あらすじ
【本書の要点】●身近な死を実感した古舘氏が人生後半で出合ったのが仏教だった。 ●日本では大乗仏教が浸透しているが、本来の仏教は原始釈迦仏教。 ●自我をなくしていけば、人生の苦しみが軽減される。 ●老・病・死に直面する人生後半こそ、ブッダの教えが効いてくる。 ●釈迦の仏教は論理的な真理であり、科学との共通点が多い。 プロレスやF1の実況で人気を博した古舘氏は、なぜ人生後半で仏教に熱中するのか。老・病・死に向き合い、「生きる意味」を考えるうえで、釈迦(ブッダ)の仏教がヒントになる。釈迦仏教の碩学である佐々木氏と、自我の抑制に勤しむ古舘氏が、穏やかな心で生きる作法について議論する。 【仏教の基礎が“古舘節”でわかる!】●「これからも釈迦の“推し活”を続けていきますよ」 ●「僕にとって佐々木先生は、天下一品の“釈迦コンシェルジュ”なんです」 ●「法然の浄土宗は“ヘルプミー・ブッダ!”と極楽往生を願い、親鸞の浄土真宗は、約束された極楽往生に“サンキュー・ブッダ!”と感謝するんだ」 ●「最澄の天台宗は、阿弥陀様の信仰も法華経も詰め合わせた“仏教福袋”だ」 ●「僕も頑張れば“リトル道元”になれるかな」
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Posted by ブクログ
仏教は「自分の欲を消すためのトレーニング」であり、それが幸せに至る道。人生や仕事を通じて、自分の思いを他者に伝えたいという気持ちはありますが、この本の中で「聞いてくれる人だけ聞いてくれたらいい、信じる人だけ信じてくれたらいい」という言葉に強く共感。無理に押し付けることなく、自分の信念を持ちながらも他者を尊重する姿勢が、仏教の教えに沿った生き方だと感じた。
Posted by ブクログ
釈迦の教えが今の一般的な仏教とは異なることを知った。
今まで胡散臭く感じていたが少し勉強してみようと思った。
今の自分にちょうど良くささった。
Posted by ブクログ
『仏教』って何を指すのか?それすら分からない中で、『釈迦』の存在や、大乗仏教や、・・。
少し違いが分かってきた。まず、釈迦の教えを知るために、書物を探す気になった。
Posted by ブクログ
●本書抜粋
「どんな音にも驚かないライオンのように、網に捕らえられることのない風のように、水で濡れることのない蓮のように、犀の角の如く、ただ独り歩め」
お釈迦さまが考える仏道修行者の姿。今の自分に当てはめて、自分を奮い立たせることが出来る言葉だと感じた。
⚫︎本書解説
本書は、お釈迦さまの仏教、日本に伝わった大乗仏教、仏教と現代社会問題について古舘伊知郎氏と仏教学著名の佐々木閑氏における対談形式でまとめられている。
お二人とも、お釈迦さまの仏教を信じ実践しているが、大乗仏教には大乗仏教の良さがありどちらが良いということはないとの事だ。
自我を完全に無くすことは難しいが、少しでも我を抑えて生活、つまり釈迦の仏教の実践をして苦しみを減らしたいと思えた。(そもそも私というものは五蘊で構成されているだけであって存在しない)
また、科学と仏教は全く違うジャンルの話だと思っていたが、意外にも共通していることはあり、またこれからの仏教は科学の発展によってまた変化していくのではないかとのことである。
Posted by ブクログ
心に響くものがありました。諸行無常のこの世界、人生の後半よりも前半で抜苦与薬の仏教に本格的に触れていれば、苦しみも少なく済んだのにと個人的に思いました。
Posted by ブクログ
釈迦のファン、推し活をするのが趣味だという古舘氏。嫌いではないのだが、およそ仏教とは程遠い、自己顕示欲の人という印象だ。豊富な語彙を気持ちよくスピーディーに放つ、スポーツのような発話をする人であり、仏教の深い思想というよりも、言葉のコレクターとして、仏教の説法や言葉遣いが気にいったのではないだろうか。お経にはリズムがあるし、仏教には知識欲を満たす独自の論理や世界観があり、何せ、古舘氏の好きそうな四字熟語がわんさかある。
愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦・・ああ、四苦八苦。
古舘氏が仏教に興味を持ったきっかけは、最愛の姉を42歳の若さで亡くしたこと。この経験を通じて「死」を実感し、生きることへの漠然とした不安に対する保険として仏教に惹かれるようになり、仏教の教えが、欲や自我を抑える心の拠り所となり、人生の苦しみを軽減する手助けになると感じたという事だ。
我欲から逃れるための仏教。執着が強いから、現生での向上心や自己顕示欲が強くなり、しかしそれ故に苦しいから、そこに救いを求める。どんなものでも、恰好から入る、というと聞こえは悪いが、そんな理由でも良いのだと思う。
冒頭で、揶揄するような書き方をしたが、教養とは他人の言葉のコレクションでもあり、そのスノビズムを癒してくれるものもまた、他人の言葉や説法でしかないのかもしれない。その言葉の輪廻の中で古舘氏自身が形成されていくのだろう。