釈徹宗のレビュー一覧
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維摩経という仏教の考えをもとにした、人間のありかた、生き方の考察が面白い。「自分という枠組みを通して物事を見てはいけない」という知見があるが、それは「枠組み」とはつまり「自分の都合」ということに他ならないわけだ。その「自分の都合」がゆえに苦悩が生まれるのだから、そういったものを捨てれば苦悩から救われるというのが教えの本当に大事なことなのだろうが、そこまで望まなくともそのように「自分」を考えることで、自分自分と言っている自分にたいした根拠などなく、たまたまそういう環境に生まれて育っただけだな、ということに思い至り、自然に楽にはなれる気がする。
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現代霊性論
内田樹25冊目
霊性というものが科学的なものかどうかは一旦“判断を停止”して、人々に現象として与えている影響等を分析する現象学的なアプローチから、宗教や共同体の慣習について論議している。死に対する態度というものは往々にして世界でも普遍的な要素が多く、面白い。
・墓について:西洋では身心二元論が一般的であるが、アジアでも儒教では身心二元論的な考え方をしていて、死後も魂のよりどころとして位牌が作られる文化があった。それが日本に通じて、墓が作られる。場が持つエネルギーについても面白い。繁華街というものはもともと霊的なエネルギーが強すぎる為、人が住まないことを理由に市場としての役割を与えられたところ。また、河原も元は死体の集積所であったために霊的エネルギーは強い。
・名づけることは呪うこと。これは面白い。名前を付けるという行為が、縛りをもたらす効果について。確かに「何々病」とつけると途端にそのような症状が出てくることはよくある。寝ながら学べる構造主義でのソシュールの項では、西洋には「肩がこる」という言葉が存在しないため、肩がこらないという話があったが、その話もこの類だろう。また、明治時代に苗字帯刀というムーブメントがあったが、これは今まで個人としての名前が重要視されなかった村社会から、国家と一対一対応の紐帯(ある種の呪い)が結ばれた瞬間であるという。さらな、かつて名前を他人に知られることを忌む文化があり、官職や地名で呼ぶことが多かったのも、名前を知られると呪いをかけられるという通念からである。漫画デスノートも「名前を書かれたら死ぬ」ノートであり、本質的には呪いである。
・宗教ブームの構造分析だが、オウム真理教は内部に整然としたヒエラルキーを作ったことによって、「表」の社会で思うように昇進できない人々を包摂した。信者は徐々に上がっていくランクに満足感を抱き、そちらに嵌まっていく。ラーメン二郎を愛好する人々には宗教的なまでに厳格なルール(早く、無言で食べることや残さないこと)があるが、「表」の世界ではデブ等の罵声を浴びる人が、ジロリアン内で共有される価値観では奨励され、二郎の世界に嵌まっていくのかもしれない(単純にうまいというのも理由だが) -
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宗教って、ある種のひとつの「病み方」なんですよ。健全な人ってこの世に一人もいないですから。程度の差はあれ、みんな心を病んでいる。そして、人間の持つ本質的な弱さは必ず「物語」を求める。宇宙を統べるひとつの統一的な摂理があって、自分の個人的な祈りが、そこに伝わると、宇宙の風景に、自分の祈りによってわずかではあれ変化がもたらされる。人間は個人としては、空間的にも時間的にも限定的な生を営むしかないわけですけれど、どこかで類的な宿命に繋がっていたい。ゆうげんてかな存在が、無限の境位と、ある超越性の回路を経由して繋がることを夢見る。そういう物語を人間はどうしても必要としているんだと思います。その「レバレッジ」になるのが宗教です。
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宗教が「苦悩」をどうとらえるか。宗教のおける葬儀は死者儀礼と社会儀礼の二面を持ち、古からの「葬儀の型」が死者を弔い、生者の悲しみも癒すことができる。これらを釈徹宗氏は分かり易く説く。▼納得したところは、お布施のように日頃から自分の持ち物から手を離してゆくことが、大切なものを失う日のための日々のトレーニングになり、そうやって身の回り物を整理することが心身や内面の整理につながるという「断捨離」の考え方。物・愛・栄誉・憎しみなどに執着してもいずれは捨てなければならない。それをお布施から学び、準備することができる。▼他に色々となるほどと思わせる記載が多い。
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今回の聖地巡礼はキリシタン。
長崎・京都・茨木・高槻。
最近、遠藤周作の『沈黙』がスコセッシ―監督で映画化
されるそうで、予告編を見ましたが、本を読んだときの
想いがよみがえってきて、震える感じがしました。
本を読んだ時も、なんと説明していいのかわからない
特殊な感情を持った覚えがあります。
その”沈黙”の聖地である長崎の外海や、26聖人殉教の地。
原爆。浦上天主堂。大浦天主堂と信徒発見(信徒告白)の地。
茨木の隠れキリシタンの里。フランシスコザビエルの
有名な絵(教科書に載っているやつ)が茨木から
出てきたことを初めてしりました。昔茨木に住んでいた
時はそういうことをあまり知らずにいたのですが。
うまく書けませんが、宗教はやはり人間であること、その
存在意義(レゾンデトール)なのであろうと思います。 -
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前回の関西(大阪・京都・奈良)に続いて今回は
紀伊半島熊野。
少し前に中上健二氏の小説を読んでなんとなく紀伊・
新宮のイメージができていたので(すみません
行ったことはないのです)親近感がわきました。
というくらい。熊野には一度もいったことが
ありません。読んでみて一度熊野・那智・古道
に行ってみたい。歩いてみたいと思うようになりました。読みながらGoogleMAPのStreetViewとかでみて
いるとさらに行ってみたい気がします。
特に熊野本宮の大斎原と神倉神社。花の窟神社
補陀落山神社はなんとなくひかれました。
2作目も面白かったのですが。著者たちが少し
はしゃぎすぎの感があって。ちょっとだけイタイ
感じを覚えます。 -
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日本の浄土教の思想的な特徴を概説する。特に法然の革新性を強調している。日本の仏教が概ね、明確な座標軸をもたずバランスを重視する「中空構造」であるのに対して、法然は最も重要な要素を選択し絞り込む「中軸構造」の仏教をはじめたとする。その思想を受け継いだ親鸞は、「ダメな自分」の自覚をもとに、無量寿教などの教典において、回向する、願うなどの主語をことごとく「私」から「阿弥陀仏」に読み替えることで、法然の思想を実存的に深めていったとする。そして同じく法然の思想を受け継いだ一遍は、念仏に土着のカミや密教、禅などあらゆる要素を飲み込ませ、すべてを吸収すると共にすべてを捨てる、「中空構造」的な念仏宗をつくりあげたとする。
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ネタバレ子どもに教育を与えるのは、子ども個人の生活を向上させるためではなく、すべての世代を含めた集団維持のため、という理論に納得。
──学びというのは自分の手持ちの価値観では考量できぬもののうちに踏み入ることです。具体的な知識や技術を学ぶことではなくて「自分にはそれが何を意味するかわからないもの」に敬意と好奇心をもって接近する作法を学ぶことです。──
内田と釈の講義録だが、第二部の釈は鈴木大拙に関する概説という感じで、内田ほど独特の考察がない。しかし、グループホームの運営など社会活動家としては評価できる、学者肌でない。釈は対談を見るに、内田にあまり強烈なつっこみをしないので相性がいいのだろうな、と思った。 -
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「霊性」などという単語に拒絶反応がある人には勧めない。
内田樹と釈徹宗が、今の傷ついた日本人には日本的霊性を賦活させることが必要で、そのための手段として聖地巡礼を実際にやってみた、体験的ルポ。第一陣として3階に渡り、大阪、京都、奈良を巡ったもの。
内田曰く「大阪は世俗の力によって本来の霊的エネルギーが枯渇している。だから、さらに世俗的な都市計画を立てて、箱物つくったり、カジノを建てようとしたら、霊的な力はますます衰えていく。それに比べて京都は、霊的なポテンシャルを近代化した都市の中でも高めに維持することに成功しています。奈良は、さらに霊的なエネルギーが生き残っている。」都市化によって人間が本来持っているポテンシャルが低下していることに同感。