り上げましたが、この本では、このように一つ一つの歌に簡単で分かりやすい解説があり、その魅力を十分に味わうことが出来ます。和歌が大好きになること請け合いです。是非一読をお勧めします。