ラフカディオ・ハーンのレビュー一覧
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怪談 不思議なことの物語と研究
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試し読み
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Posted by ブクログ
ラフカディオ・ハーン=小泉八雲というのは、近年ではNHKの朝の連続ドラマで放送していたので誰もが知っている有名な話。
ちなみに、小泉セツさんと結婚して帰化したので小泉八雲と改名したらしい。
当然、ラフカディオ・ハーンさんは外国人なわけで、日本の怪異譚(クヮイダン/怪談)に興味を持たれて、「怪談 KWAIDAN」を書かれたのだから外国語で書かれているのですよね。
それを小説家・円城塔が翻訳したとあれば、読まない訳にはいかないでしょう。
〈ミミ・ナシ・ホーイチの物語〉
ホーイチ・ジ・イヤーレスはヘイケ・グレイブヤードでビワを激しくプレイした!
〈ロクロ・クビ〉
スライド式のスクリーンを開け、そうして彼は見たのだったが、ランタンの光に照らし出された五人の寝姿には――首が無かった!
など“直訳”調に翻訳されている。 -
Posted by ブクログ
NHKの朝ドラ「ばけばけ」で、ラフカディオ・ハーンが取り上げられ、名前は知っているが、その人となりや考え方など詳しいことを知りたくて読んだ。ハーンが訪日して熊本に移るまで、出雲や松江で過ごした日々がエッセイ風に記されている。当時の情景が目に浮かぶようなきめ細かな表現力と、それを伝える平易な言い回しに感銘を受ける。本人の感性や描写力もあるが、著者そのものの言葉を感じさせる名訳でもある。江戸時代の鎖国を通じて日本独特の文化やマナーが築かれてきたことを感じ、アメリカからの画一的な文化、便利さだけを追求していった結果、地方色が薄れ廃れていった感が拭えない。現代の日本に来たとしたら、ハーンはどんな思いを抱くだろうか、進歩する意味を考えざるを得ない。
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Posted by ブクログ
新潮文庫の「小泉八雲集」には「怪談」収録作がある程度入っていた。
5年前の小泉八雲記念館の企画展「妖怪へのまなざし」の図録の中に、再話作品解説があったので、まずはそれを、
(図録未収録作については検索してみたら、「やくもラボ」というnoteが程よかった)
次に本文、
最後に訳者による解題、
と読み進めた。
帯の、「ホーイチはヘイケ・グレイブヤードでビワを激しくプレイし、オ・テイは生まれ変わって現れるーー。」という惹句は訳者あとがきにあるが、本番の文章ではそこまで「ルー語」ではない。
むしろ少し前に紫式部「源氏物語」関係で聞いた「らせん訳」、というか、アーサー・ウェイリー版の邦訳というか。
「当時の英語読者のように読む」ための翻訳らしいが、解題が、その体験を追体験する、という体裁になっていて、よかった。
解題にすらエキサイティング要素を入れて。
さすが円城塔の、言語実験……翻訳ですら。
@
序
怪談
ミミ・ナシ・ホーイチの物語
オシドリ
オ・テイの物語
ウバザクラ
かけひき
鏡と鐘と
ジキニンキ
ムジナ
ロクロ・クビ
葬られた秘密
ユキ・オンナ
アオヤギの物語
ジウ・ロク・ザクラ
アキノスケの夢
リキ・バカ
ヒ・マワリ
ホーライ
虫の研究
蝶
蚊
蟻
解題
訳者あとがき -
Posted by ブクログ
『ばけばけ』関連2冊目。
ラフカディオ・ハーンの『怪談』はいろんな版が出ていますが、最近出版された(2025年8月)こちらにしてみました。
『怪談』をはじめ、『骨董』、『霊の日本』などからハーンによる再話文学、彼のアニミズム的自然観、仏教的生命観が書かれたエッセイを収録。
小泉八雲といえば『耳なし芳一』。アニメ放送自体を見ていないにも関わらず、保育園にあった『日本昔ばなし』カルタの『耳なし芳一』の絵札がめちゃくちゃ怖かったことを覚えています。大人になって読むと、怖いというより、哀しく美しい物語です。
表紙に使われている「ろくろ首」と「雪おんな」はハーンの直筆イラストだそうですが、『怪談』に収録されている『ろくろ首』は首が伸びるタイプではなく、首が外れて飛ぶタイプ。
物語の舞台は「甲斐の国」で「ろくろ首の墓」が今でもあると書かれていますが、残念ながら現在の山梨には残っていないようです。
『雪女』のほかにも異類婚姻譚や生まれ変わりの話も多いです。
「再婚しないで欲しい」と言って亡くなった妻が、後妻を殺しにやってくる『破られた約束』とか『因果話』とか、女の怨念話は幽霊というより人間怖い。
『ばけばけ』的には『牡丹灯籠』も収録。これ、落語として聞くのは怖そうだなあ。
ハーンは両親の離婚により幼くして捨てられ、厳格な叔母に育てられたという不幸な生い立ちゆえに、幽霊や暗闇を怖がると同時に囚われているような子供時代をおくっているんですね。カトリック的な宗教観よりも仏教やアニミズムのほうが彼にとっては共感できたのでしょう。
日本に関する最初の著書である『見知らぬ日本の面影』が1894年出版であるのに対し、『怪談』は晩年である1904年出版。それもあってか、死生観や「万物は一なり」といった思想も描かれています。
(262ページ)
今までにない不思議な思いで、私はそもそもこの世に始まりなどなかったし、終わりもないはずだ、と確信したのである。
『歴史探偵』でトミー・バストウさんが話していた『蚊』も収録。ハーンの墓は雑司ヶ谷霊園にあるそうなので蚊に刺される覚悟で訪れてみたい。
(168ページ)
この梵鐘の音が聞こえるところに、私はいたいのだ。そして、私は食血餓鬼道に落とされることにでもなれば、竹筒の花入れか水溜めの中に生まれ変わり、そこからそっと飛び立って、私のか細い、刺すような辛辣な歌声を響かせながら、自分の知っている人たちを刺して回るであろう。
以下、引用。
50
女は暗然としました。愚かにも、わが身の大切な一部を人にくれてやったような気がしたからです。
女は「鏡は女の魂」という古い諺を思い出しました。
52
おもしろいことに、昔から日本人は心に念じながら何かをすると不思議な力が発揮されると信じているようです。決して十分とは言えませんが、その力は「なぞらえる」という言葉で表すことができましょう。この言葉はまじないをする場合にも、信心の深さを示す場合にも使われます。英語には、これにぴったり当てはまる言葉はありません。辞書を引いてみると、「なぞらえる」という言葉の普通の意味は「真似をする」「たとえる」「似せる」とあります。けれども、もっと深い意味は「心のなかで、ある物やある行いを別のもので代用し、不思議な効果を生みだすこと」と言えましょう。
たとえば、あなたには寺を建立するだけの財力がないとします。それでも、仏像の前に小石をおくことはできましょう。十分にお金があって、寺を建てようと発心するときと同じくらいの敬虔な気持ちをもってすれば、小石を差し出すことは寺を建てるのと、ほとんど同じだけの功徳を積んだことになるのです……。
75
美しい晩でした。空には一点の雲もなく、風もなく、月の光で草むらがくっきりと濃い影を落とし、庭の夜露がきらきらと光っていました。こおろぎと鈴虫がにぎやかに音楽を奏で、近くの小滝の音は、夜の静けさの中でいっそう深く響いていました。
168
ゴーンという境内にある大きな鐘の響きは、十九世紀を生きる今の自分ではない、遠い昔の私を呼び覚ます不思議な太古の音調である。呼び覚まされたものに、手探りをしながらかすかにうごめいている感覚に、私はむしろここちよい畏怖を覚える。
あの梵鐘の響きを聞くときまって、私の魂の深いところで、激しくざわざわと動くものがある。そのうごめきとは、何百万もの生と死の彼方にある、彼岸の光明に到達しようとして、しきりともがいているような記憶の感覚である。
この梵鐘の音が聞こえるところに、私はいたいのだ。そして、私は食血餓鬼道に落とされることにでもなれば、竹筒の花入れか水溜めの中に生まれ変わり、そこからそっと飛び立って、私のか細い、刺すような辛辣な歌声を響かせながら、自分の知っている人たちを刺して回るであろう。
181
この「選ばれし母蟻」族は、仕事はしなくてもいいが、その代わり、夫を迎え入れるのが至上命令なのだ。他の女働き蟻は、男蟻と一緒になることなど夢想だにしない。
185
一夜だけ女王と結ばれるために生まれ、初夜の後は生きる権利はなく、女王と契りを結んだものはひとり残らず死ぬ運命にある、と知らされている若者の気持ちを想像してみるがいい。その上、このように死んだからといって、若き未亡人がその死を嘆き悲しんでくれるなどとは想像もつかないことだ。彼女らは、その後、何代にもわたって生き続けるというのにである!
199
ハーンはまた、魂というものは、ある時は人間にもなり、またある時は樹木や植物にもなって、何千年も何万年も脈々と受け継がれてゆくものだと考えていました。そして、自己という存在も、何世代にもわたる霊の集合体であると述べていました。
222
仏様は、いつでも周りにおられるが、無知で未熟である限り、わしらにはそのお姿を見ることができないと教わってきました。
262
海岸の波打ちぎわにある松林で、私は休んでいた。すると、なにか命が暖まるような明るくのどかな時間の中で、風と光とが恍惚としてうち震え、奇妙にも古くからの私の信仰が蘇ってきたのである。それは「万物は一なり」という信仰である。
私は風のざわめきと波のうねり、ゆらめく影ときらめく太陽、さらには緑なす大地の深い静寂と一体であると感じた。今までにない不思議な思いで、私はそもそもこの世に始まりなどなかったし、終わりもないはずだ、と確信したのである。
今までになかったことだが、私の魂といわれる神秘的なものが、過去に存在したさまざまな形をした生きものの中に存在しており、何百万年後、無数の生物に姿を変えながら、太陽を眺め続けるに違いない、とおぼろげながら悟ったような気がしたのである。
265
古い日本の──もっと正しくいえば、中国の──仏典では、大部分の場合、梵語の餓鬼名がひんばんに使われている。ところが、ある種の餓鬼には、中国名しかつけられていないものもある。インドの仏教は、中国、朝鮮を経由して日本に入ってきたので、その途中である種の潤色がほどこされたようである。しかし全般的に見て、日本の餓鬼に関する分類は、インドのプレタの分類によく対応している。
266
インド仏教での餓鬼の地位は、あらゆる存在の最下層を占める地獄道からほんの一階級上のところに置かれている。地獄道の上は餓鬼道で、餓鬼道の上は畜生道である。その上にはさらに、絶えざる闘争と殺戮の領域、すなわち修羅道がある。これらの上にあるのが人間道である。
さて、地獄に堕ちた人間は、カルマが尽きて地獄から解放されても、いっきに人間世界に生まれ変わるのは難しい。上を目指して懸命に努力し、すべての中間に存在する世界を通り抜けなければならない。餓鬼の多くは、一度地獄を見てきた存在なのだ。
しかし、地獄を見てこなかった餓鬼もいる。ある種の罪、あるいはある程度の罪であれば、この世で死んだ後は、直ちに餓鬼として生まれ変わることがある。最悪の罪を犯したときだけ、人間はすぐに地獄に堕とされる。二番目程度の罪なら、餓鬼道に堕ちる。三番目程度の罪なら、畜生道に堕ちて、動物に生まれ変わる。
276
一般に、榎は鬼の棲む木とされている。
288
ところが、日暮れ時になると、きまってこの虫の小さな魂が目を覚ます。すると、部屋中が何とも言えぬ、甘く繊細な音楽で満たされる。銀の鈴を鳴らしたように、それは細やかにチリチリとさざめくのだ。宵闇が濃くなっていくにつれ、鳴き声はいよいよ甘さを帯びてゆく。あるときは大きく高まって、家中を妖精の奏でるような響きで震わせ、あるときは糸のようにか細い声で微かに鳴いている。しかし、高くとも低くとも、その鳴き声は、この世のものと思われない音色を帯びている。
さて、このささやかな虫の奏でる歌は、恋の歌である。まだ出会ったこともない、誰とも知れぬ相手を恋い慕う、あてのない恋の歌なのである。
418
日本の花嫁さんは、この世かぎりの愛だけでは満足しないのだそうです。
521
暗中模索を重ねているうちに、私は一つの真理、つまり、精神的にも、倫理道徳的にも、あるいは肉体的な意味においても、最高の美というものは、多数者によって憎まれ、少数者によってのみ愛好されるのだという真理に達した。
そのとき、私には中世の信仰は、醜悪さと憎悪の宗教に見えた。私の気弱で病気がちだった幼年期に教え込まれたのも、このような宗教であった。知識の普及が著しい今日でも、「異教徒」とか「異端」という言葉は──無知ゆえに軽蔑の意味で用いられていたとしても──私の心の内に光と美、自由と喜びの感覚を呼び覚ましてくれる。
528
当時、その教会は、私にとって悪夢のように思えた。ゴシック建築の持つ形が特別の恐怖を呼び起こすのだということを、その教会で初めて知ったのだった。恐怖(ホラー)という言葉を、ここでは昔風な意味で使うことにする。つまり、化けものに対して感じる恐怖というような意味あいである。
私が恐怖心を抱いたのは、古びて尖った教会の窓を見た瞬間だった。その輪郭が、眠りの中で、私を苦しめるお化けの形に見えたのだ。と同時に、悪鬼(ゴブリン)とゴシック教会は恐ろしいほど似ているものだと思った。
594
フォークロア的な手法を用いて、彼は民間伝承における、集団無意識的な夢のもつ〈真実〉を描こうとしたのです。夢の中に現れる死者たちが棲む共同体が、いってみれば、ハーンの再話文学の故郷であったと思われます。
物語やその理屈づけを信じないとしても、なお今日、われわれ自身が一個の幽霊にほかならず、およそ不可思議な存在であることを認めないわけにはいかない。
「文学における超自然的なものの価値」
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Posted by ブクログ
名著である。本編は27編あるそうだが、本文庫はアンソロジーとして11編のみ絞って訳出されている。他の多くは島根中学校赴任中に記した日記なのだそうなので、この文庫で十二分にエッセンスは読み取れると思える。
有名なのは、松江市内の1日を記した「神々の国の首都」と日本人論の白眉「日本人の微笑」ではあるが、美しい日本の描写は「神々のー」に限らず全体を包んでいるし、「微笑」の方は後半詳しく紹介する。
本書を読んで気がついたのは以下の2点。多くは識者が既に指摘していることであり、屋上屋を架す気もする。
①日本横浜に着いた1日目から既に日本描写は、日本の伝統的な神社仏閣含め民俗の細かいところまで観察し美しく歌い上げていた。
②僅か一年半の間に、此処迄日本民俗の真髄まで到達した。真鍋晃、西田千太郎、そして妻の人たち友人知人の目が、八雲の目を開かせたに違いない。人間関係は無視するべきではない。
以下気がついた所。
・「はじめに」より。「(知識階級よりも)その国の美徳を代表している庶民の中にこそ、その魅力は存在するのである」民俗学の真髄であるが、こんなことを堂々と云う人は柳田國男まで、不幸にも日本は待たなくてはならなかった。
・小さなもの日常用品に「美」がある。日常品を作った日本人は多くいたけれども、紹介した日本人はかつて居ただろうか。柳宗悦まで待たなくてはならなかったのでは。(小さな図柄のついた紙袋に入った木の箸、三色の使いの美しい文字が入った紙に包まれた桜の木の爪楊枝、手拭い、買い物を縛ってくれる組み紐)
・なんと一日目で、寺で松江の生涯の友・真鍋晃に会ってる!
・松江に行く道程は、神戸で船を降りた後は、なんと俥(くるま)で中国山地を横断している。しかもたった4日で。当時の人力車の体力は凄いものであった。人力車のスピードは、現代観光用のそれとは比べ物にならないことを知った。
・盆踊りの観察は、なかなか細かく正確。ほぼ全ての盆踊りは歌リズムともに、地域独特のものがあることを喝破している。
・当時の松江の民俗は、今は失われているものもあるが、続いているものもありそう。とても興味深かった。松江大橋の人柱伝説は少し調べてみたい。また、ここで「大雄寺飴を買う女」幽霊譚が出てくるんだ、と思った。
・「加賀の潜戸」の章では、そこに行くまで11キロ、人力車で2時間半という。なんと速いことか。とは言っても、八雲はかなり大変だったようだ。人力車の入らぬ小径は、洋靴で歩くのはしんどかったらしい。
・潜戸の「神の岩戸」のそばに、賽の河原の如き岩屋があり、死んだ子供の積む小石の塔の話を聞く。八雲は「何故彼らは海からやってくるのか?」と不思議がる。この辺りが民俗学的ぽくて好き。他国との例もあるように、水の世界と死者の世界との間に、繋がりがあるようだ、と思い致す。「指輪物語」でも天国みたいなところに海を渡って行くように、その方が英国人には受け入れやすい。海岸線の庶民にとって、冥土は海にあるのである。
・「日本海に沿って」に、女中の話として「鳥取の布団」(「ばけばけ」でトキが話した怪談)が出てきた。
・「日本の庭にて」八雲松江二つ目の貸家の庭について語る。つまり「(植物栽培が目的の)花園(フラワーガーデン)ではない」日本の風景が生き生きと美しく縮小され再現されている場所なのである。この八雲の日本文化の本質に近づく理解に改めて感嘆する。また、それを再現するには、熟練の技が必要であることをちゃんと理解している。この後、八雲は自然民俗誌を記す。
・「日本の面影」の中でも白眉と言われる章「日本人の微笑」。2つの例が引かれる。ひとつは、出会い頭事故に遭って外国人の知り合いは車夫を殴る。車夫は微笑みながらお辞儀をした。ひとつは、イギリス婦人が女中の夫が亡くなったのに、終始笑顔だったと証言したこと。簡略に書き過ぎたので、或いはそうは思わないかもしれないけど、普通の日本人はこの外国人と違い、この2人の日本人の気持ちのうちは手に取るようにわかる。何故微笑んで居たかもわかる。八雲は「微笑は教養のひとつなのである」と喝破する。決して道徳的な理由ばかりでなく、美的な理由である、という。
因みに、現代の日本人は、この時代の英国人のように、思ったことを包み隠さずに表現することを良しとする民族になって仕舞ったのだろうか。いや、そうではない。と私は思う。ムラの中(SNSの中)では、あけすけに感情を表出する現代日本人も、人前では愛も変わらずダンマリを決め込み、いい諾々と長いものに巻かれているのが、現代日本人だと私は思う。いいも悪いも、130年前と変わってはいないのである。
だから八雲は「文明化された世界では、(日本人は)最も幸せな国民である」という。半分だけ賛成する。
・「さようなら」の章で、島根中の生徒に向けて、前年発せられた教育勅語を全文唱したあと、八雲は「国のために死ぬことではなくて、国のために生きることです」と別れの言葉を発した。勿論、それより40年後とは違い、そのことによって罰せられる日本には未だなっていなかったのである。
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たまたまUnlimitedに入っていたので読んでみた(いま途中)。忘れないうちにいくつかの点を書き留めておきたい。
1915年の講義において、小泉八雲は次のように述べている。(「文学と世論」)
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中産階級が国家の財力を代表しているような西洋諸国においては、世論がほとんど決定的な力を持っているといえる。イギリスにおける最大の力は、世論である。・・・・
この世論こそが、戦争に対して賛成か反対かを決定する力であり、改革に対して、賛成か反対かを決定する力でもある。
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新聞はこう言った問題について、正確な知識を広めると言うよりも、むしろ偏見を作り出すことのほうがいっそう多い。しかもその影響力たるや、いつでも一時的なものにすぎない。
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他国民や他国の文明に関して、世論を形成してゆく真の力は、文学ー小説と詩ーなのである。
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その世論と言われるものは、主に文学によって、哲学や科学の著作ではなく、想像力と感情による著作によって、作られるのである。
引用終わり
小泉八雲は日本人の妻に聞いた不思議な話を怪談として紹介した人として有名だが、大学の講義でもこんなことを話していたのだね。
「新聞」のところを「SNS」に直したら、今でも通用するような論考ではないか。
いま、欧米の書店には日本の漫画や小説の翻訳がずいぶんたくさん並ぶようになった。イタリアでもすごい数の翻訳本が並んでいる。川端、三島、吉本ばなな、村上春樹の時代から、やっと、大衆レベルで日本文学が共有される時代になったんだろうなと思う。小泉八雲の時代から100年かかった。
私たちが異文化を理解する時、同じ人間としての気持ちを共有する必要があるが、たしかに、小説や詩はそういう機会を無限に提供してくれると思う。
昔教科書で読んだ漢文だって、ロシア文学だって、時代と場所を超えて、感動するじゃないか。普遍的というのは、なぜか誰しもの心に響くと言うことなんじゃないか。
ほんの少しの素晴らしい文学が普通の人(大衆)の心を動かすことが、偏見で閉じていた心をすこしだけ開く。小泉八雲は確信持ってこれを学生に伝えているのである。 -
怪談 不思議なことの物語と研究
- カート
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試し読み
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Posted by ブクログ
2025年下期の朝ドラのモデルとして、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の代表作を手に取りました。
改めて、日本の古典文学として認知されている「耳なし芳一」や「雪女」などの話を、外国人であるハーンが蒐集して公表したということに驚かされます。
光文社古典新訳文庫のシリーズだからでしょうか、訳文も読みやすく、すらすらと読み進めることができました。中にはイマイチ理解できないストーリー展開のエピソードもありましたが、現代では不自然に思えるような展開が当時は「ありうること」「恐ろしいこと」として人々に認識されていたのだな、と昔の文化・雰囲気に触れることができる読書体験でした。
タイトルから「ホラー話」ばかりなのかと思っていましたが、決してオバケ一辺倒ではなく、いろいろな「不思議」が紹介されていたことも新たな発見でした。
後半(第二部)の「虫の研究」という昆虫エッセイは少し読みづらい部分もありましたが、「蚊」の節は著者の苦労や苛立ちが良く伝わってきて面白かったです。 -
Posted by ブクログ
日本人(とくに女性)をテーマにした抒情的な小編と、明治の日本社会・文化への評論がバランスよく併載されています。ハーンというと旅行記や民話の再話のイメージが強かったのですが、本書からは本来ジャーナリストであった著者の一面も窺われます。文明開化や富国強兵に沸く日本への批判は大変興味深く、また日本の祖先信仰や死の観念(西洋人である著者のみならず現代日本の読者にもまた目新しく感じられる)についての論評では、それが近代知に照らしていかに合理的なものであるかを説いていて面白いです。
著者は昔ながらの慎み深い日本女性に強い魅力を感じていたようで、本書に所載の「ハル」「きみ子」などにはそれが顕著に表れています。当時の西洋女性と対比して清冽なものを感じたのでしょうが、こうした生き方は現代の日本女性にはすでに理解も共感もできないものだと感じますし、円地文子の作品などを思い返してみるにつけ、当時の日本女性も決して納得して選んだのではなかったろうと思います。とはいえ、ひとつの記録として、こうして美しく書き残されたことには感銘を受けます。