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勉強は一時凌ぎでするものではない。ましてや受験をクリアするためだけにするものではない。生涯、勉強の日々である。大人になれば、そのことがよく分かる。分かっていない大人がいるとしたら、その人はまだ大人ではないということだ。どんな仕事をしていても、技術は日進月歩であり、ふつうに仕事をするためにも学ぶべきことは限り
教育問題は、子供の問題であると同時に社会や制度を構築する大人の問題
作家は鋭敏な感性と文化的素養を持っているが、生活者としては破綻している人が少なくない。そういう人が書いたものを、自分で読みたいと思って読むのはまあいいが、教科書に載せて強制的に読ませるというのは、どうなのだろうか。 書かれた作品と作者は別、という考え方もあるだろう。しかし「そういう人」だからこそ書ける人間の 内奥 の弱さや暗さや痛みこそが、本当は読みどころなのである。小説を読むということは人間の弱さや暗部に触れるということでも
私がカッコのなかに書いたような皮肉というか、後ろ向きの見方をしてしまうのは、生来の気質にもよるが、少年時代に文学作品を読みすぎた影響だ、と自分では思っている。優れた文学作品を読んで、楽観的思考が身についたり、社交性が高まる人は、ほとんどいない。「文学」によって豊かになる感受性とは、自己の内面に深く沈潜する悲観的省察の 類 の情感であろう。 それ自体には、浅薄な楽観主義や、他者の弱さに配慮しない「勝ち組」的な価値観よりも、はるかに人間的な価値がある、と私は考えている。そういう知の在り方が好きだから、私は小説ばかり読んできたのだ。だが、そういう認識と思考の在り方が、 世知辛い世の中で人を生き難くするのもまた事実
よく、学校で習う物理や数学が、その後の実生活で何の役に立つのかという人がいるが、物理や数学で学ぶのは合理的な思考法であって、それは絶対に人生に役に立つ(この点については第五章を参照されたい)。しかし小説を読むことは楽しいものの、それが「役に立つのか」と問われると、私には答えられない。ただし、役に立たない知識こそが人間性を豊かにする、との思いもある。それこそは人生の真の 贅沢 であり、幸福である、
だが思春期以降は、国語教材に占める小説などの文芸作品の比率を、減らしたほうがいい。文学の怖さが分かる人なら、この意味は分かるだろう。さらにいえば、本来、文学などというものは、禁じられているのを、隠れて読むところに、醍醐味があるのである。にもかかわらず、文学作品を無理矢理に教材の枠にはめ込むのは、作品に対しても失礼
本来、愛国心教育は、使いようによっては、現体制に対する鋭い批判の 砦 にもなるのである。 もちろん、どこの国の政府も、「愛国心」を政体や政権維持のために利用する方向にもっていきたがる。そしてそのための国家理念なり国家理想なりを掲げる。戦前の日本なら「教育勅語」がそれであり、アメリカなら「星条旗の誓い」がそれにあたるだろ
歴史」の叙述は、「歴史観」抜きには困難である一方、歴史観はそれ自体が一種の思想だからだ。思想は事実そのものではない。事実を記述しながらも、その事実の背景にある社会のありようや、価値観(あるべき姿)を、同時に語るものである。 「歴史観」は歴史上の事件や人物に対する評価という形を取るとは限らず、年号のような暗記物にまで、深く関わっている。どの出来事を重要視するかという選択自体、歴史観に影響されて
そして語られた物語が美しければ美しいほど、我々はその物語に寄り添ってしまい、批判はおろか自分自身で考えることをせずに受容してしまうことになりがち
歴史を記述する行為は「選択」であり、故に常に「作為的」なので
混沌とした事実の集積である歴史そのものから、万人に分かるような「歴史の流れ」を描き出してみせるのは、歴史観あってこそ可能になる。だが、史観によって歴史を解釈することを、歴史そのものを解明することだと思い込むのは、明らかに誤りであり、危険な傾向といわねばなら
愛国心と歴史物語が結びつくところには、多少ともこの怪物の影を恐れなければなら
愛国心と誇りある歴史とは本来的には無関係なものだ。誇るべき歴史の有無にかかわらず、国を愛するのが愛国心であり、むしろ誇るべき歴史を前提とした愛国心教育は、歴史的「正しさ」が否定されたら愛国心を持てなくなる、あるいは愛国心教育は出来ないという考えに通じる危険性さえ
たとえば中国はシナと呼ばれることをひどく嫌うが、日本を長らく「倭」という身体差別的語義で規定したことの歴史的犯罪を、謝罪していない。また日本の侵略行為は非難しても、中華思想に基づく覇権主義は謝罪してい
それでも私は数学が嫌いではなく、問題を解いてみるのはわりと好きで、今でも時々、診療時間中の空き時間などに、高校時代の数学の参考書(岩切晴二『数学精義 IIB』『数学精義 III』)を開いたり
左様。人生はさまざまであり、必ずしも数学は人生に、直接は必要ないかもしれない。それは文学も音楽も、人生に絶対に必要ではないのと同じ
営業マンのトークがいかに巧みでも、数字は変わらないのだから、ちょっと計算をしてみればいいのだ。ネズミ講や各種マルチまがい商法もしかりである。本当に「数字に詳しい」というのは、「欲ボケしないでデータを読む思考」ができるということである。 詐欺まがい商法に引っかからないためばかりでなく、日常的な情報を正確に理解するためにも数学は大切
信じるというのは、善良な行為ではなく、思考の停止である。考えるのをやめにして、あとは他人の意見に身を 委ねる。それが「信じる」ということだ。そしてしばしば、安易に信ずる者は、被害者になるばかりでなく、加害者にもなって
数学が出来ない人間」が、数学を無味乾燥なものと感じるのは、その数字や数式から何も想像できないからにすぎ
イメージの思想家として知られる科学史家のガシュトン・バシュラール(一八八四~一九六二)は、事象を科学的に捉えるということは「大脳に逆らって思考すること」だとしたが、それは第一義的には、「経験にだまされるな」ということ
こうしてみると、なぜ現代人に「数学アレルギー」が多いのか、その本当の理由が見えてくる。人間の欲望を許さない「正しさ」に、わがままな現代人は拒否反応を起こしているのだ。本当は現代人は数学が分からないのではなくて、分かりたくないのだ。みんな、バブル経済であれネズミ講であれ、自分の欲望を甘美に刺激してくれる詐欺に引っかかりたい、と無意識に思っているので
先に、「信じる」ことは思考停止に陥ることだ、と述べたが、停止した思考の隙間には、経済的な詐欺どころか、より深刻なオカルトや新宗教にはまるという事態が待っている。でなければ、停止したその人の思考自体が、オカルト化して
ところがどういうわけだか、ジェンダー・フリー教育は、しばしば男女混合騎馬戦や小学校高学年の男女に、一緒に水着に着替えることを強要するような方向に展開しやすい。嫌がる女子生徒に、教師がそうした行為を強制した事例もあり、そうなるとジェンダー・フリーどころかセクハラ
「好きなことなら、がんばれる」と、たいていの人は思っているらしい。ただ、その「好きなこと」が見つからないだけだ、と。そうやってフリーターになる若者は多いのだが、本当に好きなことならがんばれるのだろう