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5.0「川島・山内のマンガ沼」放送を記念して、かまいたち・山内さんが 考える最強ラインナップのヤングマガジンを0円にて配信!(※放送時のラインナップから一部変更ございます) ラインナップはこちら! 『新宿スワン』/『アンダーニンジャ』/『ドラゴンヘッド』/『エリートヤンキー三郎』/『賭博黙示録カイジ』/『彼岸島』/『僕たちがやりました』/『バジリスク 甲賀忍法帖』/『ミュージアム』 〇収録作品/著者名 『新宿スワン』 『アンダーニンジャ』花沢健吾 『ドラゴンヘッド』望月峯太郎 『エリートヤンキー三郎』阿部秀司 『賭博黙示録カイジ』福本伸行 『彼岸島』松本光司 『僕たちがやりました』原作:金城宗幸 漫画:荒木光 『バジリスク 甲賀忍法帖』原作:山田風太郎 漫画:せがわまさき 『ミュージアム』巴亮介
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3.3大阪でホステスをしている加納康子。野心と野望にあふれる彼女は、その肉体を武器に何人もの男を惑わせ、溺れさせてきた。しかし、彼女と関係を持った男が次々と死んでいってしまう。男と女が淫らに絡み合うハードボイルドサスペンス作品!
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-戦国時代、兵法者たちは己の剣の腕だけを頼りに乱世を生きた。塚原卜伝もその一人である。若き日の諸国を巡る武者修行の旅、三十を超える合戦を乗り越えて辿りついた境地とは? そして、秘剣“一つの大刀”とは? 剣聖と呼ばれた男の生涯に迫る。
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-上杉謙信――わずか十代にして家督を継いだ男は、生涯にわたって乱世を舞台に戦い続けた。領土獲得や天下獲りの野望を持たない謙信が、戦場に求めたものとは? 誰しもが私利私欲に走った時代に、ひとり信と義を貫いた謙信の生涯を追う。
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-上杉謙信は四十九年の生涯で三十以上の戦に赴いたという。相次ぐ出兵要請に応え、関東、越中、そして信濃へと出陣した謙信を突き動かした理由とは? 願文を読み解くことで浮かび上がった行動論理から、義の武将・謙信の心境に思いを馳せる。
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-猛将の名高い長尾為景の子として生まれた虎千代。幼少の頃から父譲りの才を示した少年は景虎と名を改め、十代半ばにして戦場に立つ。生涯続く戦いの日々が幕を開ける。越後の龍と恐れられ、世にその名を轟かせた上杉謙信の若き日々を解説。
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-伊達政宗の母・義姫は“奥羽の鬼姫”と呼ばれた豪胆な人物であった。また、政宗の弟・小次郎への偏愛で知られ、政宗暗殺すら企図していたとも言われている。しかし、彼女の生涯から浮かび上がってくるのは、生家と婚家の間で揺れるひとりの女性の姿だった。
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-代々名門として近江の地に君臨した六角氏。弓馬に秀でた六角承禎は勇将として知られ、幕府も一目置く存在だった。しかし、織田信長の台頭は幕府に、そして六角氏に過酷な運命を強いる。新興勢力への飽くなき抵抗に見る、名門一族の誇りとは?
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-秀吉の天下統一に最も貢献した男、豊臣秀長。内政、調略、軍事とあらゆる分野に明るい秀長の手腕は信長からも一目置かれていた。また人格者としても知られ、武士、領民を問わず多くの人に慕われたという。出仕から早すぎる死まで、忠臣・秀長の生涯を追う。
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1.0江戸時代、将軍や大名は世継ぎを得るため正室のほかに幾人の側室を置いた。その結果、女たちの権力争いが起きることもしばしばだった。なかでも、6代将軍・家宣の妻たちの暗闘は熾烈を極めた。正室と世継ぎを生んだ側室との争いの意外な幕切れとは?
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-戦国時代、男たちが合戦に明け暮れるなか、女たちもまた過酷な運命との戦いを強いられていた。陰に日向に夫を支える賢妻となる者もいれば、政略結婚や人質に利用される者も少なくない。時代に翻弄されながらも、健気に生きた女たちを紹介する。
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-戦国乱世を己の剣の腕を頼りに生きた男たち――上泉信綱と佐々木小次郎を紹介! 天下の兵法と呼ばれるほどに発展する新陰流を創始した信綱と、巌流という独自の剣法を編み出した小次郎。ただ一心に剣の道を極めんとした男たちの謎に包まれた生涯に迫る!
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-関ヶ原合戦において、思いがけず西軍に参加することになった島津義弘。その上、手勢は一六〇〇という寡兵であった。戦の軍配が東軍に決しつつある中、義弘は薩摩への撤退を決断する。東軍の猛将たちの追撃を振り切ることができるのか? 伝説の退き口を活写!
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-天下分け目の関ヶ原、徳川家康率いる東軍は、家康と苦楽を共にした“忠臣”たちと、豊臣家を見限った豊臣恩顧の“叛臣”たちとの混成部隊であった。彼らが思い描いた“戦国の後の世”とは? 時代の変わり目に居合わせた武将たちを紹介する!
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-家康の将軍就任を期に、戦国の世から太平の世へという気運は一層高まった。そんな幕府黎明期にあって、戦国の世を生き抜いた武将や、異能の謀臣、皇族たちは、それぞれの身の振り方を決断しなくてはならなかった。時代の変わり目に生きた人々を紹介!
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-凄惨極まる骨肉の争いを経験した織田信長は、いかに人心が移ろいやすいかを痛烈に感じたことだろう。故に、能臣は重用する一方、不要とあらば老臣さえも切り捨てる実力主義を徹底したのも頷ける。しかし、その家臣操縦術が軍団に暗い影を落とすことになる…。
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-その相貌、独眼にして無数の刀傷痕を刻む――異形の士・山本勘助は十五余年に及ぶ諸国遍歴の末、武田晴信に臣従。その豊かな経験と奇抜な発想で晴信の信頼を得る。やがて迎えた運命の川中島合戦、宿敵・上杉謙信に秘策・啄木鳥戦法を持って対するが…。
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-太閤・豊臣秀吉の生涯は、日本史上類を見ないサクセスストーリーである。名もない一匹の“猿”がよもや天下の頂に君臨するとは誰も予想だにしなかっただろう。謎に包まれた若き立志の日々から、野望に燃える天下人に至るまでの秀吉の軌跡を活写する!
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-その武勇と調略を駆使し大大名さえも翻弄した真田昌幸。稀代の策略家は真田家の存続を二人の息子に託した。その結果、長男信之は徳川方に、次男幸村は豊臣方にそれぞれ臣従することになる。一族を二つに割ることすらいとわない真田家の生き残り戦略とは?
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-真田幸隆、昌幸、幸村――三代に渡る戦いの歴史の裏で、彼らを強力にサポートしたのが、広範囲に張り巡らされた情報網と精強で知られた忍者集団である。万を超える大軍さえも翻弄し、時に呪術・妖術と恐れられた真田家の調略の秘密に迫る!
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-関東周辺の諸大名は結合離散を繰り返し、その勢力図は複雑化の一途を辿った。また、徳川、伊達ら大大名も版図拡大を狙い関東に触手を伸ばしていた。そんな中、真田昌幸は謀略の鬼と化し領地確保に奔走する。一族の生き残りを賭けた昌幸の戦いを検証する!
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-その若さと野心故、たびたび激情に駆られた行動をとる政宗に対し、ある時は勇猛果敢、またある時は冷静沈着な態度で応えた忠臣たち。彼らに支えられながら、政宗は名君へと成長を遂げた。政宗の手足となって勢力拡大に尽力した伊達家臣団の猛者たちを紹介!
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-弱冠一八歳での家督相続、奥州での激しい抗争、秀吉と家康という二人の天下人との対峙。幾度もの危機に襲われた政宗を支えたのは智勇に優れた忠臣たちであった。今回は、特に活躍の目覚ましかった片倉景綱・重長父子、伊達成実の三人の宿将を紹介する!
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-当主就任からわずか五年のうちに奥羽の半分を手中に収めた伊達政宗。その視線は既に関東へと向けられていた。野望に胸を膨らませる政宗であったが、その眼前に天下人・豊臣秀吉が立ちはだかるのだった。政宗の戦いの日々と、野望の行末を活写する!
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-戦国乱世の真っ只中で伊達家当主となった輝宗は外敵との抗争に奔走するものの、鎌倉以来の名門の威光は次第に陰りつつあった。心やすまらぬ日々の中、輝宗は長男・政宗に非凡な将器を見出し、家督を譲る決断をする。政宗に託した輝宗の悲願とは?
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-同時代を生きた武人、太田道灌と北条早雲は戦乱の関東で一度だけ対面している。名将として世に知られた道灌と、虎視眈々と飛躍の時を待つ早雲。一瞬の邂逅にふたりは何を思ったのか? 後の世に語り継がれる英雄たちの出会いとその後の対照的な人生を追う!
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5.0腕っぷしがものを言う戦国時代にあって、学問の府として興隆を極めた足利学校。学域は漢籍などの教養から、易学、医学、兵学にまで及び、家康に仕えた天海をはじめ数多の人材を世に輩出した。その水準に宣教師も驚いたという教育機関の実態とは?
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-権謀術数に長ける一方で、氏康傷といわれる二筋の傷を顔面に刻む豪傑でもあった北条氏康。後北条家の未来を拓くため、関八州の諸大名や武田信玄、上杉謙信らと激しい抗争を繰り広げた。その戦歴から三つの血戦を取り上げ、氏康の強さの秘密を探る!
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-抗争は次世代へ――三英雄の後を継いだ武田勝頼、上杉景勝、北条氏政らは先代からの地盤を固め、さらなる栄達を目指す。しかし、織田信長、豊臣秀吉らの台頭が、関東に新たな戦いを巻き起こすのだった。時代の変化に後継者たちはどう立ち向かったのか?
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-武田信玄、上杉謙信、北条氏康が関東の覇権を争った戦国関東三国志時代。その舞台となった主な城郭と合戦を紹介! 城の成立ちや城主たちのエピソード、合戦の背景を網羅。群雄割拠した関東三国志をよりディープに楽しむための一冊!
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-武田信玄、上杉謙信、北条氏康が激しい抗争を繰り広げた関東三国志時代。三英雄はさることながら、彼らの家臣や宿敵たちにも注目すべき人物は多い。一騎当千の猛将、三国を股にかける才人、三英雄に対抗する関東大名など、個性豊かな群雄たちを紹介する。
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-武田信玄、上杉謙信、北条氏康――三人の英雄が覇を競った様は関東三国志と呼ばれ、今なお多くの歴史ファンの関心を集めている。その魅力のひとつが、三者それぞれに残る謎である。信玄影武者説など、英雄たちの謎を検証し彼らの実像に迫る!
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-大坂方の総軍総司令官、大野治長。その弟・治房。生涯相合わぬ兄弟の鬱積はついに、大坂の陣中にて爆発する。一方、キリシタン大名明石全登は、十字架を掲げ、彗星の如く、大坂入城を果たした。大坂に集った多様な顔。大坂の陣をとりまく人々。
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-奇謀奇略を駆使した辣腕の政僧で「黒衣の宰相」と呼ばれた、金地院崇伝。元禅僧で、幕府の最前線機関京都所司代の任についた、板倉勝重。徳川幕府を陰から支え続けた、二人は大坂の陣において、どのような役割を果たしたのか。
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-筆太にまっすぐひかれた士魂とその優れた人柄で、大坂方の精神的支柱とも呼べる名将、後藤又兵衛基次。凛とした美丈夫で壮絶なる最期を遂げた、大坂の陣の「花」、木村重成。歴史的合戦・大坂の陣を美しく彩った二人の武将にせまる。
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-生涯、徳川家康にとって疫病神であった真田昌幸・幸村親子。稀代の横着者として、乱世を泳ぎ切った父・昌幸と、言葉少なにして柔和な幸村。親から子へ、すべては大坂の陣へと収斂していく。真田家の真髄。親子がたどった大坂の陣への道。
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-勝利を手にしながらも心境複雑な、伊達政宗。名門復活を望んだ、上杉景勝。戦功をあげてなお報われなかった、松平忠直。単純な勝者と敗者では、括り切れない三人。彼らにとって大坂の陣とはなんだったのか。歴史的合戦・大坂の陣を形づくった人々にせまる。
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-抑えの利かぬ血気をもった転々流浪の戦国武将、塙直之。土佐大名から牢人へと転落していた、長宗我部盛親。秘めたる闘志を胸に、大坂の陣に参戦した二人には、一体どんな夢があったのだろうか。歴史的合戦に見果てぬ夢をみた二人の武将にせまる。
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-生え抜きの「秀吉子飼い」であり、賤ヶ岳七本槍の一人でもある福島正則や、秀吉によって理想的武将として育てられた加藤清正は、関ヶ原合戦・大坂の陣と、大坂方の敵として振る舞った。その理由は何か。歴史的合戦・大坂の陣を形づくった人々にせまる。
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-片桐且元、豊臣方からの訣別の理由。失敗続きの徳川秀忠が持っていた、将軍の資質。家康の側室から秘書官的存在にまでのぼった、阿茶局。東西の融和の橋渡し的役割を果たした、常高院。四人の登場人物から、歴史的合戦・大坂の陣にせまる。
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5.0慶長5年(1600)関ヶ原の戦い。豊前中津にいた黒田官兵衛は、自身の夢に向かって大博打を打つべく、九州平定を開始した。密かに臨んだ天下取り。しかし、徳川家康の眼は、その魂胆をも見抜いていた。家康と官兵衛、腹の探り合いのエピソード。
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2.0荒木七重(あらき ななえ)は『クラブあずま』で働いている。そして店に客として来る黒田にプロポーズされた。しかし、七重には誰にも話していない前科があった。容疑は殺人。父親を殺していた…酒癖・女癖が悪く、事件当夜には七重を強姦しようと襲ってきた拍子に、包丁で刺し殺人…。そんな自分に幸せになる資格があるのかと苦悩していた最中、黒田の娘という人物が現れ父のために結婚してくれと頼みにきた!そして結婚を決め――七重は幸せな生活を送っていたかに見えたが……。幸せになりたいが犯罪に手を染めてしまう女性のヒューマンドラマ作品!!
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-甲斐の虎・武田信玄の周囲には様々な女たちがいた。信玄を英雄に育て上げた母、薄幸な正室、はかなく露と消えた側室、溢れんばかりの愛を注いだ娘たち――激動の戦国乱世を生きた女たちの生涯から見えてくる、信玄の意外な一面とは?
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-三代将軍・徳川家光の第四子として生を受けた綱吉。相次ぐ兄の死で彼が将軍の座についたのは、運命の悪戯としか言いようがない。将軍となって以後、天和の治と呼ばれる善政を敷いた一方で、生類憐みの令などの悪法で世を混乱させた綱吉の本性とは?
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-徳川家康が征夷大将軍の座に就いた翌年、世子の秀忠に待望の男児が生まれた。生まれながらにして将軍になる事を運命づけられた男、後の家光の誕生である。不遇の幼少期、弟との確執を経て、名君と呼ばれるまで。徳川の世の礎を築いた家光の生涯を紐解く。
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-前田氏は尾張国荒子二〇〇〇貫を領する土豪であったが、戦国の風雲児・織田信長の台頭により、その運命は急転する。明日をも知れぬ戦国乱世を、固い結束のもと生き抜いた前田家。当主・前田利家を取り巻く加賀百万石の英傑たちを紹介する!
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-秀吉をして「自分と同等の才能を持っている」と言わしめた石田三成。財政に才幹を発揮した三成は出世街道をひた走り、五奉行随一の実力者にまで上り詰める。能吏として東奔西走した青年期、家康との対立、そして運命の関ヶ原へ――三成の生涯を活写する!
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-山内一豊――この男、特段智勇に優れたわけではない、だがこつこつと着実に功を重ねる辛抱強さを持っていた。そして幸運にも、利発な妻を娶ることができた。一豊と妻・千代は手を取り合い群雄割拠の乱世に挑む。天下人三代に仕えた“凡将”の出世物語!
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-衆目を集める派手な容姿と大胆不敵な行動――己の心のままに乱世を生きた漢たちのことを、人々は傾奇者と呼んだ。常識にとらわれない痛快な言動は時代を動かし、今なお多くの歴史ファンの心を掴んで離さない。そんな傾奇心あふれる六人の武将たちを紹介する!
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-戦国乱世を心の赴くままに生きた漢、前田慶次。天下人・秀吉を前にしても物怖じすることのない豪胆さ、人々の耳目を集める奇抜な姿と行動は、さすが天下御免の傾奇者である。そんな慶次の生涯を、ユーモアあふれるエピソードと共に紹介する!
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-軍神・上杉謙信の跡を継いだ景勝は、次々と襲ってくる上杉家存続の危機に、忠臣・直江兼続とともに立ち向かい、その武威を天下に示す。戦国乱世の織豊時代から泰平の江戸時代までを生き抜き、戦国随一の武門の血脈を守った景勝の生涯に迫る!
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-甲斐の虎と呼ばれた名将・武田信玄。父・信虎を追放し権力を握ったとき、生涯続く戦いの日々が幕を開けた。立ちはだかるは、上杉謙信、北条氏康ら名将たち。風林火山の御旗を翻し信玄は戦場を駆ける! 乱世を震撼させた武田信玄の闘争の軌跡を追う!
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-戦国時代、浅井三姉妹ほど激動の人生を送った女性たちはいないだろう。特に二度の結婚を経て徳川秀忠に嫁ぎ、後の三代将軍・家光を生んだ三女・お江は有名である。乱世を懸命に生きた彼女たちの誕生から婚姻、出産、死没までの生涯を追う。
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-微禄の武士の家に生まれた直江兼続だったが、謙信の薫陶を受けその才能を開花させていく。織豊、徳川と天下の趨勢が変化する中、兼続は謙信の跡を継いだ景勝と二人三脚で上杉家繁栄のため奔走する。天下人も舌を巻いた文武両道の智将、直江兼続の生涯を活写!
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-烈火のごとき勢いで奥羽を席巻し、独眼竜と恐れられた伊達政宗。戦国の世から太平の世へと変化する時代の潮目を見極め、仙台藩の礎を築いた男の生涯とは? 母との確執、若き日の激しい抗争、天下人たちとの対峙――豪胆にして繊細な政宗の人物像に迫る!
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-信仰に厚く穏やかな生活を望みながらも、戦場においては鬼神の如し。相反する資質をもった上杉謙信。その生涯は合戦に東奔西走する日々だった。たび重なる内紛や関東出陣、そして武田信玄。果てることのない合戦を、義のために戦い続けた、上杉謙信全記録。
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-欽家は蘇州でも有名な贋作の専門家系であった。贋作というからきこえがわるいので「複製品の製作」と言いなおせばよいであろう。おなじにせものでも、欽家のつくったものとわかれば、「欽家款」といって、かなり高い値段がついたものだ。 蘇州の有数な画人である貢幻門に二人の門下生がいた。一人は模本づくりに熱中する欽晋道で、もう一人は蒙古の朝廷に仕えて重用されている高応城である。 南宋の首都臨安が陥落したのは一二七六年二月だが、それより三年前、元軍の包囲を五年にわたって受け力尽きた襄陽の陥落が南宋の運命をきめた。そしていま芸術のみやこ蘇州は蒙古軍の襲来の前に風前の灯である。 欽家は蘇州の名品を必死で守ろうとしていた。しかし、その方法は? 蘇州にも蒙古の馬蹄の響きが伝わってきたのだ。
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-世界を征服した蒙古は、自分独自の文字をもたねばならなかった。フビライはチベットから連行した聖童の誉れの高かった八思巴(パスパ)に命じて新文字を作成させた。だが、どの筆もこの文字を書くために適していない。新しい筆が必要であった。湖州の筆匠馮応科は、パスパ文字用に穂が短く先端がやわらかで根もとからそこまでを極端に固くした奇妙な「新しい筆」をつくった。そして五十年以上筆匠として働いた。湖州は名筆の産地として有名になり、馮応科の名も世に宣伝されるよになった。 蒙古の宮廷では、多勢の写字生を雇って、せっせとあらゆる古典をパスパ文字に訳していたが、それを読もうとする者は一人もいなかった。その事業の主催者である皇帝さえも。パスパ文字の書物はいたずらに宮廷の倉庫に山と積まれて眠っていた。 やがて台州で、用心深い方国珍が造反した。これが元末の動乱のはじまりであった。
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-一四五三年東ローマ帝国、すなわちビザンティン王朝の命運は尽きようとしている。国都コンスタンティノーブルは、オスマン帝国軍に包囲された。 攻城、軍功は貴族のこと 剣戟ひびき 火噴きあげるも われらはなりわいにいそしむ― ローマと呼ばれた職人がいた。クロワゾンネすなわち七宝の技術をきわめ、宋の磁器に憧憬していた。戦乱をさけてローマはコンスタンティノーブルを離れ中国広州に向う。青磁の国にたどりつき、青磁の技法習得に没頭するために。 広州に着いてから、彼はラムと呼ばれた。ローマという発音に最も近い中国の姓は「藍」(ラム)だったからだ。 七宝のことが、中国では「景泰のラム」と呼ばれて五百年以上がたった。
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-清国の雍正帝の父康煕帝は名君のほまれ高い人物であったが、皇太子を立てず、臨終のとき後継者を指名した。「第四皇子のインシン」、これが雍正帝である。康煕帝が最も愛していたと思われたのは、十四男であったので、世間では雍正帝派が遺言の十を消して四だけにしたのだという噂が立った。先帝がほんとうに雍正帝を使命したかどうか、きわめて疑わしい。 雍正帝は即位すると、皇位継承のライバルであった兄弟たちをつぎつぎと片づけはじめた。 呂留良はすでに死んだ朱子学者である。彼の著書のなかに、大逆の思想があると言うので問題になった。呂留良の墓はあばかれ遺体の首は斬られ、さらし首にされた、そればかりではない。呂留良の子の呂毅中や主な弟子までが斬刑に処せられ呂留良の孫たちは流罪になった。雍正帝の政治は、独裁恐怖政治にほかならない。 ――いまこそ恨みをはらそう。呂四娘の指はふるえた。彼女は雍正帝に屍体をあばかれ首をさらされた朱子学者呂留良の孫娘であった。 ――父を殺し、祖父をはずかしめた皇帝に復讐しよう。彼女は心にそう誓った。 皇帝のそばに近づかないで、皇帝を毒殺する方法はないだろうか。景徳鎮の御器廠にもぐり込んだ呂四娘は二つの御用湯飲みに細工を施した。 一つは皇帝に献上され、もう一つの湯飲みは・・・・・・。 雍正十三年(一七三五)八月丁亥の日、雍正帝は病気にたおれ、二日後に死んだことになっている。だがじつは即死であった。猛毒に犯されたのだ。毒がどこからはいったのか、いくら調べてもわからなかった。
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-韓貞は波斯の当時最高の技術を持つすぐれた彫檀師。李有儀は長安に住み医薬を業としていた。二人は少年時代からの親友である。李有儀の大切な、美人で気立てがよいと評判の妹が皇后陛下の宮仕之にむりやりかり出されたという。 時代は中国唐代、玄宗上皇が死に皇帝粛宗が危篤で床に臥せていたとき、争いがもちあがった。粛宗の時代になって宦官の李輔国が擡頭した。優柔不断の粛宗の下で李輔国は兵権を掌握し宰相の地位を狙った。張皇后との関係は悪化し李輔国は、張皇后とその一味徒党と思われる人たちをすべて殺してしまった。 あんなに可愛がっていた李有儀の妹は、張皇后の侍女であったがゆえに、このたびの“皇后の謀反”に連座したという強弁で殺されてしまったのだ。 最愛の妹を殺した巨頭李輔国への復讐劇が始まった。彫檀師韓貞の神技の細工と仕掛け、李有儀の劇毒の処方、ほとんど出血はない毒殺の方法ほかすべては完璧になされ、李輔国の寝室に取りつけられた。ところが、発見された死体は血まみれで、そして首がなかったという。 これはどうしたことか。暗殺の真相は? それは本文で解明される。
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-張晋渓は蘇州で刺繍の名人として名があった。だが一八七〇年代、彼は新疆にいた。当時の新疆は流刑の地だった。張晋渓が新疆に着いてまもなく、新疆に動乱がおこった。ヤクブ・ベクが新疆に侵入してきたのだ。張晋渓はヤクブ・ベクの捕虜となり、その本陣トクスン城に連れてこられた。刺繍の技術を指導するように強制されたのだ。 新疆は乱れに乱れた。清朝の遠征軍派遣は遅れたが、司令官劉錦棠の巧みな戦術で、住民の信頼を失ったヤクブ・ベク軍は遁走してしまった。劉錦棠のトクスン城攻略の前に、張晋渓がひそかに製作した「金魚群泳図」が献上された。図には重要な軍事情報が秘されていた。はたして司令官劉錦棠は情報に気づくか? そしてその情報とは? 夜明け前の中国西端。動乱の新疆を舞台に名人刺繍工匠の秘話。
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-台湾出身の女形張阿火には十四歳の初舞台から豪商や大官など一流の贔屓筋がついた。張阿火は祝儀などをよく散し、たちまち取り巻きができた。楚々たる美女に扮したが、舞台をおりると、さながらやくざの頭目だった。そのころ清仏関係が決裂し、フランス艦隊が台湾基隆(キールン)砲台を攻撃した。張阿火は自力で義勇軍を募り、フランス艦隊と戦った。清仏間に和議が成立すると張阿火は義勇軍をそのまま海賊にして最後に仏船モンブラン号を襲うが失敗。文無しの張阿火は再び役者に。そしてある日、元モンブラン号の水夫長が広州沙面の租界で殺された。殺害時間に張阿火は舞台に立っていたというが……。
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