釈徹宗のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
大学は勉強するところではない。大学とは、知識を商品のように学生に売るところではありません。知とはデジタルデータではなく、身体と感情を持った人間一人一人が身につけ、実践し、対話し、試行錯誤する中でしか役立たない。
あらかじめ用意された正解をたくさん覚えることが優秀だというのは、いわば知識ベースの勉強です。しかし、非常事態に対処するには、そんな勉強だけでは限界があります。そこで力を発揮するのが、物事をいろいろな角度から観察し、今までに知った事実と組み合わせて、全体の構造を考えるという知性ベースの学びです。
まだ答えがない問題への対処については、先生と生徒の立場は対等です。 -
日本人にとって聖地とは何か
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試し読み
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Posted by ブクログ
ネタバレ原文、現代語訳、著者のくだけた意訳、解説・・が入り乱れてレベルが合っていないので少々読みづらい。もう少し編集側に仕切る力がほしかった。いいこと書いてあると思ったところを断片的に抜き出したが・・
P117 苦しい時に、そのことに身も心も支配されてしまわないよう自分をクールに観察して執着から離れ、利他行為にかかわる。「自己観察」と「利他行為」はわたしたちが生きていくための手掛かりになりそうです。
P143 わたしたちは現象をありのままに認識することはできません。自分の都合という枠組みを通して物事を認識したり判断したりしています。自分の都合はやがて自分自身の苦悩を生み出します。自分の都合が強ければ強いほど、苦悩は強くなります。そして苦悩の連鎖が始まるのです。
P153 既に悟りを得た人はそれ以上悟りを求めることはしません。その人は煩悩の泥の中へとまみれることが仏道の実践になるのです。”煩悩なくば悟りもない”
P162 汚濁と清浄とは相反します。でも。汚れの正体(絶対で不変の本性)はありません。浄らかさの正体もありません。悟りも同じです。このように体得できれば、不二の法門へと入ることができます。
P177 理想は普通の社会生活を送りながら仏道を歩み続けること、でもそれがなかなか困難だから出家するのだ
P188 仏教では、五感を単なる受容器官と考えずに、放っておくと暴れるものだと考えます。だからいろんな技法を使って、心と身体を整える。そうしたら『香りがよくなる』わけです。
P191 生きるということは矛盾だらけです。この世界を精いっぱい生き切り死に切るには常に自分の枠組みを構築しては解体する営みを続けるしかないのです。
P202 仏教には「月を指す指」という比喩があります。月を指さしてもその指のほうにこだわってしまう。指の確度はどうだ、爪の色は・・
P211 鏡のような心は仏教の理想です。【中略】目の前にあれば、それをそのまま映す。そして、その対象が目の前からいなくなれば、何も映らない。残像も残らないこれが仏教の理想的な精神のありようなんです。 -
購入済み
75歳にして思うこと
私も、本年、75歳に突入して、どんな本かな?と、興味半分読み始めた。
何年かすると、私も、いつかは、老いて死んでいかねばならないのかなと少し寂しくなった
他の、五木寛之さんの本を読んで、五木寛之さんの人生観が、私たちに近いものがあり共感を持っていたが、この本は、釈さんの意見に添った感じの内容が多く、私には、理解できないことがあり、ちょっと、がっかりした。もう少し、五木寛之さんにどうしたら悔いなく死ねるのかどういう風に生きれば、悔いなく死ねるのかズバリ教えてほしいという感じがした。 -
Posted by ブクログ
NHK 100de名著で放送された歎異書が面白くて、釈撤宗の本を探して読みました。
歎異書は親鸞のみでしたが、本書で、法然と一遍についても学べて、また違う観点でも勉強になりました。特に、一遍の全てを捨てて、自由な感じが、悟ってるな〜、という感じでした。めっちゃ素人感想です。
個人的には、この三者の中で、親鸞が一番共感できる面白い。いつまで経っても悟れない自分がいることを認識した上で、それでも救われる、それだからこそ救われる、と悟ったようで、でもそんな悟った自分は怠慢で悟ってなどいなく、みたいに永遠続くのが、なんとも哲学者らしい。
内容はもっと仏教の解釈やら宗教比較をして、しっかりした考察も述べられているのですが、正直あんまり頭に入ってないです。
何回か読まないとわからないですね。
カラスの子の歌に日本の美学が詰まっている、という考察は素敵でした。
無条件に帰る場所がある、おかえりなさい。
これが日本の仏教に通じるところがある。
仏教って素敵ですね〜
南無阿弥陀 -
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内田樹が、浄土真宗の僧侶である釈徹宗を相手に、仏教の根本的な思想についてたずねるという趣旨でおこなわれた往復書簡をまとめた本です。二人のやりとりの合間に「間狂言」という章が挟まれており、釈が仏教の基礎についてコンパクトな解説をおこなっています。
おそらく内田の心積もりとしては、彼自身の宗教にかんする突っ走った議論を、釈が仏教の立場から広く大きく受け止めるという展開を期待していたのではないかと忖度するのですが、どうも内田の投げかける問いのエッジが利きすぎている印象を受けました。むしろ、釈の仏教概説に、内田が自由な立場からコメントを入れるという構成のほうがよかったのではないかという気がします。 -
Posted by ブクログ
現在の聖地巡礼は大人の遠足なんだよね。今に比べては申し訳ないが昔の人はそれなりのリスクを抱え巡礼に赴いていたのだろう。
まあやっぱりこれだけの清々しさを持つ場所には誰しも一度は行ってみたい。だけど現代人には昔ながらの覚悟はない。
ならば、今はこの聖域を壊さず足さず現状を保ち未来に残す義務を持つこと。それが一番難しいのかな。
原発は日本人だけが持っているわけではない。韓国も中国も十分すぎるほど所有している。原発事業も科学である。
自分は常に正しい側で相手は間違っているという排除のボーダーを持っている、二項対立をしているのはむしろ著者側だろう。
原発を含め科学の進歩とはいかなるものなのか今一度考え直さねばならないことだ。