中島義道のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ哲学の大きな特徴は、時間や自我、物体、因果律などについて徹底的な懐疑を遂行することであり、この点で、これらに拘泥せずに前提とした上で論じられる思想や文学、芸術、人生論、宗教とは異なっているのである(なお、哲学でないことがこれらの価値を下げることはない)。また、物理学、社会学、心理学などの諸科学では、私固有の意味付けや印象は排除され、客観性が求められるが、哲学は、自分固有の人生に対する実感を忠実に、しかもあたかもそこに普遍性が成り立ちうるかのように言語化する営みである点で異なっている。ゆえに、科学には客観的な答えはあるが、哲学は、人類の歴史が終わるまで終わりはなく、問い続ける運命にあるのである(哲学の一番の敵は、「分かったつもり」になることである)。
ところで、「死」を全くの「無」と仮定することは、我々の実感に合わない。すなわち、我々は死を不幸でかわいそうな状態というマイナスの了解事項として捉えているである。そしてこのことが、我々が日常的「死」を直視しないようにして生きている原因の一つなのかもしれない。しかし、われわれが死ぬことよりも確実なことはない以上、「死」について恐れず考えるべきであり、自分が一滴もいない世界について思いを寄せることほど欺瞞的なことはないのである。
この他にも、哲学が取り組んでいる固有の問いには、時間、因果関係、意志、存在、他者、善などがあるが、これらの問いに答えようとする哲学は、医学や法学のように技術や道具として役立つものではない。ただ、哲学は徹底的に疑うところから出発するため、前提とされている了解事項や、我々に押し寄せる不幸(様々あるが、究極的には「死」)をごまかさずに直視する目を養うことにつながる。つまり、哲学とは、「死」を宇宙論的な背景によって見つめることであり、それによって、小さな地球上のそのまた小さな人間社会のみみっちい価値観の外に出る道を教えてくれるものなのである。
おそらく本書は、様々な例を挙げることで、哲学の感触を読者に届けようとして書かれたものであると思われる。そのため、哲学に関する本にしては、特に中島義道にしては、分かりやすい本になっていると考えられる。
哲学的な問いとはどういうものか理解でき、勉強になった(例えば、「近代とは何であったのか」は哲学的な問いではなく、「過去はいかに存在するのか」は哲学的な問いである)。また、日頃から哲学的視点を持ち合わせていることは、言葉の意味に敏感になったり、因果について深く検討したりすることにつながり、自分の視野や思考が広がると感じた。 -
Posted by ブクログ
実家にあり、タイトルに惹かれて読み始めた。幸せと一般にみなされることを含め、人生の全ては、どうせ死ぬという真実を直視したとき、絶望的に虚しくなる。ならばなぜ生きるのか。自殺するべきではないのか。
まず、周りの人が自分が自殺すると悲しむから、自殺は悪であるという考え方が示される。しかし、より筆者が強調するのは、哲学者として生きるということである。「なぜ生きるのか」という問いへの答えを出せないままに自殺することは、哲学における至上の命題を考える機会を放棄するということであり、知を愛する哲学者として言語道断である。また、答えが出なくとも、真実の虚しさを偽って世間で生活するよりも、せめて虚しい、という真実を正直に見つめて、考えられる哲学の道に生きた方がいくぶん気が楽ではないか、という主張だ。
たしかにその通りであるが、死という不可避な真実を意識してしまいつつも、俗世への思いも断ち切れず、哲学へ身を投じることはできない者はいかに生きる意味を見つければいいのか、ということについては本文からは学ぶことができなかった。
しかし、中村うさぎ氏による巻末解説において、新鮮な考え方を発見できた。生に意味がないから死ぬと考えるならば、私は全てのものに意味があるべきだという思想を持っていることになる。では、生に意味がないから死のうとするとき、その死には何か意味があるのか?死ぬことでそれまでの人生に意味が付与されるわけでもない。意味もなく死ぬなら、意味もなく生きるのも同じことで抵抗を感じなくて良いのではないか。このような人生観に、本書のタイトルに対する一つの解を見た気がした。 -
Posted by ブクログ
学力が低くなるほど言葉への信頼を失っている。学歴差別を口にしてはいけない。(今は逆差別が起こっている気もするが)--勉強ができるが故に肩身がせまい思いをしなければならない、排除されぬよう気をつけなければならない低レベル環境。
大学教師は学生から言葉を奪っている。
ルール違反者に対して寛大で温情的な我が国民は他人の苦境を見て見ぬふりをする国民でもあり、個人と個人のコミュニケーションをほぼゼロに留めておく国民でもある。
日本人がルール違反するのはみんながそうしている時。ルールは個人が決めるでなく、集団的にひとりでに決まっていく。個人はよいルールをみずからの決断で選べない。
性急な近代化、無批判な近代化。「支え合い」さえも上から言われたからしなきゃいけないものでしかない。嘘くさいスローガンがあらゆることを聞き流しあらゆることに眼を向けず判断をしないかげろう人間を作る。
日本人は目的が定まった議論に関しては苦手じゃないが目的に関する議論が苦手。対話は会話ではない。「言わなくてもわかる」が通用しない、空気を読むが通用しないのが対話。一方的スピーチでもない。思いやりはエゴイズムの変形。そこに勇気は必要ない。純粋な思いやりは結果的に相手に害悪をもたらす場合も見越してある行為をすること、そして結果的に対してはキチンと責任を取ること。言い換えれば思いやりを押し付けないこと、喜んでもらうという報酬を求めないこと。
傍観者は保身のためにいじめをとめない。弱い人間は優しさによって殺されていく。他者との対立や摩擦を極端にさける。この目的のため自分に異質な他者との接触を恐れる。
ヨーロッパでは生み出された対立の総合に重たる努力が向けられるのに対し、日本では対立そのものを生み出さない、あってもなかったことにすることが求められている。
現代日本人は他人に関わりたくないという強烈な願望を持っている。自分が辛くない些細なことも他人は辛く可能性がある。