釈徹宗のレビュー一覧
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2020年の8月くらいに書かれた内田樹さん編のアンソロジー。
コロナをへてポストコロナに対しての中高生・大学生
に向けて30代・40代・50代・60代・70代の著作者が
指針というかメッセージ集です。
前書きの内田樹さんの『各代の著作者からの想定読者にたいするいうべき言葉は『ごめんなさい』』という部分は非常に
心に残る内容です。
20人の人からの言葉のなかで、一番よかったなあと思うのが、今回は平川さんでした。
昨年の8月と現在(2021年1月)とはまたフェーズが
変わってきているコロナの状態ですが。
やはりいろいろな矛盾が表出してきているなあと
思います。
たしかに、自分の息子も含めて、若い人たちには
今後この世界の変えられるものを、正しく変えていき
少しでも多くの人たちが生きやすい世の中にして
いってもらいたいと思います。 -
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かつて司馬遼太郎さんが、山片蟠桃と並んでその合理的精神を賞賛した富永仲基。とはいえ、『出定後語』という著書は受験知識で知っていても、その中身までは知らない人がほとんどでは? かくいう私もその一人。本書は、そんな知られざる天才・富永仲基の思想がコンパクトにまとめられたお得な一冊だ。
誤解を恐れずに仲基の考えをまとめるならば、ある思想や主張はどんどん上書き保存されていくというもの。そして、時代や場所が変われば語られ方も変わっていくというもの。そこから導き出されたのが、大乗仏教は釈迦が唱えたものではないとする、有名な大乗非仏説である。
これは現代の歴史学はじめ人文系学問に通じる研究姿勢である。このような進歩的な考えを、ネットもない時代の、しかも20代そこそこの若者が持ち得ていたことは、もう驚き以外の何物でもない。
仲基の早熟な天才性に圧倒される。面白い。仏典に関する知事がまるでない浅学な身で欲を言えば、一覧表示などの図表があるとありがたかった。 -
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ネタバレこの本を読んで思うことは、明確な答えを示さないのが仏教なんだなと思います。
ブッダの教えには多くのヒントがあり、また訳や解説も様々です。読むこと、教えられることで何かに気付き、フッと楽になることもあります。
・仏教は“運”という概念に拠らない
・「犀の角のようにただ独り歩め」だけど、仲間がいたら共に歩めという件
・認識と現実のズレに気づき、感情を捨てるということ
・苦手を克服できない人を避難しない、しがらみから逃げようとするんじゃなくて、しがらみに関心を持ち向き合うこと
など役に立ちました。
同じ方向に向かう仲間を見つけるのって難しいですよね。
いつか出会うんだろうと期待せずに独り歩んでいきたいと思います。因縁生起ですから。その他自己分析するところはやっぱり仏教は科学だなと思います。 -
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来月行くので、事前学習。
熊野三山と言えば、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社。
でも、過去に行った時に、なんとなく、熊野速玉大社に違和感を覚えた。
後付けされたような感覚。
それよりも、熊野速玉大社のそばにある神倉神社の方が、強い感じを受けた。
本著で、神倉神社は、速玉大社よりも古く、速玉大社の本宮だと言われていると聞いて、納得。
この本を借りたのも、そこらへんがきっかけ。
他のガイドブックでは、さらっとしか書かれていない神倉神社を大々的に取り上げていたから。
あの階段は、死ぬほど怖い(実際に落ちて亡くなられた方のニュースも何年か前にありましたが)のだが、なぜか、再び訪れたくなる地。
熊野は、お寺だから、神社だから、男だから、女だからなどという、区別のないゆとりある世界なのだと思う。
そのボーダレスな感覚が、包容力を産み、植島啓司先生が言うところの「子宮に帰る場所」になっているのではないかと思った。
だからこそ、昔の人は、幾度となく訪れ、篭り、蘇りの地にしたのではないかと。
旅の工程には考えていなかった花の窟神社にも、絶対行こう! -
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なまじのガイドブック読むより熊野を堪能できる。
熊野って何か大事を果たす前にエネルギーを充填するような土地なんですかね。
大きな困難と向き合う前に行っておくべき地
そこに行くことで生命力が高まる、戦闘力が高まる、そういうことが実感としてあったんだと思うんですよね。
神社仏閣や祭は人間が一定数以上いる場所には絶対に必要。土地にこもっていたり人間が持ち込んでくる邪気を「リリース」「放電」する装置が必要。
子供の頃から自分の死に方のイメージをはっきり持っていて、そこに向かって次第に収斂していくように老いていく、そういう文化があったんじゃないでしょうか。
むしろ、「生と死をつなぐ強烈な通路」を持たない現代人のほうが貧相に見えてきました。
那智大社参道の俗っぽさ、那智の浜は、濃縮した熊野の宗教性を脱臼させる。 -
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維摩経という仏教の考えをもとにした、人間のありかた、生き方の考察が面白い。「自分という枠組みを通して物事を見てはいけない」という知見があるが、それは「枠組み」とはつまり「自分の都合」ということに他ならないわけだ。その「自分の都合」がゆえに苦悩が生まれるのだから、そういったものを捨てれば苦悩から救われるというのが教えの本当に大事なことなのだろうが、そこまで望まなくともそのように「自分」を考えることで、自分自分と言っている自分にたいした根拠などなく、たまたまそういう環境に生まれて育っただけだな、ということに思い至り、自然に楽にはなれる気がする。
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現代霊性論
内田樹25冊目
霊性というものが科学的なものかどうかは一旦“判断を停止”して、人々に現象として与えている影響等を分析する現象学的なアプローチから、宗教や共同体の慣習について論議している。死に対する態度というものは往々にして世界でも普遍的な要素が多く、面白い。
・墓について:西洋では身心二元論が一般的であるが、アジアでも儒教では身心二元論的な考え方をしていて、死後も魂のよりどころとして位牌が作られる文化があった。それが日本に通じて、墓が作られる。場が持つエネルギーについても面白い。繁華街というものはもともと霊的なエネルギーが強すぎる為、人が住まないことを理由に市場としての役割を与えられたところ。また、河原も元は死体の集積所であったために霊的エネルギーは強い。
・名づけることは呪うこと。これは面白い。名前を付けるという行為が、縛りをもたらす効果について。確かに「何々病」とつけると途端にそのような症状が出てくることはよくある。寝ながら学べる構造主義でのソシュールの項では、西洋には「肩がこる」という言葉が存在しないため、肩がこらないという話があったが、その話もこの類だろう。また、明治時代に苗字帯刀というムーブメントがあったが、これは今まで個人としての名前が重要視されなかった村社会から、国家と一対一対応の紐帯(ある種の呪い)が結ばれた瞬間であるという。さらな、かつて名前を他人に知られることを忌む文化があり、官職や地名で呼ぶことが多かったのも、名前を知られると呪いをかけられるという通念からである。漫画デスノートも「名前を書かれたら死ぬ」ノートであり、本質的には呪いである。
・宗教ブームの構造分析だが、オウム真理教は内部に整然としたヒエラルキーを作ったことによって、「表」の社会で思うように昇進できない人々を包摂した。信者は徐々に上がっていくランクに満足感を抱き、そちらに嵌まっていく。ラーメン二郎を愛好する人々には宗教的なまでに厳格なルール(早く、無言で食べることや残さないこと)があるが、「表」の世界ではデブ等の罵声を浴びる人が、ジロリアン内で共有される価値観では奨励され、二郎の世界に嵌まっていくのかもしれない(単純にうまいというのも理由だが) -
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宗教って、ある種のひとつの「病み方」なんですよ。健全な人ってこの世に一人もいないですから。程度の差はあれ、みんな心を病んでいる。そして、人間の持つ本質的な弱さは必ず「物語」を求める。宇宙を統べるひとつの統一的な摂理があって、自分の個人的な祈りが、そこに伝わると、宇宙の風景に、自分の祈りによってわずかではあれ変化がもたらされる。人間は個人としては、空間的にも時間的にも限定的な生を営むしかないわけですけれど、どこかで類的な宿命に繋がっていたい。ゆうげんてかな存在が、無限の境位と、ある超越性の回路を経由して繋がることを夢見る。そういう物語を人間はどうしても必要としているんだと思います。その「レバレッジ」になるのが宗教です。
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宗教が「苦悩」をどうとらえるか。宗教のおける葬儀は死者儀礼と社会儀礼の二面を持ち、古からの「葬儀の型」が死者を弔い、生者の悲しみも癒すことができる。これらを釈徹宗氏は分かり易く説く。▼納得したところは、お布施のように日頃から自分の持ち物から手を離してゆくことが、大切なものを失う日のための日々のトレーニングになり、そうやって身の回り物を整理することが心身や内面の整理につながるという「断捨離」の考え方。物・愛・栄誉・憎しみなどに執着してもいずれは捨てなければならない。それをお布施から学び、準備することができる。▼他に色々となるほどと思わせる記載が多い。