佐々木閑のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ以前TVでとり上げられた素粒子物理学者、故・戸塚洋二氏のお話の中で、佐々木閑(ささき・しずか)氏のことが触れられ、とても興味を持っていました。
佐々木氏が科学者から仏教学者に転身したと言う経歴も。
今回、佐々木氏の「犀の角たち」と共にこの本を買い読み始めたのですが、非常に驚いたというのが実感です。
と言うのは、佐々木氏の本を読んだのは初めてなのですが、私が感じ、思っていることがあまりに多く語られているのです。
また、違った観点からの発見も。
以前は小乗仏教と呼ばれ、それが誤解を招くと現在は上座部仏教と呼ぶことがほとんどですが、それを敢えて小乗仏教と呼び、その意味を正しく理解してほしいと願われているところは、なるほどそう言う方向性もあったのかと思ったり。
日本に伝わった仏教は大乗仏教と言われ、小乗仏教と全く違った体系をしています。
私はどちらかと言うと(小乗仏教)上座部仏教と言う釈迦がいた頃の原始仏教に近い仏教にとても興味があります。
それは仏教を宗教の一つとして捉えるのではなく、哲学として学びたいと思っているからなのかもしれません。
そして仏教の教えの中で、私が疑問に思っていたことも読むうちに氷解していきます。
釈迦が本来導きたかったのは、絶対的な存在にすがることではなかったのですね。
生きることは「苦」である・・。そこからいかに「苦」と向き合うのか、それは自分の中に答えがあると言うことなのだなと思います。
また私の心の拠り所となったチューラパンタカ(周利槃特・しゅりはんどく)のお話もこの本に載っていて感激。
釈迦の弟子であったチューラパンタカと言う人はあまり賢い人ではなかったので、修行が上手く出来なかったそうです。他の弟子にも呆れられるほど。そんなチューラパンタカに釈迦は日々の掃除をせよと命じます。チューラパンタカはそれから毎日掃除に励むうちに悟りを開いたと言うお話です。
賢くなくても、不器用にしか生きられなくても、日々前に進もうと努力することが大事であると感じさせられるお話で、勇気が湧きます。
私がスリランカに行ってみたかったのは、釈迦の存在を近くに感じたかったこともあったんですけどね。
でも釈迦は絶対的な存在ではありません。
釈迦自身も入滅の際、そのように弟子達に伝えています。
『私の死後、皆の拠り所は私の教えとお前達自身である』と。
後継者を出すでもなく、絶対的『神』を持ち出すことでもない、全ては教えと言う悟りへの道筋と自身が考えること(内観)であると釈迦は伝えているのですね。
また、ちょっと話は変わりますが、先日の政府の事業仕分けで最先端科学技術に与えられる予算が大幅に削減との報道があったり、「一番ではなく二番ではいけないんですか?」という発言がありましたね。
私は「別に二番でもいいじゃない」って思っていた人なんですが、佐々木氏の科学者の物の考え方を知っていくうちに、それではいけないんだなと言うことを感じました。科学者とは「二番でいいや」と言う考えでは研究できないんですよね、目指すは「一番」なのだと。それが研究する原動力なんですね。
なので、それに必要であれば未来への投資をすることはとても大事なことなんだなぁと感じました。
今は何に使えるか分からない発見や発明も、その後重要な役目を果たすことが往々にしてあると言うこと、これは目から鱗でした。
もちろん無駄遣いは厳禁ですが。
そして日本における仏教のあり方・・・。
元々は厳しい修行をし、人からの施しのみで生きなければならないのです。
それには道を求めて修行する尊さがあるからこそ、皆が布施をするんだと言うことを僧は心に刻んでおかねばならないのではと思います。
とにかく今は自分の精神を磨かないといけませんけどね。
少しずつでも。
日々是修行です。 -
Posted by ブクログ
宗教における利他主義とは何かを知りたくて行き着いた大乗仏教。
100分de名著なら読みやすいだろうと思っていましたが、予想以上に分かりやすくて楽しめました。
頭の良い人の分かりやすい文章ってとことん分かりやすいから好きさ(どうした)
改めて読むと仏教ってものを私は全く理解していなかった。某悪徳Q坊主様にも是非とも一読願いたい。
さて、利他主義についてはそこまでフォーカスされていなかったけれど、個人的にほう!となった事をあげてみます。
ほう!その1
仏教という一つの教えが様々に枝分かれしながらも、それぞれが否定し合うことなく、仏教という一つのジャンルの中で並存できたことが、仏教が世界に拡大していった最大の理由。
(詳しい方からしたら何をいまさら!となるかな?)
ほう!その2
善行を積むことがブッダになるための修行だと大乗仏教では考える。わかりやすく言うと「利他の気持ちを持って行動しなさい」ということ。
勿論「釈迦の仏教」にも「利他」の概念は存在するが、そこでは「自利をベースにした利他」を基本構造としている。
自分が率先して厳しい修行に励む姿を見せることで、苦しみを抱えながら暮らしている人たちに「そうか、こういう救いの道もあるのか」と気付きを与えるころが「釈迦の仏教」における利他である。
言ってみれば、良き手本となってみんなを導くという形での利他なのだ。これに対して大乗仏教の利他はもっと直接的で「自分を犠牲にして誰かを救うこと」が基本となる。
(おいおい、利他にも種類があるのかい!)
ほう!その3
お釈迦様は実は「輪廻を断ち切り涅槃を目指すには、この世では善いことも悪い事もしてはならない」と言っている。
業を作るような、自意識に根ざした行動をするな、ということだ。
善いことも悪いこともせずに、ひたすら瞑想修行に励んで業のパワーを消して輪廻を止めること。それこそが「釈迦の仏教」の本質というわけだ。この観点から言えば『般若経』の考えは矛盾している。
「過去でブッダと出会い、誓願を立てて菩薩となり、そのあとの長い生まれ変わり死に変わりの中、ひたすら日常的な善行を積むことによって、自分自身がブッダとなり最後には涅槃に入る」と言うのだから、本来の業の定則が壊れている。
これで「般若経」の教えと釈迦の教えが全く別物であることがわかる。
(誰でもブッダになれる?!えらいこっちゃ!!)
ほう!その4
最初から『般若心経』には「このお経は呪文である」と記されている。
たとえば『般若心経』の後半にこのような一説が登場する。
「故知般若波羅蜜多 是大神じゅ(変換できねえ!) 是無上じゅ 是無等等じゅ 能除一切苦 真実不虚」
現代語訳すると「ゆえに以下のことを理解せよ。般若波羅蜜多は大いなる真言(マントラ)であり、大いなる知力を持つ真言であり、最上の真言であり、比類なき真言であり、一切の苦しみを鎮める真言であり、嘘いつわりがない真実なのである」となる。
つまりこのお経さえとなえれば、苦しみはすべて取り除かれる、どのようなことにも効く、万能の呪文だ、とはっきりと書かれているわけだ。ぎゃていぎゃてい…といかにも呪文らしいくだりが登場するが、これは原典のサンスクリットの音「ガテー・ガテー…」をそのまま漢字に置き換えたからだ。どうしてこの部分だけ意訳されなかったかというと、こここそが呪文であって、置き換えてしまうと言葉に秘められた神秘のパワーが失われてしまうからだ。
(当て字だったのか!!確かに誰かを呪殺できそう!え、そっちじゃない?)
ほう!その5
お経をとなえて寿命が延びたなどの事例はプラシーボ効果にすぎないと思ってもらっても一向に構わない。
感じ方は人それぞれであって良い。
しかし、大きな力の存在を信じることで心にパワーをもらい、そのおかげで病気を克服したり、救いを感じたりする人が実際にいるのも事実だ。
自分の力で苦しみから逃れようと思っても、一人ではどうすることもできず、何か大きな力に頼ることでしか救われない人もいるのだ。そうした人を救うという意味においては『般若経』が「神秘性」というものをベースに置いていることは、決して悪いことではないと思える。
(不調を感じたら皆さんお経を唱えましょう!生まれ変われます!)
いや、面白い。
ちょっと般若心経を読んでみたくなりました。ト書きしてくれてないと読めませんけれども。
ここまで読んでくださった皆さん、おめでとうございます。
これで皆さんは晴れて涅槃に行けてブッダになれます。南無阿弥陀仏…
ちなみに、これについて教授と話をしていたらいつの間にか俺の話を聞いてくれフェーズになり、お寿司と引替えに夜中まで話を聞いておりました。
どうせなら、仏教の話をして欲しかった。
酔った教授が俺の話なんて誰も聞かねえんだ、と悲しそうなので「僕が今聞いてます、半分寝てるけど」と言っておきました。 -
Posted by ブクログ
宮崎哲弥氏が大乗の仏教者というの初めて知った。佐々木閑という仏教学者との対談。序章でブッダが教えていたことは何かということから始まるんだけど、最近ブッダの教えに関して読んでたからそうでもないものの、初めて知ったらえーってなりそう。
2章以降は仏法僧それぞれについて。まずブッダとは何者なのか。釈迦は神ではないと。仏伝だとか苦行では悟れないとか、梵天勧請とか。
法では仏教の基本OSとして縁起、輪廻、苦、無我、無常など。
僧では日本に仏教が外交や政治の道具として導入されたのでサンガが根付かなかったとか。
あとはテーラワーダ仏教がブッダ以来の教えが変わらずに受け継がれているという原理主義的な傾きをしないか危機感を抱いていた。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ著者は佐々木 閑氏。WiKi情報では、「日本の仏教学者(インド仏教史、戒律)、真宗高田派の僧、花園大学教授」等と紹介されており、他サイトでは、「京都大学工学部工業化学科および文学部哲学科卒業。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学後,米国カリフォルニア大学バークレー校留学を経て花園大学文学部教授」等の経歴も紹介されており、日本の仏教界では著名で権威ある方であると思う。
私自身のもつ信仰とは仏教という点では共通しているが、自身は真宗高田派ではなく、法華経を信仰しているため、その点で仏教の理解という点で角度の差が当然出てくるかもしれないと思ったが、科学と仏教を語られているという点で、非常に興味がわいたので読ませて頂いた。
目次は以下のようになっている。
第一章 物理学:科学のパラダイムシフトから進展の方向性を探る
第二章 進化論:過去に一度だけ起こった生物進化を巡って
第三章 数学:思考だけで成り立つ美しい世界は絶対の真理なのか(付論 ペンローズ説の考察)
第四章 釈尊、仏教
第五章 そして大乗:仏教の多様性はいかにして生まれ、どこに向かうのか
第一章は物理学の歴史を、第二章は進化論の歴史を、第三章では数学の歴史を非常に緻密にかつ分かりやすく説明されている。それぞれの学問の発展にキーとなる人物を取り上げ、それぞれの人物の理論を分かりやすく解説しながら、対立構造や理論の進化の流れについて理解することができる。ここまでの3章だけでも、近代の物理学、生物学、数学の概論を学べたような気分になれる。以上が、本書の「科学」の部分だと思う。
この「科学」の部分が本書の導入であり、そこに著者の柱となる考えが込められている。ひとつは「科学の人間化」という考え、そしてもう一つは、その発展系としての「下降感覚の原理」という考えが込められている。
また科学の進展には「パラダイムシフト」が不可欠であり、その「パラダイムシフト」の裏側には、「科学の人間化」の事実をみつけることができる、というように自分は本書の内容を理解した。
「科学の人間化」という言葉は、興味深く、これはそもそも科学がキリスト教を背景に発展してきたことをとらえ、歴史上の偉大な物理学者、生物学者、数学者も、その考えの中に絶対的な「神」の法則が存在していたことを指摘する。
極端な言い方をすれば、「人間に解明できない」法則については、「神」の法則とされていたし、ケプラーの言葉を借りれば「動きの美しさ、法則の数学的端正さこそが神の存在証明であった」というように、美しさが感じられる法則は、神の法則であり、そこにが人間ごときが手を加えることは不謹慎というような発想があって、それが真実の究明を遅らせる要因であったということを述べられている。
現に、勇気をもって神の法則に手を下し、新たな真実を発見し、科学を進展させた人物たちの業績は偉大であり、そのことを著者は「科学の人間化」(神の科学を人間の科学に引き寄せた…というような意味だろうか)と言っている。そして、その反対の「神の法則に人間が手を下すことは不謹慎」というような発想や感覚を「下降感覚の原理」と言われているようだ。
ここまでは、キリスト教の「万物を創造する神」の存在が、科学の進展を妨げる要素となってきたのではないかという指摘であり、そのキリスト教とは対照的な発想の宗教である仏教のとらえかた(自分の外に絶対神があるのではなく、自分自身がブッダであるというとらえ方、著者の言葉で言えば、自身の努力でブッダとなれる)には、もともと科学に親和性が備わっていると述べられているのだと思う。
科学のように「人間化」して真実を追求するまでもなく、宗教そのものが「人間」の宗教なのだから、科学の本質と仏教の考え方は一致していると述べているのだと思う。この点で、読者である自分自身も全く同感である。おそらく今後、科学の進展は、仏教の正しさを証明していくことになるのではないかと想像する。
第四章、第五章は、仏教の視点から述べられているが、著者は大乗仏教非仏説(大乗仏教は、釈尊の言葉に、後世の人びとが後付けしたものであり、釈尊の真実のかんがえではないというもの)をとられており、大乗仏教とりわけ「法華経」を信仰する読者には、違和感を感じることは否めない。
むしろ、著者が「法華経」の信者か、がっつり「法華経研究」を究められた方であれば、科学と仏教の関係性をより興味深く読めたのではないかと思う。大学者の著者に一般読者の図々しい要望ではありますが…(笑)。
本書の物理学、量子力学の説明のあたりで、不確定性原理(観察によって物理現象の発生は確率でしか述べられない)やパラレルワールドのところでは、例えば、現在の常識(科学)では不可能とされているものでも、例えば病気の治癒が確率的に1%しかなくとも、「祈りの力で不可能を可能に変えることができる」根拠などにつながるような話が出てこないかな~、などと期待しつつ読んでいました(その話はありませんでした)。
以上のような点を割り引いたとしても、全体として、非常に面白く読むことができました。