わかりやすい。何度か読み直したい。
● 位置: 261
しかしブッダは、この世界をしっかり観察した結果、「そういう救済者はどこにもいない」と確信しました。この世は原因と結果の因果則によって 粛々と動いているだけであって、不可思議な力をもった救済者など、どこにもいないと見抜いたのです。ですからわれわれの苦しみは、単に「老、病、死と離れることのできない苦しみ」なのではなく「老、病、死と離れることができず、そのうえ誰にも救ってもらうことのできない苦しみ」だというのです。
● 位置: 304
この世の苦しみを消すには、自分の心の在り方、ものの見方を変えるしかないというブッダの主張はその通りだと思います。人が老い、衰え、死ぬことがこの世の法則、自然の摂理であって、それを変えることもなくすこともできないのであれば、受け入れる側の自分の在り方を変えるしかない。そこにブッダの教えの本義があるのです。
● 位置: 314
ブッダによれば、この世の真理には「 苦諦」「 集 諦」「 滅諦」「 道諦」という四つの局面があります。「苦諦」とは、この世はひたすら苦しみであるという「一切皆苦」の真理。「集諦」は、その苦しみを生み出す原因が心の中の煩悩だと知ること、「滅諦」とは、その煩悩を消滅させることで苦が消えるという真理、そして「道諦」は、煩悩を消滅させるための具体的な八つの道を実践することです。
● 位置: 327
先ほど「道諦」は「煩悩を消滅させるための具体的な八つの道」という説明をしましたが、これを仏教では「 八正道」と言います。中身は、「 正見(正しいものの見方)」「 正 思惟(正しい考え)」「 正 語(正しい言葉)」「 正業(正しい行い)」「 正命(正しい生活)」「 正 精進(正しい努力)」「 正念(正しい自覚)」「 正定(正しい瞑想)」です。
● 位置: 335
言葉にすれば、なんのことはない、正しい生活を送れと言っているだけのようですが、その「正しい」という形容詞が重要です。それは、自分中心の誤った見解を捨て、この世の在りようを客観的に合理的に見るという意味を含んでいます。そのような姿勢で日々の行動を律していけば、煩悩を消すことができると言っているのです。
● 位置: 419
自分の救済者は自分自身である。他の誰が救ってくれようか。自分を正しく制御してはじめて、人は得難い救済者を手に入れるのだ。( 160)
● 位置: 480
知識や教養ではなく、ものごとを正しくとらえる力のことを言う。
● 位置: 514
愛慕の情から憂いが生じ、愛慕の情から恐れが生じる。愛慕の情を離れた者には憂いがない。まして恐れなどどこにもあり得ない。( 213)
● 位置: 516
快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れた者には憂いがない。まして恐れなどどこにもあり得ない。( 214)
● 位置: 542
「明」という単語は 智慧 という意味なので、「無明」といえば「その智慧がない」ということ、つまり「愚かさ」を意味します。「愚かさこそが諸悪の根源」、「煩悩の親分」というわけです。
● 位置: 544
ただし「愚かさ」といっても、それはたんに知識が足りないとか、学がないといった表層的な意味ではありません。ものごとを正しく、合理的に考える力が欠如しているという本質的な 暗愚 を指します。
● 位置: 564
愚かな者が、自分を愚かであると自覚するなら、彼はそのことによって賢者となる。愚かな者が自分を賢いと考えるなら、そういう者こそが愚か者と言われる。( 63)
● 位置: 584
この世では、恨みが恨みによって 鎮まるということは絶対にあり得ない。恨みは、恨みを捨てることによって鎮まる。これは永遠の真理である。
● 位置: 606
無明というのは、「智慧(明)」が「無い」ことです。ではその、智慧がないとはどういうことかというと、「この世で起こっているものごとを正しくとらえる力がない」ということです。あるいは、「この世で起こっているものごとを自分の都合でねじ曲げてとらえている」ということです。これを逆に言うと、現実をありのままに正しく認識できるならば、それは「明」なのです。
● 位置: 610
では、この世で起こっているものごとの正しい姿とは何か。それはすなわち、「すべてうつろう」ということです。すべてのものは時々刻々と変化するのであり、永遠不滅なものなど、どこにもない。これを「 諸行無常」と言います。『平家物語』でもお馴染みの、あの「諸行無常」です。
● 位置: 639
因果関係によって作り出されたすべてのものは無常である」(諸行無常)と智慧によって見る時、人は苦しみを 厭い離れる。これが、人が清らかになるための道である。( 277)
● 位置: 658
私の尊敬する仏教学者、木村泰賢(*1) さんが、「映写機」を使った比喩で、諸行無常についてわかりやすい表現をなさっていたのを記憶しています。この世の時間の流れは映写機のフィルムのようなもので、まだ見ていないコマが未来で、それがランプの前に来てスクリーンに映し出されたその瞬間が現在、映し終わってリールに巻き取られた部分が過去である ── というたとえです。
● 位置: 663
スクリーン上の映像はたいへんな速さで移り変わっていくので、観客の目には一つの存在物が連続して動いているように見えますが、じつは一コマ一コマ区切られた別個の静止物であり、それらが一瞬毎に生まれては消えていく、その連続がこの世の真の姿なのです。この世はこれ以上分割できない短い時間のコマからできあがった集合体である、という考えです。
● 位置: 667
その「これ以上分割できない短い時間のコマ」、それを仏教では「 刹那」と言います。そして、宇宙に遍在しているいっさいの事物は、刹那、刹那でうつろっていくと考えます。
● 位置: 736
愚かな人は、「私には息子がいる」「私には財産がある」などといってそれで思い悩むが、自分自身がそもそも自分のものではない。ましてやどうして、息子が自分のものであろうか。財産が自分のものであったりしようか。( 62)
● 位置: 743
ん。しかしその情愛が増幅されていくと執著になります。自分で勝手に子どもの生き方や将来の職業まで決めてしまって、無理矢理その道を進ませようとする。「お前はこの家を継がねばならない」とか「あなたは将来、こういう学校を卒業して、こういう仕事につくんですよ」などと言い出す。子どもを自分の所有物だと思うから執著が湧き、自分の思うとおりに動かしたいという欲求が生まれてくるのです。
● 位置: 752
子どもや財産だけでなく、実は「私」というものも、自分の所有物ではない。ですから「こうしよう」「ああしよう」と思っても、そのように自分を動かしていくことができない。頭の中でいくら理想の「自分像」を作ってみても、現実の私はどんどんそこから 逸れていってしまう。この世に、「これだけは私のものだ。これだけは、私の思いどおりになるのだ」という、そんなものはどこにもないということなのです。 「自分」はどこにもない
● 位置: 762
われわれはふつう、自分の利益のため、自分の功名のため、自分の楽しさのため、自分の幸せのため…… と、なにごとも自分を中心に置き、自分に都合のよい方向でものを考えます。ところがブッダは、そもそも自分などないのであり、ありもしない自分を中心に世界をとらえるのは愚かのきわみだと説きました。
● 位置: 765
われわれはまず、自我というものを世界の中心に想定し、そのまわりに自分の所有する縄張りのようなものを同心円上に形作っていきます。そしてそのいちばん外側に、世間と呼ばれる一般社会を配置します。自分はこの世界像の 主 ですから、手に入っていないものがあったら手に入れ、意のままになる縄張りの部分を増やしていこうとします。これが執著です。
● 位置: 769
すなわち、執著とは、この「自分中心」の世界観から発生するのです。自分中心の考え方に立つ限り、欲望は消えませんし、きりがありません。 しかし、ここでその中心人物たる自分を、「それは実在しない仮想の存在である」として、その絶対存在性を否定してしまうと、まわりにある所有世界も自然に消えます。自分というのは、本質のない仮想存在なのですから、当然、それを取り巻く世界も仮想だということになり、執著もおのずと消えるわけです。これを表す言葉を、「 諸法 無我」と言います。
● 位置: 776
すべての存在に、自我なるものはない」(諸法無我)と 智慧 によって見る時、人は苦しみを 厭い離れる。これが、人が清らかになるための道である。
● 位置: 779
この世の一切の事物は自分のものではないと自覚して、自我の虚しい主張と縁を切った時、執著との縁も切れ、初めて苦しみのない状態を達成できると説いています。
● 位置: 780
前章で「この世のすべてのものはうつろう」という意味で「諸行無常」という言葉をご紹介しました。そしてこの章では「この世に『私』という絶対的存在など、どこにもない」という意味で「諸法無我」という言葉を新しく出しました。この二つが、世界を正しく見るための羅針盤です。
● 位置: 789
行というのは、「原因と結果の因果関係によってこの世に生まれ出るすべてのもの」という意味です。行は別名「 有為」とも言います。いろは歌で「うゐのおくやま けふこえて」という、あの「うゐ」です。つまり、「諸行無常」とは、「因果則によってこの世に現れ出るすべての事物は無常だ」と言っているのです。
● 位置: 792
これに対して法というのは、行(=有為)よりも一層広い概念で、「因果則によってこの世に現れ出るすべてのものと、そして、因果則を離れて不変不滅の状態にあるもの」を合わせて呼ぶ名称です。
● 位置: 804
まとめてみましょう。「諸行無常」とは、「有為法はすべて無常だ」という主張です。ならば無為法はどうなのか。それは時間をこえた永遠に変化しない状態なので無常ではありません。ですから「諸法無常」とは言えません。法には無為法も含まれているからです。これに対して「諸法無我」と言うことは問題ありません。有為法をみても、無為法をみても、どこにも「自分」という絶対存在などないからです。こういった理屈が背景にあって、「諸行無常」「諸法無我」という主張が成り立っているのです。
● 位置: 840
しかしそうは言っても、現実に私はここにこうして生きているのですから、「やはり私という実在がここにいるではないか」という思いが残るのは当然です。「いるようで、本当はいない」というこの状態を私たちはどう理解したらよいのか。それについて、『ダンマパダ』は次のように語ります。
見よ、飾り立てられた形体を。傷だらけの身体であり、要素が集まっただけのものである。病にかかり、勝手な思わくばかり多くて、そこには堅実さも安定もない。( 147)
● 位置: 846
すなわち人間を、「いろいろなものが集まっただけ」の、要素の集合体と考えたのです。 この状態は、よく「車輪」にたとえられます。木でできた、荷車や馬車の車輪です。それは、「回転して荷物を運ぶ」という独自の働きをする、絶対的な存在であるかのようにしてそこにあります。しかしよく見ると、それはさまざまな構成要素の集合体にすぎません。外枠やスポークや中心の軸受けなど、それぞれ別個の部品が集まって結合したものが、仮の存在として「車輪」と呼ばれているのです。もしその結合が解けて、部品がバラバラになってしまえば、そこにはもう「車輪」は存在しませんし、「回転して荷物を運ぶ」という機能も消滅します。
● 位置: 852
われわれもこれと同じで、肉体を作るさまざまな物質的要素と、精神を形作るさまざまな心的要素が集まって「私」という仮の存在を生み出しているだけで、それらがバラバラに分解されたなら、私という存在はその瞬間に消滅し、私を中心にした世界も消え失せる。それが「私」というものの正体だと、ブッダは言います。
● 位置: 888
しかし、ブッダの考えに従えば、これとは全く別の受け入れ方が見えてきます。人を要素の集合体と見るなら、その人が死ねば、その集合体は 雲散霧消 して消滅します。仮に輪廻のエネルギーは続いていくと考えるにしても、実際の存在物としては、その人はこの世からいなくなるわけです。ですが、その人が存在していたことの意味は消えません。なぜなら、その人が生きていた時にまわりの無数の人たちに与えた影響は、そのままそういった人たちの集合要素の中に残っているからです。
● 位置: 900
子を亡くした親は、愛しい存在がいなくなってしまった悲しみで心を引き裂かれます。そしていなくなった子が、それでもどこかに以前のままの姿で生き続けているのではないかと考えて、いろいろな死後の在りようを想像します。それは親の情としてあたりまえのこと。しかし、そういった非日常的な神秘世界を考えなくても、子は親の存在そのものの中に生き続けているのです。子を亡くした親が、人の命の尊さを深く感得し、自分と同じ境遇の人たちに共感し、心優しく生きていくなら、それは亡くなった子の存在がそうさせているのであって、子と親は一緒に生きているということになるのです。
● 位置: 1,147
「外界からの情報を遮断することで、世の中の真の姿が見えてくる」という主張は、情報量を優先する現代的価値観から見ると矛盾しているようにも思えますが、情報の真の価値は、それを精神が正しく適切に処理して初めて表れる、という事実を考慮すれば、全く正しいことだと思います。
● 位置: 1,150
その状態について、私が例としてよく申し上げるのは、数学の問題を解く場合です。数学の問題というのは、精神が集中していなければ解けません。
● 位置: 1,152
完全に精神を集中して、その問題の世界に没入した時はじめて、私たちは正しい答えに導かれるのです。その瞬間の精神状態に鑑みると、雑念や 苛立ちはもちろん、意気込みのようなものもすべて消えて、何も考えない状態になっています。逆説的な話ですが、極度の集中の先にあるのは、答えが自然に見えてくる状態、何も考えない状態です。数学者は、これを「ひらめき」と呼びます。
● 位置: 1,156
重要なのは、その数学の問題の正解がもともと問題の中に内蔵されていたということです。答えは最初からそこにあったのに、いろいろな 夾雑物に邪魔されて見えなかっただけなのです。それが、精神を完全に集中することで必要な情報といらない情報が選別され、必要な情報が正しく連結されることで見えるようになる。時おり、答えがわかったあとに、「なぜこんな簡単なことがわからなかったんだろう」といった思いを持つことがありますが、それがまさに、「真理を見る」ということの本質をついた点なのです。
● 位置: 1,244
たしかにこの「空」という単語は、「釈迦の仏教」でも用いられています。しかし、「釈迦の仏教」で言うところの「空」は、大乗仏教におけるほど重要視される概念ではありません。
● 位置: 1,260
「釈迦の仏教」では、この世の出来事はすべて、原因と結果の 峻厳 な因果関係にもとづいて動きます。自分がなしたことの結果は必ず自分に返ってきます。因果関係を無視してどんなことでもしてくれる超越的な絶対者など存在せず、人は自分の行為に対して、一〇〇パーセントその責任を負わねばならないのです。
● 位置: 1,263
ところが大乗仏教においては、人が救われるかどうかは、必ずしも原因と結果の法則によりません。その因果則を超えて、われわれを不思議なパワーで仏の境地へと導いてくれる、特別な何かがあると考えるからです。「特別な何か」というのは、「別の世界にいる仏」であったり「一般の因果則を超えたハイパー因果関係」であったり、さまざまなかたちが考案されましたが、いずれにしろ、「釈迦の仏教」が言う因果則では説明できない、神秘的な作用を想定しているのです。
● 位置: 1,268
しかしながら、この理論を根拠づけるためには、それまでの因果則をどこかで崩さねばなりません。そこで大乗仏教では、「私たちが普通に想定しているものごとの関係性はたんなる錯覚であり、その背後には、凡人には理解困難な、より高次な世界がある」と主張するようになります。これが「世界の本質は、きわめて深遠にして理解の難しい原理にもとづいている」という主張になり、「空」の思想を形成していくのです。
● 位置: 1,497
感情などの話となると、また別になってきます。何かの出来事に、感情がものすごく結びついている ──「幸せだった」「あれはよかった」「あれは非常に悔しい思いをした」「奴には恨みがある」 ── そういうようなことは、また脳の中の違った場所で処理されています。そこでは、ものを見ることよりもう少し意識的なコントロールができる、というふうに私は思います。それは自分自身の経験としてもそうですし、脳科学の立場からの知見としても、可能性は高いと思います。