釈徹宗のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
「死では終わらない物語について」往生伝や
終活、いかに死ぬか。宗教と死。をテーマに
書かれた本。
久しぶりに読んだ釈氏の本でもあります。
まだまだ、死について具体的に近しく感じたことは
今のところありません。
一度危ないといわれていた時はあるようですが、
その時は本人は全くわかっていませんでしたので。
ただ、この本を読んで。先に死んでいった人たちと
会えるのであればそれはほんとに少しだけ、
前向きになる感じがします。親父に会いたいなあと
少し思います。
怖かったし、そんなに仲好というような関係では
なかったけど。今の現状を話ができればいいなと
思います。 -
Posted by ブクログ
宗教というと取っつきにくい印象ありますが本書はなかなかに親しみやすいと感じます。
著者は仏教のお坊さんですが、他のいくつかの宗教とフラットに対比しています。視線の確かさが感じられ信頼できます。
さて、生きていく上での困難であります、老、病、死に対して宗教は救いとなるか?がテーマであります。
そして各宗教の教えを、ロゴス(理)、パトス(情)、 エトス(行)、トポス(場)の観点から違いをあぶり出します。
この解説はスリリングです。
でだ、この本を読んで宗教は救いとなるか?と思ったかである。私は…救われる人もいるだろうとは思った。
自分は?
現在、直面する老、病、死が深刻なモノでないため切実に救いを求めていない。死は確かに怖い。この世で一番怖い。ただ、目の前のに見えない。だから、タバコもすうし、バイクにも乗ってみたいと思う。その立場になってみないとわからない。たぶん哲学を学ぼうとはしても、宗教を求めることはしないような気がする。
ただ、本書で指摘されているように、私はごく自然に習慣としての宗教的行為は行っている。初詣にはかららず行くし、交通安全の御守りも買うし、家には結婚式で神社にいただいた、安っぽい神棚つけているし。普通に葬式や法事も受け入れてるし。
そこに神様の存在は強烈には感じられないが、見られてる感は少々あったり、神様いて欲しいなぁてな願望はあったりする。これは宗教心なのであろう。
宗教というものの概念が私のなかでは少し身近なものとなった本書でした。 -
Posted by ブクログ
・Eテレの「落語でブッダ」のテキストを買つた。裏表紙に釈徹宗「おてらくごー落語の中の浄土真宗ー」(本願寺出版社)の広告があつた。CD付きである。その内容は、節談説教の藤野宗城「円融至徳の嘉号」と落語2席、柳家さん喬「寿限無」、笑福亭松喬「お文さん」である。合計約73分、さん喬の「寿限無」とは珍しい。こんなのをさん喬がやるのだと思ふ。「お文さん」は「五代目桂文枝(著作当時は三代目小文枝)の書き残したネタ本をもとに、私が部分的にリライトした台本で」(80頁)今は亡き松喬の演じるものである。これがネタ下ろしであつたらしい。このCDだけでも本書の定価1,800円に値しさうである。私もこれに惹かれて買つた。節談説教だけで買ふ気はほとんどないから、かういふ形で入るのはありがたい。久しぶりに聞いた節談説教、節談といつても基本は説教である。芸能ではない。だからかういふものだらうと思ふ。それでも適宜笑ひを散りばめ、節を散りばめて進めていく。 なかなかおもしろい。本書の前半はごく大雑把に言つて説教の歴史である。「醒睡笑」の安楽庵策伝までを丁寧に説明して落語との関係に入つていく。そんな中で説教も出てくる。昔は名人がゐたが、今は節談説教自体が盛んでない。「個人の名人技に頼ることなく、システムで伝道スキルを身につけることができるようになっている」(76頁)時代だからである。結果として「『絵解き』や『節談説教』が隅っこへ追いやられ」(同前)た。節談説教を知らない説教者も増えたらしい。本書が必要な理由の一つでもあらう。そこで、「『節談説教』は大変魅力的な伝道・教化技法ですが、見事な節回しや声を聞かせることが主眼ではありませんし、様式を継承する古典芸能でもありません。」(77頁)といふ一節が出てくる。考へなくともごく当然のことである。これは小沢昭一によつて節談説教が芸能として採り上げられたことを踏まへての反省であらう。さう、落語と説教には重なる部分、シンクロする部分も多いが、説教は芸能ではなく伝道、教化なのだといふことである。このCDでそれを改めて確認できる。本書はごく気楽に、手軽に読める落語と仏教の関係概説書であるが、この種のいくつもある文章を見つけると、やはり説教は宗教なのだと改めて確認する。決して芸能ではないのである。
・ある意味ではこれも以上に関係することなのだと思ふが、こんな一文があつた。「『高座では落とし咄しもありがたし』という狂歌があります。」(85頁)この人にしてこんな間違ひをするのかと驚いた。これが狂歌であるのか。引用は「誹風柳多留」からと明記してある。それなのにこれを狂歌といふのである。狂歌は短歌、57577である。引用は575、言ふならば俳句であらう。つまりこれは川柳である。この文芸の世界に於ける伝統をまさかご存じないとはと思はないが、かくも見事に狂歌と川柳をまちがへられては著者と編集部に対する信用に関はる。説教は落語と同等であつてほしい、節談説教は節と美声で聞かせるものだなどと、本当は思つてゐるのではないかと、私もゲスの勘繰りをしてみたりするのである。せつかくここまで書いてきたのに、この一語のまちがひは大きい。難しいことであるならばしかたないですむかもしれないが、こんな基本的なことではさうはいかない。敢へて言へば、画竜点睛を欠くとはこのことである。手許のは第2版、出版後三年以上経つ。 既に指摘されてゐることであらうと思ふが、敢へてここに記した次第。かくなるうへはCDだけで1,800円と理解しておく。しかも高座筆記つきである。それゆゑ元は取れよう。さて如何。 -
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以前に読んだ、釈徹宗と大平光代氏の対談の
本に書かれてあった本。
落語をはじめとして、日本の芸能は
仏教(神道)をルーツにしているということ。少し前に読んだ
『風姿花伝』にもそのように書かれてあった。
落語の中の浄土真宗や説教の内容について面白くかかれて
あったとおもいます。
またCDで『節談説教』と落語の2点『寿限無』『御文さん』が収録されてあります。Iphoneにダウンロードしたので通勤中に聞こうかと。
また、御文さんの中の御文書の白骨の章はなんとなくいい感じ。
私の家は真宗ではなく浄土宗なのですが。
ituneを検索すると真宗の御経や浄土宗の御経も売っているのですね
驚きました。いつか買ってみたいと思います。 -
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内田先生と「巡礼部」のお弟子さん(?)たちが、釈先生の案内で「聖地」をめぐる企画。手始めは釈先生のホームグラウンドである大阪・京都・奈良。
よく知っていたり、行ったことがある土地ばかりなのだけど、へぇ~そうなの!というお話が次々出てきて面白かった。大阪では土地の「聖性」というものをまったく無視して都市が造られていったのに対し、京都は洗練された形でそれを取り込んでおり、奈良(の特に南部)にはプリミティブにそれが残っている、というくだりにはかなり納得。
少し前に「大阪の神さん仏さん」を読んで以来、「神さん」に対する見方が大きく変わったのだが、この本も「神さん」を考える上で示唆に富んでいると思った。続きが楽しみだ。 -
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この本はほとんどあらゆることを言い切っていない。わざとそういうふうに書いている。つまりそれが、答え、というか姿勢である。
実家には大抵仏壇があって、墓参りにも行き、親族を仏教の葬式で見送っていても、無宗教だと語る人は多い。
本書の印象的な言葉に、簡単に無宗教を標榜できるのは、生前仏教になんの関わりもなかった人が、死んで儀礼をうければいきなりブッダに、という安心感というか帰着感というか、それがあるのでは、というものがあった。自分も含めて、そうなのかもしれないなあ、と思った。
宗教とは、とくに仏教とは、折り合いを付けるためのものであり、また関係性を考えるためのものであると。
その他気になったのは、「明日と来世はともに経験できない」「きちんとした時刻表があうからこそバスが遅れているのがわかる、という感覚」など。仏教の話ではないけど、お天道さまが見ている、という気の持ちようは、結構好きなんだ。 -
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内田先生のお話が好きなので手にとって見た一冊。
タイトルを見て仏教の入門書だと思うと騙されてしまうので注意が必要。
仏教というテーマを書簡のやり取りという形で語り合うという内容。書簡という体裁はやはり宗教ネタだからか。
中身は内田先生の本らしく放談っぽい形になっていて、あまり厳密に仏教の話にこだわっているわけではない様子。日本における宗教のあり方や世界哲学全般、レヴィナス老師、キリスト教、イスラム教など、話は多岐にわたる。
中々面白かったのだけど、どうも内容が散逸的だったり、実は上下巻でずいぶん中途半端なところで話が途切れていたりと、色々と残念な点が目についた。
下巻は気が向いたら買おうかな。という程度。