釈徹宗のレビュー一覧
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ネタバレ巡礼ということで分類では旅ジャンルに入っているんですが自分は宗教かなとそっちに登録。
シリーズ化していて1作目読んでいて、二作目と思って手に取ったらこちらはまさかの三作目でした。
長崎ということで興味津々。
神仏混淆は聞いたことがありますがまさかの神仏デウス混淆(p160)
本書を読むまでキリシタンと呼ばれる人たちがカトリックであると意識したことがなかったので言われてみると確かにそうだなとそんなところから納得。
バスチャンの預言と言うものを読んで信仰の強さの凄まじさのようなもの(うまく表現できません)を感じました。拷問や踏み絵についても別の書籍などでこれまで読んだことはあり、それについても信者の方の信仰心の強靭さに怖れを抱いたことはありましたが、それとはまた違う畏敬のようなものを感じました。
七代先の未来を信じるって想像出来ません。自分の10年後だって想像出来ないのに(そういう卑小な話を比較に出してしまうこと自体がなんか情けないですが⋯)、どうしてそんなふうに思えたのか、感じることができたのか、理解を絶すると思いました。信仰を傷つけられたときの痛みというものも(p277)無宗教である自分には想像もつかないです。
現代社会の構造を理解するにはキリスト教を学ばねばなりませんね(p67)と釈先生がおっしゃっていますが、本書を読むと確かにそう言える状態は今の日本にならあるかもと思わされてしまいます。信じる信じないという話ではなくして。
本書は2016年発刊。この時コロナもまだなく、ウクライナの戦争も起きてなかったことを思うとp236からのアメリカとイスラム圏の話は一段と興味深い見方のように思えます。
内田先生は「強い物語を求める人間の弱いところに着目する」ことで相互理解が進んだらいいと仰っていますが(p185)とっても日本人的な考え方だなぁと。希望はそうであってもしかし実際はそうはやはりならないですよね残念ながら、と思いました。
本筋とは全然関係ないけど気になる箇所をあと数点。
遠藤周作先生の著作が若い頃好きで文学記念館にも行ったことがあり、外海を歩いた懐かしい記憶を掘り起こしながら読んでいました。
そんな気持ちで読んでいくと、本書に登場するナビの方が吉村昭先生は先生って呼んてるのに遠藤先生は呼び捨てなところに「ああ(あなたはそういう気持ちなのですね)」と残念を感じてしまいました。いや、個人のお気持ちなので良いのですけどね。
確かに現地に住む人にとっては遠藤周作先生の「沈黙」が与えた影響を思うと明るい気持ちやありがたい気持ちにはなりにくいのかもしれません。そういうことを知ることができたのは貴重だったと思いますし、これはやはりそこに住んでいる人にしかわからないものが良きにせよ悪しきにせよ絶対にあるのだろうなと本書を読んではじめて思い至りました。でも著作を愛読してきたものとして少し哀しい気持ちになりました。
p203苦しんでどうにもならないということの積み重ねによってしか戦争は抑止できない
覚えておきたい言葉でした。
p230遺髪への信仰はない。お坊さん髪の毛ありませんので。
お坊さんが言うところがまたいい。吹き出してしまいました。笑えるところがあって良かった。
たまたま前日まで読んでいた小説が「信じる」について考えさせられる内容だったのでこちらはまた別の「信じる」を考察する一冊で偶然なのですが何だか不思議でした。
あとがきに内田先生は「グローバル」と「習合」についてずっと考えてるとありました。その後「日本習合論」という本を出されているので多分そこにまとめられたのでしょう。実は発刊されてすぐに買ったのですが読んでおらず年季の入った積読に⋯。
本書を読んで思い出し。読まねばと思います⋯ -
Posted by ブクログ
4人の作家がそれぞれ宗教についての学びの深い本を1冊ずつ取りあげて紹介・解説している本。とりわけ各章末の考察欄が非常によい。
「宗教は社会や家庭と対話を重ねながら価値観をすり合わせて共に成熟していくことが重要」
「宗教に対して疑いがあって当然、逆に100%疑いがない方が危うい」
「信仰は信じる・信じないの間で揺れ動くが、離れられないと思った時に本物になっていく」
「論理を超えた妄信があるからこそ宗教と呼ぶ。」
「宗教には体感できる非日常性がなければならない。」
「念仏とは与えられるもの(与格的)であり、自分の無力さに絶望し祈ろうという気さえ起きないようなときに初めて他力が開かれる」
要約すると以上のようなメッセージに集約されるが、どれも密度が高い。
私はこれまで論理的・科学的・心理学的・社会学的な目線から宗教を見てきたが、それを超えたトートロジーな部分こそが宗教たる所以であって、そこに功罪があることを知ったのは大きなパラダイム転換になった。
一筋縄ではいかない、多面性を持った「宗教」の本質に近づくことが出来る有意義な一冊だと思う。 -
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内藤湖南の著書を読み、富永仲基へ。
仏教思想の理解がないと、読み進めるのが難しい。
【加上の理論】 仲基が一切経を流し読んで見抜いたこと、それは仏教が「加上」でできあがってきたということです。加上というのは、言説による思想は先行する言説を媒介にして、そこに新たな思想や主張を加えて進んでいくということを言うのですが、仲基は仏教がまさにこの加上によって構成されてきたというふうに喝破したのです。(松岡正剛)
以下抜粋~
・内藤(湖南)の仲基評の特徴は、「方法論」を高く評価するところにあります。
富永は古来の伝統の説に囚われないで、特別な方法を発見しました。
1「加上」の原則
・仲基の主張は「一言でいえば、善を為すことを教えている」(中村)であり、この点においては三教で一致しているというのです。
しかし、三教ではなく、なぜ誠の道でなければならないか、それは三つの理由があると中村はまとめています。
①「誠の道」は「行はるべき道」であり、自己を実現する具体的な概念である
②「今の世」という時間的規定
③「日本に(おける)」という空間的規定。
この三つに照らして合わせてみれば、仏教も儒教も神道も、みな「誠の道に叶ざる道」となってしまうのです。
仲基は三教それぞれを相対化して、合一した宗教性を見ようとしたのだと思います。
これはまるで近年における宗教多元主義者の立場のようです。
仲基の立場は「宗教を脱して世俗に立脚する」というものでした。日本思想史研究者の西村玲がこれを「聖俗の反転」と表現しています。
人間の理性を信じ続け「誠の道」「道の道」という、いわばメタ倫理の道筋を提示したのは、あっぱれと言うべきでしょう。
仲基は、仏教・儒教・神道の三教から聖性を剥ぐことで抽出したもの、それは善への志向でした。 -
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釈徹宗さんが歎異抄の全文解説をした本。歎異抄の内容以外にもかなり色んな内容に飛ぶのですこし分かりづらい。
ざっと読んで全部理解できた気はしないけど、なんとなく歎異抄の概要はつかめた気がする
悪人正機の意味としては、そもそも仏教における善悪は一般的な善悪とは違ってて、悟れるかどうかが観点。悟りに至れない私達こそが悪人であり、阿弥陀仏の救いの対象だよって意味で解釈した。
煩悩があってつらいけど、煩悩があるからこそ阿弥陀仏が救ってくれる証拠になる、だから大丈夫って思えるのかな。
あとは、金剛の信心の話。念仏は一回唱えれば救われるのか、たくさん唱えたほうがいいのかって話があったけど、それよりも金剛の信心が大事なんだって話だと解釈した。
キリスト教など唯一神を信仰する宗教もそうだけど、何があっても阿弥陀仏が救ってくれる、だから大丈夫だって思えたら、メンタル的にはすごい支えになるよなって思います。
浄土真宗が広まった理由がなんとなくわかるような気がした本でした。 -
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2020年、COVID-19が席巻した世界では次々と社会の歪みが露呈した。そのコロナ期とポストコロナ期に、次世代の若者たちがどう生きるべきかを内田樹をはじめとした様々な年代の言論人たちが語る。
内田さんが声をかけて集まった様々な分野の今をときめく著名人たちがコロナとコロナ後の世界をテーマに執筆しました。内田さんのセレクトだけあってみんなけっこう尖っていて(偏っていて)どれも読み応えのある内容でした。中学生向きということで平易な文章で一編が短いのも読みやすくていいと思います。そしてみんな分野が違うので、コロナ期というものを違う角度から見ているのも面白い。また、分野が違っても結局、多くの著者が今世紀に入ってからの日本の教育が間違っていると言及しているところが内田さんセレクトらしくていいし、実際にその通りだと感じます。
近代に入ってから特徴的なのは膨大な富を得た後に残る負債を残らず次世代に押し付けるところ。これを明確にあぶり出したのがコロナで、コロナがあってもなくても次世代の若者たちは老人たちのケツを拭きながら生きる羽目になります。そのことに若者たちと、おそらく現役世代に含まれる私たちがどう向き合って生きなければならないのか、時代のまさに転換点に生きているということを感じさせる本でした。
特にキューバを例とした無料医療に言及した三砂ちづるさんの章が勉強になりました。ということでゲバラの若き日の旅路を描いた「モーターサイクルダイアリーズ」も併せてお楽しみください。この映画はすごくよかった。本も出てる。
あ、あとバランスを取るために武田邦彦の「君が地球を守る必要はありません」もどうぞ。 -
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鎌倉時代。それまでの「悟り型仏教」に対して、「救われ型仏教」である浄土仏教を日本において根付かせ、主流にまで発展させた浄土宗の祖・法然、浄土真宗の祖・親鸞、時宗の祖・一遍の三人の思想を比較検討しながら、その特色を知る内容になっています。
悟り型仏教は、俗世間を離れて修行をし、自分の力で悟りを得て救われようとする仏教です。いわゆる「自力」の考え方です。一方、救われ型仏教は、たとえば法然の言うところであれば、南無阿弥陀仏と唱えることで阿弥陀様が救ってくださる、という「他力」の考え方です。「他力」には修行はいらないのです。阿弥陀様を思って、生涯にわたって念仏を唱えて救いを求める気がありさえすれば(これを「多念」といいます。「一念」という考え方もあり、こちらは一度念仏を唱えればどんな悪事を働いても救われるとしたので倫理的に乱れてしまい、法然は戒めの言葉を残しています)、阿弥陀様の力で極楽浄土へいけるという考え方なのでした。
ちょっと脱線しますが、この「他力」の考え方や姿勢がいまや、日本人の「日本人らしさ」を形作っている根っこのところにまで及んでいるとは考えられないでしょうか。最後は神様がなんとかしてくれる、仏様がなんとかしてくれる、誰かがなんとかしてくれる、というような心性としてです。なんだかありそうに思えるのですが。
さて。まずは法然という人が大人物なのでした。著者も法然を、巨人、と呼んでいるくらいです。それまでの仏教は同一性の強いものでした。なんでもいっしょくたです。あれもこれも実は一緒なんだ、というように。「色即是空」もそうです。法然は仏教に二項対立を持ち込みます。正邪、善悪、というような、つまり二元論です。そうすることで、教えをシンプルにしました。二項対立に分類していくことで、突き詰めていったのです。突き詰めていって、最後には、南無阿弥陀仏だけとなえればよい、出家などしなくともよい、といったところにたどり着きます。それがなにを意味するかといえば、世俗の人たちを救うことができるようになったのでした。要するに、出家して修行するなどという人生に余裕のあるような人ではない世俗の弱者の人たちこそ救われなければならない、と法然は考えたのでしょう。そのために、仏教を二項対立の論理で切り拓いたのです。仏教が、ほんとうの意味で民衆に開かれた瞬間だったといえそうです。
続いて親鸞。親鸞は法然の弟子で、法然の教えをさらに哲学的に考えていった人です。そこには永遠に吹っ切れない迷い、自分への疑いがあります。非僧非俗なんていう宙ぶらりんな立ち位置に自分を置きずっと悩み続けますが、それはどうやら彼がとても誠実に仏教に挑んだためなのでした。そこには、無宗教的な現代での内省の仕方に通じるものがあるような、先鋭さがある気がしました。認知的不協和に苦しみながら、法然の思想をより専門的に深めていったのが親鸞です。
最後に一遍です。現代において時宗は少数派です。しかし、法然、親鸞、と続いて、一遍が浄土仏教を完成させたという学者もいるそうです。反対に、浄土仏教を堕落させたと考える学者もいるそうですが、著者はどちらかというと前者の考え方で、さらには、法然、親鸞、一遍を同一線上で語ること自体が違うのではないか、との立場で考察を進めていくのでした。念仏を唱えながら踊りを踊る「踊念仏(日本の芸能の端緒ともいわれます)」が有名な一遍は、法然がそれ以前の同一的世界観の仏教に二元論を持ち込んで広めた浄土仏教を、同一的世界観に回帰させつつも浄土仏教自体は維持します。アクロバティックなのです。また、聖俗の逆転をしたという特徴もあります。聖俗の逆転とは、出家者こそ一番ランクが低く、世俗の身でいながら往生するのがもっともランクの高い者だとしたことです。これは、従来の考え方とは逆なのでした。
そういった三人を一人ずつ見ていき、最後に比較するのですが、読んでいてなかなか難しい論理展開のところもあります。なぜならば、仏教の昔の著作からの引用があるのですが、その論理展開が難しいからです。昔の人も難しいことを考えていたものだなあ、と感慨深さもありながら、読解となると著者に頼るほかないところがありました。
というところですが、特に注意を引かれたところを以下に引用します。
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河合隼雄は『中空構造日本の深層』の中で、一神教を基盤とした西欧の中心統合構造では相容れない要素を周辺に追いやるので正と邪や善と悪が明確化されていくのに対して、中心を形成しない構造は対立するものを共存させ適当なバランスをとりつつ配置される、と論じています。(p65)
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西欧型の中軸構造は、それに沿わないものを周縁に追いやる、排除する性質で、一方の日本の中空構造は、それこそすり合わせをしていく構造になっているんです。ここで推察するように考えが及んだのは、日本の自動車産業のすり合わせ技術についてでした。日本のすり合わせ技術は世界に誇るピカイチさだとテレビだったか本だったかで知っていますが、そういった日本の技術力の元にあるすり合わせのメンタリティはこの中空構造からの影響なのかもしれない、と思えたのです。これも、先ほどの「他力」の話と同じく、日本人の心性としての部分について思い当たったことです。
そんなわけで、久しぶりに仏教の本を読みました。またそのうちに、今度は悟り型仏教のほうに触れてみたいです。仏教は魂の科学だとして、科学者が仏教者にいろいろ尋ねていたこともあるとかないとか。科学と符合するものがそこにあったとして、それって古人の内省力の比類なき強靭さを証明するものだったりすると思うんです。すごいものですよね、人間って。 -
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50年前の最初のテレビ漫画のゲゲゲの鬼太郎は見た。実写版の悪魔くんもうっすら覚えている。昭和ヒトケタの父親が鬼太郎は面白いと云っていたなあ。
子供時分は、水木さんの絵は少し苦手だった。手塚さんや石ノ森さんの丸っこい描線が好きだった。今見ると、背景や妖怪の緻密な描写や点描の凄さに驚きつつ、人物、人間側の鬼太郎達の描き方と奇麗な女性やイケメンの描き方にギャップがあるなと思う。
4人の語り手が水木さんを解き明かす。境港での幼少期、食うや食わずの紙芝居描き、貸本時代。死地を彷徨った軍隊時代、幻想怪奇譚好きが水木さんを形づくったとのこと。
成程、改めて、この人は野放図な天才だと知ったよ。 -
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本書の前半には、2012年に相愛大学でおこなわれた内田樹の3日間の集中講義が収められています。後半には、内田が館主をつとめる凱風館で釈徹宗がおこなった、鈴木大拙の『日本的霊性』についての講義が収められています。
内田の担当しているパートでは、これまで内田がさまざまな著書のなかで述べている内容をまとめたもので、武道などの体験を通じて内田自身がその存在を実感している身体知の重要性を指摘し、そうした目に見えないものについての感受性をないものとしてあつかってきた現在の社会のありかたに対する危惧が表明されています。
他方、釈の担当しているパートでは、大拙の主著である『日本的霊性』の解説というかたちをとっているものの、内田の議論に通じるような問題へと話を接続することがくわだてられており、大拙が「霊性」と呼んだ感受性のありようを、ある種の知性のかたちとみなすとともに、「人間的な領域」と「非人間的な領域」の境界を感知する能力として、その役割を説明しています。このような能力は、内田がサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』のなかの「歩哨」についてのエピソードを参照しながら語っていた能力であり、二人の著者の話がおなじ着地点へと向かっていることがわかります。
著者たちが、現在のわれわれの分明な知性によっては把握することのできない知の可能性に対して開かれた態度をとろうとしていることは、それなりによく理解できたように思います。ただその一方で、そうした知のありかたについて、なぜこんなに分明に語ることができるのかという疑問も感じます。 -
Posted by ブクログ
案の定、程よいゆるさ(なお哲夫だけじゃない)で肩の力が抜けた。
仏教寺院がイスラム教徒から攻撃を受けても報復をしなかった、という話が好き。成熟してるという表現もなんとなく悦に浸れた。
偏ったら逆方向に、引っ張る。まさに中道をいこうとする姿。お手本だなぁとしみじみ。バランスをとることが個人的には好きなので、中道はあらためて大事にしたい考えだと思った。
ああ、1番刺さった話を忘れてた。
「他者がやったことと、他者がしなかったこと」ばかり見るのではなく、「自分がやったこと」「自分がしなかったこと」に目を向けること。
他者ではなく、自分が人生の主人公。 -
Posted by ブクログ
斎藤幸平さんの名前があったので読んでみた。
一番心に残ったのは平川克美さんの文章だろうか。会社勤めするようになって当たり前のように見聞きしてきた経済合理性。原価を絞り、無駄を排除して、より低価格の製品を提供する。お客様の要望に応え、お客様が期待する以上の価値を生み出すこと。製造業をはじめ、経済はそのようにして成長するものだと思っていた。
しかし、現在は総供給が総需要を上回っている状態。必要ないものを売るための広告やマーケティングなど、ブルシットジョブ(この本で言及してる人の多いこと!)が蔓延し、限られた利潤を確保するために「集中と選択」という言葉に現れるように、偏った資源配分をし、競争優位性のない部門は排除すべきとの考え。この競争優位性、経済合理性といった考え方は、巨大企業や金融市場が成長を続けるために流布されたもの。これが人々の価値基準や判断基準のモノサシとなり、格差やブルシットジョブを生み出すことになった。コロナ禍はその脆弱性を露呈させた。無駄を排除した結果、緊急時の備蓄がない、余剰人員を持たない保健所や医療現場、高齢者より若者を優先すべきだとの優生思想。さらに、経済かコロナ対策か、という議論自体が、経済合理性というただ一本のモノサシで語られているということ。
大学生活が単に勉強をすること、即ちオンライン授業さえ受けていれば事足りるのとは違うということもコロナ禍で見えてきた。
仕事とは何か、大学とは何をする場なのかを再考する機会を持とう、社会で当たり前とされる考え方、メディアの喧伝するものに次第に染まってしまう危うさを意識するようにしよう、そう思った。