釈徹宗のレビュー一覧
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『日本霊性論』内田樹×釈撤宗
東日本大震災以降、新たに日本の霊性を捉え直すというのが本書のテーマ。内田老師が常々仰っていることが新たに霊性という観点で書かれている。
・霊性とは人智を越えたものを感じ取る構え。「ここに何かがありそうだ」という直感を推し進め、とにかく触ってみる。そして、それを様々な用途で検討し続ける、そのようなブリコロール的な知性も、ここでは霊性と呼べるであろう。非常に面白いのは、科学的知性と宗教的知性は本質的に同じものであるという記述である。「神の摂理が存在する。宇宙の全てを統御している理法が存在するという宗教的な覚知と、万象の背後には数理的な秩序が存在するという直感は構造的には同じである」という言葉は納得がいく。このあたりは、池内了先生の『物理学と神』という本を読むと面白いのだが、ニュートンはまさしく神が創りし美しい世界の論理を解明すべく、物理学の扉を開いたのである。その点では、世界で有数のニュートンは科学者であるとともに、明確なキリスト教徒であった。ダンブラウンの『天使と悪魔』は科学者とバチカンの対立を描いていることや、感覚論として宗教と科学は相反するテーマに思えるが、実はその根本は同じであるという指摘は非常に面白い。日本史上最高の数学者であり、同時にエッセイストであった岡潔もまた、問題が解ける瞬間について「最初に直感的にわかるということが起き、その後5日間くらいかけて、それを数式に落とし込む作業を行う」と述懐している。岡潔もまた、敬虔な仏教徒であったが、宗教的なバックボーンと科学的発見に並々ならぬ関係性があるのは間違いないだろう。内田老師は、ジョブズの「自分の直感に従う勇気を持つ」ことの大切さについて、引用しているが、創造的な仕事をしている人に訪れる「知らないけれども知っている」という力動的な感覚を体感しているのであろう。
・人間社会が存続する為に必要な4つの要素とは、「裁き」「学び」「癒し」「祈り」である。「裁き」:自己利益と集団の利益の葛藤を内包できる人が、裁きの人である。まさしく集団が生き延びる為に、裁きは必要であるが、裁きを下せる人は、個人を越えた集団的な規範を深く内面化した、葛藤を抱えられる人間なのである。古来、人々は集団的な規範を宗教や神に頼ったのである。イーリアスでも神の声に従うという形で、集団的な理法を説く人間がおり、フランス革命も「一般意志」を聴くことがキーコンセプトであった。これらは形を変えて集団を守る、裁きの理法を伝える上で、何らかの形で仮象された存在である。
「教育」:教育論については、今の日本の教育への批判が中心であった。教育は集団が生き延びるためのものであり、自分自身が立身出世できるものではない。そもそも教育の受益者は集団でなければならないという原則が今現在忘れられている。ノブレスオブリージュではないが、教育を受けた人間は、社会に還元せねばならない。まさしく、教育とは贈与なのである。贈与されたものを退蔵するとき、もうその人に贈与はされなくなる。教育という贈与を受けた場合には、必ず贈与をもってこれに応えなければならない。ニーズがあるから学校を始める人はあまりいない。多くの学校設立者は皆、これを教えたい、この知見を贈与したいという欲求から、学校を設立する。その意味では、正確性はさておき、ユーチューバーが世の中にあふれかえっていることは、まさしく人々の贈与の欲望にかなっているからなのかもしれない。
「癒し」:これはまさしく医療であるが、集団を存続させようと思った時、制度設計の基準は集団でもっとも弱い者でなければならない。社会的弱者は、自らの変容態であるという自覚と、弱者の声を聴くという姿勢が社会を存続させる手段なのである。
「祈り」:祈りは、人間が生きる力を高めるマインドセットなのである。それは何かと言えば、外部のものを感じ取るセンサーのようなものである。祈りは、とにかく体中の感覚を研ぎ澄まし、感じることに集中する構えである。偶像崇拝が数多の宗教で禁じられているのは、「人智をもっては知りえぬもの、人間の言葉をもっては語りえぬものと対面するという根源的な経験の絶対的他者性、絶対的な未知性を無傷で保つため」なのである。この絶対的他者性を毀損しないために、偶像が禁止され、祈る姿勢によって、絶対的他者を感じ取るという命がけの跳躍を達成させるのである。世界には人間にとって絶対的に不可知なものが存在するという敬虔さというものをはぐくむことは、まさしく祈りなのである。
そして、これらは現在、資本主義にさらされていると言える。宇沢弘文先生は、これは社会共通資本の中の制度資本と捉え、資本主義や国家とは異なる時間軸で保存されねばならないことを提唱していたが、現状、特に教育と医療の商品化マインドは日本社会全体に横溢している。
また、これらに対置されて「七つの大罪」が挙げられていることは面白い。上記の4つの要素は自他の一体化が自分でも他人でもない共身体の形成を目的にしているか、自我による他者の支配や収奪・占有を目的にしているかで、聖なる行為と罪なる行為に分けられる。
これらを分かつ役割を、内田老師はセンチネル=歩哨と表現しており、現在日本には急速に歩哨の存在が減少していることを述べる。
歩哨とは、共同体の外部と内部の境界線に立つものであり、その資質は他者の思考や体感を同期させる能力である。この能力はまさしく共身体形成能力とも呼ぶべきものであり、歩哨の重要な能力である。他者と自己を分かつ境界線を壁と捉え、壁があることによりできなくなったことを数えることよりも、壁があることでできるようになったことを数え上げる精神性こそが、歩哨の資質である。現代では、自分の弱さや卑しさ、幼さを前面に出す人が増える。開き直りや居直りが政府中枢や大企業幹部でも目立つ。弱さや卑しさは人間の本質的な部分である一方で、一歩も間違えると、非人間的なものを人間社会に招いてしまう扉をあけることになる。まさしく、アイヒマンが一人の凡庸なひとであったように、人々は、非人間的なものを呼び寄せる扉と隣り合わせで生きているという切迫感を持たねばならない。
先程の歩哨という役割について、会社ではどうかと考えたが、これはやはり営業なのだと考える。営業の主題は課題の解決である。しかし、課題というものはなかなか見つからないのが正直なところである。AIに真似できない高度に人間的な営業とは、顧客の思考や感覚と同期し、顧客と共身体を創り出すことで、天下無敵状態で自社のリソースを販売することである。営業はまさしく会社と会社の間に立つ境界人である。会社と会社の境界に立ち、教会があることでできなくなったことよりも、境界があることでできるようになったことを数え上げる。そして、顧客企業と共身体と造り上げることで、自社リソースを前提にしたビジネスを造り上げる。これこそがまさしく究極の営業であり、AIには代替的不可能な、極めて人間的な仕事ではないかと感じた。 -
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この夏は長崎に行きたかったが、コロナで行けず、代わりにと手にしたのが本書。キリシタンをテーマに長崎、大阪を紀行する。内容的には潜伏キリシタンを多く扱っている。
釈徹宗、内田樹両先生の当意即妙なやり取りが心地よい。出典等はなく、学術的なものではないのだが、ラフな「しゃべくり」の方がこのコンビには合っている気がする。特に内田先生がその土地に触れて反射的に発するコメントにはキラリと光るものがある。信長や秀吉は成長型の社会システム、家康は定常型として、アメリカも実は定常系なんだというのは面白い指摘だと思う。
4年前の刊行なので、その後、社会は変わっている。アメリカの定常的な社会に、中国が対抗できるほどに台頭してきた。長崎と天草の潜伏キリシタン遺産が世界文化遺産に登録。本書でも話題になった長崎県庁跡地活用はお2人の懸念通り混迷している。内田先生の自論の観光立国日本は、カジノはやめてよねという願いは叶わず、妙な方向へ進みかけていた矢先、コロナ禍で尻つぼみに。
宗教的に日本はあなどれません、という釈先生の言葉は印象的。身近なところに脈々と受け継がれる信仰を探すのもいいなと思うお盆のこの頃。 -
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世界遺産の熊野を歩いて、これを読むと最高に面白い。
聖地に足を運び、「この世ならざるもの」を感じ取ること、とある。
熊野に触れると本当に圧倒される。
「場」の神道と「語り」の仏教、神仏習合がある。でもシンプルにそれだけでなく、仏教から新道的な要素を削いだり、廃仏毀釈があった。
聖地の中枢へ熊野古道をめぐるとなんとも山深い。
あの空間で登ったり下ったりしてると、歩行瞑想になる。
熊野本宮大社と大斎原、熊野川には圧倒される。
こちらは瞑想から目覚めて、全てから解放される感じ。
これに源氏と平氏が出てくる。
馬と船の戦い、確かに馬と船が周辺の神社にある。
色々まざるまざる。
そして一編上人が熊野神勅で、「南無阿弥陀」を称えることで救われる教えを開宗する。
なんでも飲み込む熊野の包容力たるや、「場」の凄さをかんじる。
神倉神社、那智の滝、那智大社、青岸渡寺は読むだけでなく、行ってみると良いですヨ。花の窟神社、産田神社の伊邪那美の話にはいつか触れて見たい。
この本のなかでは、霊的感受性の洗練を現代日本ではまったく組織的に訓練していないと語る。
世界がボーダーレスになり、日本を語れないと自分を伝えることが難しい世界になりつつあるし、AIとか新しい技術で日進月歩の現代において、次はこれかも。
ロゴスはゼロですが。
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「『寝ながら学べる浄土真宗』という過激なタイトル」(文庫版のためのあとがき)の企画から始まった、インターネット上での往復書簡を書籍化したもの。
西洋思想を交え、「宗教」とは何かという方向に展開しつつ、ばっちり仏教の解説にもなっています。
仏教の歴史(大乗メイン)や基本の教え、イスラームや日本人の宗教性についても間狂言で勉強できて、かなり盛りだくさんな内容。
読み物として普通に読んで面白いのはもちろん、「宗教」や「仏教」が何かいま一度考えたいときにも読みたい一冊です。
特に興味を引かれたのは、その9あたりからの、レヴィナスの「善性」について。
往復書簡は『はじめたばかりの浄土真宗』に続きます。 -
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日本人が今取り戻さなければならない霊性というものについて。2部構成になっていて、第一部は、内田先生が相愛大学にての講義です。ここでは、なぜ霊性が必要なのか。それはどのようにして現れ、解されていったのか。それを取り戻すためには、なにをしなければならないのかについて、非常に身近に分かりやすく書かれています。ここだけでも読む価値あると思います。理解できることしか見ない姿勢が変わることを感じています。
第二部は、釈先生が内田先生の寺子屋ゼミにてされた講義内容です。鈴木大拙の「日本的霊性」をテキストに霊性に迫っています。日本的とあるように、日本にはそういったものがすでにあって、そのため仏教やキリスト教も元の宗教と違って日本的なものに変質してしまう、そのからくりが目を覚まさせられます。また、第一部の内田先生の話に振り返っての話もあり、霊性についてさらに深めることができました。
なんとなくわかること。今までは、明確に説明できないので、それを出すことに躊躇し、見えないふりまでしていました。せめて認め、どう付き合っていくのか考えたいと思います。 -
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ネタバレ面白かった。
真に宗教的な人間は宗教団体から勧誘は受けないそうである。
宗教的であっても宗教団体に属せない人間がスピリチュアルに行くというのは本当だと思う。
村上春樹氏が世界中で読まれていることにちょっと触れて、世界文学になるような作品は「どうすればいいかわからないときに、どうすればいいか」という難問を扱っている・・とのこと。
へーそうなの!と単純に驚いたが、そういえばそうかな?
御二方の闊達な考察に刺激を受ける。
靖国神社の問題も、もう少し自分の中で整理してみたい。
(本当は日本のマスコミが、毎年騒ぎたてるからややこしいことになっただけだと思うけど。) -
Posted by ブクログ
宗教において如何に「解決できない苦しみや悲しみを引き受けるか。」、「どうやってあきらめるか」。老病死や別れにかかわる苦悩をどうやって引き受けるか。
というテーマで、「ロゴス」「パトス」「エトス」「トポス」
の切り口で論じている内容。
著者の著作を最近よく読みますが。この本はその中でも、日本の仏教の考え方・成り立ちなどの中心がよくわかる本ではないかと思います。
本著のなかでもかかれてありますが、私も含めて日本人は非常に宗教的なかかわりが強いと思います。
大げさに言うと神や仏。菩薩や如来を感じる瞬間や
場所。気持ちに気付き、心が落ち着くことがよくあるし、ときどき携帯で聴いている御経など、朝仕事に行く前に聴くと気持ちが休まります。 -
Posted by ブクログ
釈徹宗さんの解説を交えながらの大阪、京都、奈良の聖地を巡る旅。イスラエルが3つの宗教の聖地であるように、古来から「聖なる場所」というのは人類が共通して感じられる「何か大きな力」を感じられる場所なのだろう。現代人はその力を感じ取る能力が衰えてきているのではないか。自分の足で歩いたり、自然の空気や土や草木にふれたりする機会を失いがちな都会人はなおさらだ。そうして我々はいつしか「聖地」の存在を忘れ、気付かぬようになり、蔑ろにしてしまう。今回の旅では大阪はその傾向が激しく、京都は観光化しながらもさすがによく保っており、奈良(東大寺周辺でなく南部大和地方)は未だ開発されずに素朴で野性的なまま残っているという。もっとも心惹かれるのは奈良。行ってみたい。その霊性を感じてみたい。