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Posted by ブクログ
毎年お盆の時期になると、怪談が読みたくなる。
どこからともなく聞こえてくる祭囃子。
参道に連なる提灯。
神社の境内に並ぶ石灯籠。
迎え火のゆらめき。すすの匂い。……
日本の夏の風物詩とともに、怪談はあるように思う。
怪談を愛でることは、季節を愛でることでもあるのだ。
世に怪談は数あれど、どうせ読むなら極上の一冊がいい。
上田秋成『雨月物語』や柳田國男『遠野物語』。泉鏡花に内田百閒。
杉浦日向子や森見登美彦、夢枕獏も捨てがたい。
今年は八雲の『怪談』を読むことにした。
ちょっと風変わりな一冊だ。
『怪談』は1904年、ギリシャ出身のイギリス人、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが、日本の民話をもとに創作した怪奇小説の短編集である。
「耳なし芳一」「雪女」「むじな」「ろくろ首」など、日本人に馴染みの深い話のルーツがここにある。
しかし八雲は終生、日本語の読み書きができなかった。
作品は英語で書かれ、初版はアメリカの出版社から発行されたのだ。
ゆえに『怪談』は岩波文庫の赤、すなわち海外文学として登録されている。
しかし『怪談』は紛れもなく日本の物語である。
そう感じる理由は、物語の内容もさることながら、その世界観のためだ。
いたずらに読者の恐怖を煽るタイプのホラー小説とは違い、抑制的で淡々とした八雲の語り口は、むしろ読者に静謐と向き合うことを要求する。
生への執着と未練。愛する者との別れと悲しみ。
ヒトではないモノの存在を通して描かれるのは、他ならぬヒトの姿である。
魔と呼ばれるものは、日本にあっては、我々の外部からやってくるものではなく、我々の内部にもとから内包されているものだ。
魔を語ることは、すなわち人間を語ることである。
しかし、この感覚がどこからくるものなのか、私には説明することができない。
仏教か、神道か、それとももっと太古の世界に由来するものなのか。
いずれにせよ、この説明しがたい日本的霊性が、西欧人である八雲の筆によって見事に表現され、それを日本人の私が「日本的だ」と感心して読んでいるという事実に、私は興味をそそられるのだ。
8月16日の送り火が済んだら、私の住む北日本では、もうまもなく秋である。
9月を待たずして、すでに半袖では肌寒く感じるほどだ。
夏に跋扈していた魑魅魍魎も、きっと根城に帰ったことだろう。
北国の夏は、かくも短い。
Posted by ブクログ
ラフカディオ・ハーンのことは知っていたし、
出雲市の小泉八雲記念館にも行ったことはあったが、
作品を読むのは初めてであった。
怪談と聞くと「怖い話」のイメージがハッと浮かぶが、
その概念をいい意味で打ち砕いてくれる作品。
ハーンの書く文体が誠実というか中立的というか、
あった(聴いた)できごとを、それこそ忠実に再現したかのような、
読んでいて読み心地のよい文章で、
それが本当の意味での「怪談」なのだと実感することができた。
印象に残ったフレーズはを挙げると、
「世に、怒り死ををした人、あるいは憤りのためにみずから命を断った人、
こういう人たちのいまわのきわの念願や誓言は、
なんらかの超自然な力をもっていると考えられている。」
(「鏡と鐘」)
「『なぞらえる』という―この動詞ではじゅうぶんに説明がつかないけれども、
ともあれ、それにいくらか意味の近い、
一種の精神作用による妙な力をもったものがある。」
(「鏡と鐘」)
「蝶」「蚊」「蟻」の研究も興味深く読むことができた。
単にそれだけでもじゅうぶんに緻密で深く語っているが、
それが、怪談にうまくシンクロしているようすが、
じんわりと広まっていくように感じることができた。
Posted by ブクログ
そういや幼稚園児の頃「ろくろ首」になりたかった。
記憶を忠実に言うと当時何かの絵本で見た「ろくろっくび」になりたかったのである。絡まる位伸びた首を持て余し(ここ重要)、頬を赤らめ(酒?)愉快な顔をしている姿が羨ましかったのだと思う。
しかしここに出てくる「ろくろ首」は少し形状が違う。もげるのだ。
もげるなんて、悲惨過ぎる。嘆いた。
あと形あるものが「消える」ってとても美しい事だと思う。
往々にして其々の末路の儚さが、線香花火を愛する日本人と重なり、そんな日本人の一人としてとても好きだった。
岩波版には蝶・蚊・蟻の「虫の研究」がついていた。
実を言うとそれの方が面白かった。
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