あらすじ
詞華集の編纂,歌合,連歌といった古典詩歌の創造の場としての「うたげ」,これに対峙する創作者たちの「孤心」.『万葉』『古今』,そして『梁塵秘抄』等々,日本詩歌史上の名作の具体的な検討を通して,わが国の文芸の独自性を問い,日本的美意識の構造をみごとに捉えた名著.豊饒なる詩のこころへの誘い.(解説=三浦雅士)
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大岡信の文学史的評論である。祝祭性や集団性と、その対極にあるかのような個人的創作とが日本文学の中では調和していたことを述べる。さまざまな具体例を引用し、論評を加えつつもその切り口は自ら詩を作る創作者としての立場が貫かれている。文学を研究の対象とする学者とはかなり扱い方が違うと感じた。
文学が個人の創作であり、他にはない個性の結晶であるというのは常識的な考えである。しかし、一方で作品は作者の周りの環境の中で作られる。場合によっては創作そのものに他者が介入することもある。日本古典文学では一座の共鳴のもとで作品が作られることも多い。
晩年の大岡信は外国人も含めた詩の共同制作ともいえる連詩という試みをしている。もちろんこれは連句の伝統を応用したものだが、現代文学の中にしかも国際的な文壇のなかにそれを再現したのだ。日本文学の分析にとどまらないところが創作者たるゆえんであると感じた。朝日新聞の折々のうたも原作者と大岡の連詩であると考えればより一層分かりやすくなるような気がしている。
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少し古いが、第3章までが白眉。また、受動と能動に触れた三浦雅士の解説も秀逸。後白河法皇の「今様」論は、特に第6章において、書き殴った感じがあり好ましくない。自らも「書かされた」(憑かれるように書いたの意)を語っているが、推敲の跡があまり見えない。
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解説を書いている三浦雅士の『孤独の発明』から流れてきた。
「うたげ」(古典詩歌の集合的想像の座)と「孤心」(その場を経て還らざるを得ない個としての場)の取り合わせが面白い。
「『合す』意志と『孤心に還る』意志との間に、戦闘的な緊張、そして牽引力が働いているかぎりにおいて、作品は稀有の輝きを発した」
中盤から終盤にかけては、和泉式部と藤原公任、後白河法皇の今様狂いがクローズアップされている。
これらの時代、歌は生活手段であり、公的技芸でもあったことが現代の私からすると不思議に思う。
単なる宴会とも違い、儀式とだけ言うと固すぎる。
物を見立ててインスピレーションを働かせたり、時には自身の恋やその経験を披露したりする。
その中で、思いもよらない言葉が生まれたりするのは、対話の効果にも似ているのかもしれない。
言葉を経て、また自分に還ってゆくところも。
たとえば、演劇も集合的芸術だと言えるけれど、舞台だからこそ息づく何かを、演者はどう感じているのか知りたいと思った。