あらすじ
まだ西洋というものが遠い存在だった明治期、将来、日本の学問や文学を背負って立つ学生たちに深い感銘と新鮮な驚きを与えた、最終講義を含む名講義16篇。生き生きと、懇切丁寧に、しかも異邦の学生たちの想像力に訴えかけるように、文学の価値とおもしろさを説いて聴かせる。ハーン文学を貫く、内なるghostlyな世界観を披歴しながら、魂の交感ともいうべき、一期一会的な緊張感に包まれた奇跡のレクチャー・ライブ。
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Posted by ブクログ
『本の内容について独自の意見を表明できない人は、誰であれ、本当の読書をしている人とは言いがたいのである』―『読書について』
小泉八雲がラフカディオ・ハーンという聞き慣れない名前の外国人であると知った時の驚きは、子供の頃に耳なし芳一の話を教科書で読んだ世代には共通の驚きではないだろうか。今時分の子供であれば近所に外国籍の隣人がいたり、同級生に目鼻立ちがすっと通った子がいたりするのかも知れないが、昭和40年代の子供にとって外国とは「わんぱくフリッパー」や「名犬ラッシー」や「じゃじゃ馬億万長者」のような見たことのない国のことで、名前だってサンディやデイジーのような響きがするものである筈で、鎌倉時代の日本の昔話をラフカディオなんて変わった名前の外国人がどうして日本語で書いているのか全く訳が分からなかった。もちろん、そこには子供故のありとあらゆる誤解と偏見が渦巻いていたのだが、そんな驚きのこともすっかり忘れていたいい年の大人がラフカディオ・ハーンが東京帝大で教鞭を執っていたこと、更に後任が夏目漱石であったことを知り、再び驚く。
その講義録があるという。120年前の日本に録音機がある訳はないし、当然本人の残した下書きなのだろうと思って読み始める。ところが、その文章が余りに語りかけるような口調で記されたものであることを知り首を傾げる。大急ぎであとがきを読む。
そこで改めてラフカディオ・ハーンの講義が全て英語で行われていたこと、かつ、ハーンは日本語を解さなかったことを知る。なんとこの一言一句の書き漏らしもないかのように綴られた講義録は、全て当時の学生たちが講義中に書き取った手記に基づくものだというのだ。明治の人はなんと偉かったことだろうか。それとも、当代の学生が試験の前にノートをコピーするような感覚で、お互いのノートを突き合わせ、こう言ってたよな、そうじゃなくてこうだった、というような遣り取りをした結果なのか。それにしてもここに訳出された以外にも数多くの講義の記録があり、後に米国で編集されたとはいえ、綿密な講義録として後世に残す形に仕立てたとは。当時の学生たちの「学ばん哉」という気概にはただただ頭が下がる思いがするばかりだ。
『富める者と貧しい者との差異がひとたび確立されてしまうと、富みかつ力ある者は、残酷で威圧的な存在になる』―『イギリス最初の神秘家ブレイク』
本書がここにある経緯に感じ入っているだけでは勿体ない。ここに書き残されたハーンの言葉は120年の時を経て今に響くもの。世の中というものが巷間喧伝される程には変わらないということか、あるいは人間なんてそうそう変わらないということなのか。いずれにせよ、ハーンの隻眼が物事の本質を的確に捉えていたということ。かくあらねば、と身の引き締まる思いが沸く。
ところで、ラフカディオ・ハーンという名前、どこかで最近聞いたなあと思っていたら、先日観直した映画の「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」でデカブリオを追い駆けるトム・ハンクスの役名、カール・ハンラティ、だった。アナグラムにもなってはいないけど。
Posted by ブクログ
小泉八雲の講義録。
あの時代の講義録が残ってるってすごくないですか。。。ほぼ受講生の筆記と講義ノートでしょ。。。
しかも小泉八雲の授業を受けられるってうらやましすぎる。
「読書について」なんて少しドキリとしながらも。
最後は、日本語なんだよな。どれだけ海外のものを研究したとしても、日本語がダメだったら話にならないんだろうな。
Posted by ブクログ
たまたまUnlimitedに入っていたので読んでみた(いま途中)。忘れないうちにいくつかの点を書き留めておきたい。
1915年の講義において、小泉八雲は次のように述べている。(「文学と世論」)
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中産階級が国家の財力を代表しているような西洋諸国においては、世論がほとんど決定的な力を持っているといえる。イギリスにおける最大の力は、世論である。・・・・
この世論こそが、戦争に対して賛成か反対かを決定する力であり、改革に対して、賛成か反対かを決定する力でもある。
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新聞はこう言った問題について、正確な知識を広めると言うよりも、むしろ偏見を作り出すことのほうがいっそう多い。しかもその影響力たるや、いつでも一時的なものにすぎない。
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他国民や他国の文明に関して、世論を形成してゆく真の力は、文学ー小説と詩ーなのである。
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その世論と言われるものは、主に文学によって、哲学や科学の著作ではなく、想像力と感情による著作によって、作られるのである。
引用終わり
小泉八雲は日本人の妻に聞いた不思議な話を怪談として紹介した人として有名だが、大学の講義でもこんなことを話していたのだね。
「新聞」のところを「SNS」に直したら、今でも通用するような論考ではないか。
いま、欧米の書店には日本の漫画や小説の翻訳がずいぶんたくさん並ぶようになった。イタリアでもすごい数の翻訳本が並んでいる。川端、三島、吉本ばなな、村上春樹の時代から、やっと、大衆レベルで日本文学が共有される時代になったんだろうなと思う。小泉八雲の時代から100年かかった。
私たちが異文化を理解する時、同じ人間としての気持ちを共有する必要があるが、たしかに、小説や詩はそういう機会を無限に提供してくれると思う。
昔教科書で読んだ漢文だって、ロシア文学だって、時代と場所を超えて、感動するじゃないか。普遍的というのは、なぜか誰しもの心に響くと言うことなんじゃないか。
ほんの少しの素晴らしい文学が普通の人(大衆)の心を動かすことが、偏見で閉じていた心をすこしだけ開く。小泉八雲は確信持ってこれを学生に伝えているのである。