値引き作品コーナー 小泉八雲 日本美と霊性... 値引き 484円(税込) カート 小泉八雲東大講義録 日... 値引き 594円(税込) カート 猫たちの舞踏会 エリオ... 値引き 291円(税込) カート 値引き作品一覧へ
作品一覧 2021/09/18更新 英国貴族と侍日本 試し読み フォロー NHK「100分de名著」ブックス 小泉八雲 日本の面影 試し読み フォロー 熊野から読み解く記紀神話~日本書紀一三〇〇年紀~ 試し読み フォロー 小泉八雲東大講義録 日本文学の未来のために 値引きあり 試し読み フォロー 小泉八雲 日本美と霊性の発見者 値引きあり 試し読み フォロー 新編 日本の面影【全2巻 合本版】 試し読み フォロー 日本の面影 試し読み フォロー 日本の怪談 試し読み フォロー 猫たちの舞踏会 エリオットとミュージカル「キャッツ」 値引きあり 試し読み フォロー 1~9件目 / 9件<<<1・・・・・・・・・>>> 池田雅之の作品をすべて見る
ユーザーレビュー 新編 日本の面影 II ラフカディオ・ハーン / 池田雅之 目次 ・弘法大師の書 ・鎌倉・江ノ島詣で ・盆市 ・美保関にて ・日御碕(ひのみさき)にて ・八重垣神社 ・狐 ・二つの珍しい祭日 ・伯耆(ほうき)から隠岐(おき)へ ・幽霊とお化け ・思い出の記…小泉節子 種本である『知られぬ日本の面影』は、日本のことを知らぬ外国向けに書かれたものなので、一つ一...続きを読むつのものや行為の文化的・宗教的背景などを丁寧に説明しているのだけれど、先に出た『日本の面影』の収録から漏れたこちらの作品は、説明の丁寧さよりも、子どものような素直な好奇心で持って眺めているハーンの眼差しが強く感じられた。 日本文化の中のワビサビを尊び、枯れたものの中にもののあはれを感じているはずのハーンは「幽霊とお化け」の中でこう書いている。 ”しかし、もしも私が聖者になれたとしても、野にわび住まいしないよう用心するだろう。日本の化けものを見たことがあるが、とても好きにはなれないからである。” こう書いた後に、前の晩に氏神様の集まりに集まってきて化けものを見に行った話を続ける。 要は神社の祭りに出ている見世物小屋をめぐったのである。 もちろん見世物小屋と承知して入っていても、いちいち悲鳴を上げたり跳び退ったり、案内の日本人もハーンもなかなか忙しい。 ”「さっき見た化けもののことだけど、みんな本当に信じているのかね」 「少なくとも、都会の人はもう信じちゃいません。でも田舎の人は違います。私も、仏様だって、神様だって信じてます。殺された人間が仇をうったり、汚名をそそぐために生き返って来るなどという話を信じている人が、まだたくさんいるかもしれません。でも、昔信じていたことを今もそっくりそのまま、信じているとは限りませんよ、先生」” 神様や仏さまを信じることと、迷信を信じることは違うということ。 けれどもその迷信の由来となった出来事を否定するのではなく、当事者たちの気持を受け入れること。 多分日本人はずっとそうやって、先祖をまつったり、神話と自分たちを繋げて生きてきたのだろう。 ハーンが日本人に感じてくれる親愛の気持は、こういう部分なんだろうと思う。 違いを認めない偏狭なキリスト教を嫌い、たいていのものを受け入れて呑み込む日本の文化を愛したハーン。 ある華族のご隠居様で、万事昔風を好み西洋風の大嫌いな人の話を聞いて「そのような人、私の一番の友達」と喜ぶハーン。 「私西洋くさくないです」と会いに行きたがるハーンに奥さんが「あなた西洋くさくないでしょう。しかし、あなたの鼻」と言う。 「あ、どうしよう、私のこの鼻。しかしよく思うて下さい。私この小泉八雲、日本人よりも本当の日本を愛するです」 日本人が捨てようとしていた日本らしさの中に、多くの光を当ててくれてありがとう、 小泉節子が書いた「思い出の記」の中の夫婦の会話がことのほか良い。 「ママさん私この寺にすわる、むずかしいでしょうか」 「あなた、坊さんでないですから、むずかしいですね」 「私坊さん、なんぼ、仕合せですね。坊さんになるさえもよきです」 「あなた、坊さんになる、面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よい坊さんです」 「同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄小さい坊主です。如何に可愛いでしょう。毎日経を読むと墓を弔いするで、よろこぶの生きるです」 「あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい」 「ああ、私願うです」 何故奥さんまでカタコトなのか。(笑) けれど、なるべく同じ言語で気持ちを伝えあおうとする二人の間にある距離感、空気感、思いやりが、とてもとてもよきです。 Posted by ブクログ 新編 日本の面影 ラフカディオ・ハーン / 池田雅之 日本名 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが、1840(明治23)年、日本にやってきて初めて書いた「知られぬ日本の面影」の翻訳アンソロジーである。 ハーンは来日後、間もなく会った親切な英国人教授に「日本の第一印象は、出来るだけ早く書き残しておきなさい。」と言われ、あわただしく書き留めたものをまとめ...続きを読むた。本当によく書き残してくださったと思う。なぜかというと、その時外国人ハーンが見た、今から180年前の日本は、我々の国だけれど、もうそんな素敵な国は世界のどこにも無いのだから。 「東洋の第一日目」という章からの抜粋。 『人力車ほど居心地の良い小型の車は想像できない。わらじ履きの車夫の動きに合わせて揺れる、キノコのような笠越しに見える通りの景色には決して飽きることなく想像を掻き立てられる。まるで何もかも、小さな妖精の国のようだ。まるで、人も物もみんな小さく、風変わりで神秘的である。青い屋根の小さな家屋、青いのれんがかかった小さな店舗、その前で青い着物姿の小柄な売り子が微笑んでいる。………見渡す限り幟が翻り、濃紺ののれんが揺れている。かなや漢字の美しく書かれたその神秘的な動きを見下ろしながら、最初はうれしいほど奇妙な混乱を覚えていた。町並みの建築や装飾に、すぐにそれと分かるような法則は、感じられない。それぞれの建物に、一風変わった、特有のかわいらしさがあるようである。一軒として他とそっくりな家はなく、全てが戸惑ってしまうほど目新しい。』 スピリチュアルなものに惹かれるハーンは、上陸した横浜から神々の国、出雲へ人力車を乗り継ぎながら(すごい)四日間の旅をする。その過程で、山あいの田んぼ、杉や松の森の薄暗い影、遠くの藍色の山並み、藁葺屋根の連なり、道端の小さなお地蔵様や祠など、日本独特の田舎のやさしい景色を目にする。 松江に着いて迎えた最初の朝の印象。 『山の麓という麓が霞に覆われている。その霞の帯は、果てしなく続く薄い織物のように、それぞれ高さの違う頂きを横切るように広がっている。その様子を日本語では、霞が「棚引く」と表現している。』 出雲大社で外国人として初めて本殿への昇殿を許され、宮司に謁見しお話を伺う機会を持った後は、山陰地方の神秘的な海辺の村を旅し、そこに伝わる伝説や宗教など興味深い話を収集する。 そして、一年ほど松江で中学校と師範学校の英語教師として赴任するのだが、そこで、日本の学校について今から見れば意外な印象を伝えている。 『近代日本の教育制度においては、教育は全て最大限の親切と優しさをもって行われている。教師は文字通り教師(teacher)であって、英語の“mastery”の意味におけるような支配者ではない。教師は彼の教え子たちに対し、年上の兄のような立場にある。………どの公立校も、まじめで、固有の精神を持ったひとつの小さな共和国であって、そこでは、校長と教師は、大統領と内閣の関係に立っているに過ぎない。』 私の親の時代は、もっと教師は威圧的であったと聞くし、私はそのような教師には巡り合わなかったが、「日本は管理教育」と長らく言われていると思う。ハーンの居た学校がたまたま民主的な学校であったのかもしれないが、まだ、明治23年ごろはそのようなのびのびした教育であったのかと思った。 『日本人の微笑』という章では、イギリス人は深刻で生真面目であるが、日本人は決して生真面目で深刻ではなく、その分、幸せだと思うと書いている。そして、苦しかったり、悲しかったり、愉快でないときでも、相手に不愉快な印象を与えないため、いつも微笑を浮かべている日本人の礼儀作法を美しいと書いている。 今の日本を見たらハーンはどう思うだろう。自分の知らない日本を教えてくれた外国人の記録。記憶にはないけれど、どこか体の奥に眠る記憶のようなものをくすぐられ、照れ臭く、申し訳なく、温かく、涙が出そうな、自分のひいおじいさんの友人から聞いた自分の先祖の話のような素敵な記録であった。 Posted by ブクログ 小泉八雲東大講義録 日本文学の未来のために ラフカディオ・ハーン / 池田雅之 『本の内容について独自の意見を表明できない人は、誰であれ、本当の読書をしている人とは言いがたいのである』―『読書について』 小泉八雲がラフカディオ・ハーンという聞き慣れない名前の外国人であると知った時の驚きは、子供の頃に耳なし芳一の話を教科書で読んだ世代には共通の驚きではないだろうか。今時分の子供...続きを読むであれば近所に外国籍の隣人がいたり、同級生に目鼻立ちがすっと通った子がいたりするのかも知れないが、昭和40年代の子供にとって外国とは「わんぱくフリッパー」や「名犬ラッシー」や「じゃじゃ馬億万長者」のような見たことのない国のことで、名前だってサンディやデイジーのような響きがするものである筈で、鎌倉時代の日本の昔話をラフカディオなんて変わった名前の外国人がどうして日本語で書いているのか全く訳が分からなかった。もちろん、そこには子供故のありとあらゆる誤解と偏見が渦巻いていたのだが、そんな驚きのこともすっかり忘れていたいい年の大人がラフカディオ・ハーンが東京帝大で教鞭を執っていたこと、更に後任が夏目漱石であったことを知り、再び驚く。 その講義録があるという。120年前の日本に録音機がある訳はないし、当然本人の残した下書きなのだろうと思って読み始める。ところが、その文章が余りに語りかけるような口調で記されたものであることを知り首を傾げる。大急ぎであとがきを読む。 そこで改めてラフカディオ・ハーンの講義が全て英語で行われていたこと、かつ、ハーンは日本語を解さなかったことを知る。なんとこの一言一句の書き漏らしもないかのように綴られた講義録は、全て当時の学生たちが講義中に書き取った手記に基づくものだというのだ。明治の人はなんと偉かったことだろうか。それとも、当代の学生が試験の前にノートをコピーするような感覚で、お互いのノートを突き合わせ、こう言ってたよな、そうじゃなくてこうだった、というような遣り取りをした結果なのか。それにしてもここに訳出された以外にも数多くの講義の記録があり、後に米国で編集されたとはいえ、綿密な講義録として後世に残す形に仕立てたとは。当時の学生たちの「学ばん哉」という気概にはただただ頭が下がる思いがするばかりだ。 『富める者と貧しい者との差異がひとたび確立されてしまうと、富みかつ力ある者は、残酷で威圧的な存在になる』―『イギリス最初の神秘家ブレイク』 本書がここにある経緯に感じ入っているだけでは勿体ない。ここに書き残されたハーンの言葉は120年の時を経て今に響くもの。世の中というものが巷間喧伝される程には変わらないということか、あるいは人間なんてそうそう変わらないということなのか。いずれにせよ、ハーンの隻眼が物事の本質を的確に捉えていたということ。かくあらねば、と身の引き締まる思いが沸く。 ところで、ラフカディオ・ハーンという名前、どこかで最近聞いたなあと思っていたら、先日観直した映画の「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」でデカブリオを追い駆けるトム・ハンクスの役名、カール・ハンラティ、だった。アナグラムにもなってはいないけど。 Posted by ブクログ 小泉八雲東大講義録 日本文学の未来のために ラフカディオ・ハーン / 池田雅之 小泉八雲の講義録。 あの時代の講義録が残ってるってすごくないですか。。。ほぼ受講生の筆記と講義ノートでしょ。。。 しかも小泉八雲の授業を受けられるってうらやましすぎる。 「読書について」なんて少しドキリとしながらも。 最後は、日本語なんだよな。どれだけ海外のものを研究したとしても、日本語がダメだ...続きを読むったら話にならないんだろうな。 Posted by ブクログ 新編 日本の面影 II ラフカディオ・ハーン / 池田雅之 (上巻と同じ内容です) 2012.8記。 突然ですがやっぱり地元の夏祭り・盆踊りというのはよいものです。なぜか振付を熟知しているおばちゃん、よくわからない役割を与えられてねじり鉢巻きで周囲ににらみを利かせているおっさん・・・ 私が小学生(30年前、1980年前後)のころから変わらない風景だが、思...続きを読むえばこのおっさんおばちゃんも30年前はせいぜい30代。つまり1980年代にはそこそこ「盆踊りだせー」とか言っていた世代ではないのだろうか?2030年ごろには僕も地元の公園辺りで「自治会」のテントの下で東京音頭の音量を調節したりしているのだろうか?日頃は都心に電車で働きに出てしまう僕だが、そうやって将来どこであれ地域の行事の継承役の一角を担えるならそれは嬉しいことだ・・・こういう廃れそうで廃れない日本の季節の風物詩を大事にしたいと思う今日この頃。 さて、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が描写した(おそらくは19世紀末の)出雲における盆踊りの様子は、日本人が読んでもめまいがするほどに美しい。 以下、少し長いが引用です。 「かつてのお寺であった本堂の陰から、踊り子たちが列をなして月の光を浴びながら出てきて、ぴたりと立ち止まった。(中略)・・・すると、太鼓がもうひとつ、ドンと鳴ったのを合図に、さあ、いよいよ盆踊りの始まりである。それは、筆舌に尽くしがたい、想像を絶した、何か夢幻の世界にいるような踊りであった・・・(中略)こうして、いつも無数の白い手が、何か呪文でも紡ぎだしているかのように、掌を上へ下へと向けながら、輪の外側と内側に交互にしなやかに波打っているのである。それに合わせて、妖精の羽根のような袖が、同時にほのかに空中に浮き上がり、本物の翼のような影を落としている。(中略)・・・空を巡る月の下、踊りの輪の真ん中に立っている私は、魔法の輪の中にいるような錯覚を覚えていた。まさにこれは、魔法としかいいようがない。私は、魔法にかけられているのである。幽霊のような手の振り、リズミカルな足の動き、なかでも、美しい袖の軽やかなはためきに、私はすっかり魅了されてしまっていた。幻影のように、音も立たない、なめらかな袖の揺れは、あたかも熱帯地方の大きなコウモリが飛んでいるかのようである。いや、夢だとしても、こんな夢はこれまで見たことがない。」(ラフカディオ・ハーン「日本の面影」(池田雅之訳)) Posted by ブクログ 池田雅之のレビューをもっと見る