釈徹宗のレビュー一覧
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むらいさんにお借りしました。内田先生と浄土真宗のお坊さん・釈徹宗さんが大学で行った講義を本にしたもの。
霊性、スピリチュアリティというのをキーワードに、現代の各宗教について、日常にある占いや「いただきます」といった行為が持つ宗教的(霊的?)意味について考察。靖国とか、オウムとか、話題が幅広。現代宗教の体系図も。おもしろいです。
印象に残ったのは・・・
・「賢しらに」宗教性を否定することの憎たらしさ(「無宗教葬」の傲慢さ、六曜入りカレンダーと安息日としての日曜日、女人禁制の山と性同一性障害)
・「自分」「自己」が確立するほど幸せを感じづらくなる
・いったん自己を潰す方法
・イヤホンは都会で暮らしていく上であえて感覚を鈍らせるツール
(さわ) -
Posted by ブクログ
ネタバレなかなか不思議な順番で読んだ。。この前に祖師仏教を批判する呉智英さんの「つぎはぎ仏教入門」を読んだんだけど、変に影響を受け視野が狭くなることなく読めただろうか。さておき、真宗と臨済宗なお二人の対談です。玄侑さんはTVで何かの番組にでられたときの印象がよく、「禅的生活」なんぞを読んでいたりする。作家としての玄侑さんの作品は読んでいないけど・・。
関係性に自ずから巻き込まれることを「縁起の実践」とし、積極的にかかわりながらも関係性にはこだわらないとする「空の実践」との部分が今に響きました。関係性にこだわるあまりに巻き込まれることをしない自分がいるのは確かであり、またここがとにかくも頑なな部分でもあると分かっちゃいるのを改めてブスリとやられた格好です。
あらためて、今出会うべき本であったと思う。 -
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あの世からこの世、彼岸と此岸、hereとthere、これら遠く離れたところを行き来して、物事を見つめようというのが宗教性なんですな、と理解。客観視の究極の形か。
また、善業を積み重ねることで浄土にいけるという考え方は子供的な浄土観であり、人間中心主義に過ぎないというのが、なるほどー。念仏をたくさん唱えて善業ポイントを稼げば天国にいける権利を得られる、つまり自分の力でなんとかできるのだと考えることこそが甘い、そもそも人間の考える善悪の判断など移り変わるもので、あなたの善悪判断基準は、こことは違うあの世や彼岸で通じるという保証など何もない、だから「他力本願」なのだというのが親鸞なのかなと思った。 -
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実に刺激的で面白い。身を乗り出したくなるような話題が次々登場するので、一気に読んでしまった。
・「尊師は空を飛ぶんです」と言うオウム信者の若者に対してどう応ずるのがいいのか。
・「創世記」の「イサク奉献」は何を意味するのか。
・この世の成り立ちについて「何も知らない。わからない」という自覚がニヒリズムに結びつかないためには何が必要か。
・「オカルト」と科学の境界線とは何か。
もちろん、これらについて述べられていることがぜーんぶわかった!というわけではない。最後の対談でお二人がおっしゃっているように十年くらいかけて繰り返し読んでいきたい。 -
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合気道の道場で神棚を拝み、大学では賛美歌を歌い、いずれ菩提寺で戒名をいただく「シンクレティスト」内田先生と、浄土真宗の僧侶である釈先生による、丁々発止の往復書簡。いやあ面白かった。
宗教的な態度とは「世界と存在を超えるもの」に対する謙虚な構えであるという内田先生の言葉に、まずはうんうんと納得する。
「喩えて言えば、『どういうルールで行われているのかわからないゲームに、気がついたらもうプレイヤーとして参加していた』というのが人間の立ち位置だと思います。
このときに、『私には分からないけれどもこのゲームを始めたものがあり、そうである以上、このゲームにはルールがあるはずだ』というふうに推論する人間の思考の趨向性を私は『宗教性』と呼びたいと思います。」
そして、釈先生が引用した西行の歌 「何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」 についてこう述べる。
「この歌には宗教性の二つの条件が書かれています。
ひとつは『なにごとのおわしますか』を『知らない』という人間の側の知的節度が表明されていること。
その『私を超えるもの』に対する『絶対的なビハインド』が『かたじけなさ』という実に含意のある言葉で表現されていることです。」
これはいわゆる制度宗教への痛烈な批判である。
「日本人が制度宗教を苦手とするのは、その根本に『これがワンアンドオンリーの完全なる宗教儀礼であって、これだけやっとけばもうザッツオーライ』という考え方そのもののうちに『神への不敬』を感知するからではないかと思います。」
うーん、まさにそうだ。内田先生の論は相変わらず説得力がある。しかし、これにこたえて(その制度宗教の僧侶である)釈先生が述べていることに、またまたうーんと唸ってしまった。
釈先生は、内田先生が語っているのは、謙虚なたしなみとしての宗教であり、宗教性が日常にうまく発揮されていると認める。
「このような賢者の宗教性は、自己の欲求を投影する『宗教へのおねだり』がいかに反宗教的であるかを浮かび上がらせます。
宗教とは『思い通りいかない=苦』であるこの世界を、自己自身を目覚めさせていくことによって受け止めていく体系ではないでしょうか」
おお!と思ったのはこの先である。
「謙虚なたしなみの宗教性は『常態時の宗教性』です。…つまり、平穏な日常を感謝する宗教性です。
そして、もう一面、宗教性には『タタリのメカニズム』というやつがあります。こちらは『非常態時の宗教性』。『タタリ』というといかにも怪しげですが(笑)、要するに『危機状況』・『限界状況』であるというレトリックです。」
「謙虚なたしなみの宗教性は、常態時において最も多くの人が共有できることは間違いないでしょう。
しかし、一本の道筋をたどり、態度を明確にし、エートスを形成して、はじめて開ける宗教性があることも間違いないと思います」
「『ワンアンドオンリーでザッツオーライ』は、やはり独善への躓きをはらんでいます。逆に『なんでもやっちゃう』のも、既述のような相反する緊張関係が平板化してしまい、宗教的パトスが旺盛な人や実存的不安を抱えた人の『魂の叫び』に応えるものではなさそうです」
な~るほど。釈先生の解説すべてがわかったわけではないけれど、ここの部分には目を開かせられる思いだった。たとえ入門的なものでも、仏教に関する書物を読むのはちょっと億劫だが、こういう形なら読みやすくてよくわかる。早速続きを読もう。 -
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これ実は単行本で別の名前ででていて、あとがきに内田さんが注意しているのに、また、文庫本で買ってしまった。
なんか、宗教の本に惹かれるところに自分の弱さや疲れが感じされるが、あまり自分を責めないでおこう。
内田さんが浄土真宗のお坊さんである釈さんんにいろいろ厳しい質問をして、釈さんが答えるという手紙文のやりとり形式。
内田さんの最後の「釈先生の話をきいていると、本当に日本の仏教っていいなあって気がしてきます。宗教がもたらす美徳があるとしたら、その最大のものは寛容だと思うんですよ。」(p163)
これにつきるな。自分の宗教の中での寛容さだけでなく、その外、他の宗教や無宗教的な人への寛容さが感じられるのが一番いいと思う。
まあ、勝手な僕の理解の仕方ですが。 -
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剛速球の対話が最後までゆるみなく続く。なんだろう、話されている内容を「理解する」というよりは、すごい試合を観戦しているような気分になった。
縦と横を大きなテーマに据えながら、浄土真宗、禅宗、儒教と道教、神道からさらりと西洋哲学やキリスト教にも足を伸ばし、二人の会話はどんどん広がっていくと同時に緊密になっていく。
あとがきで釈先生が「酔っぱらったような気分になった」と書かれていたが、読者もしばしば酔っぱらう。私自身、酔っぱらってしまったクチだが、あえて「この本を誰に薦めたいか?」と聞かれたら、「宗教ってなんやろう、わけわからん」と思っている人に、と応えたい。 -
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ネタバレ--宗教の本質とは何なのか
結局、おふたりの3年半にも及ぶ往復書簡から読み取ることは出来なかった。おふたりとも実に丁寧に書き綴られてきたことは伝わってきたが、仏教とキリスト教、互いに宗教的にも人格的にもリスペクトし合っているがゆえに、宗教の本質的な部分まで切り込むことは難しかったと推察される。痛いところを突かれたくないだろうし、喧嘩もしたくないのだから。
その代わりに、宗教家のお作法ともいうべき、言葉の使い方や態度は読み取ることが出来た。これはなんというか、複数の異なる支持団体からの反発を恐れるあまり政治判断を避け、オブラートに包んだ言葉遣いをうまく繰り出せる人が優秀とされる政治の世界に似ている。本書には、宗教家がよく用いるどんな解釈も可能な、曖昧で意味深げな言葉遣いや引用が多用されている。
つまりこの本を通じて垣間見えたのは、宗教の本質ではなく、宗教家の本質だったように思う。そもそも共著や対談、往復書簡といった形式で議論の深みに到達することは難しい。
「宗教の本質」を理解しようとするなら、ロゴス的なアプローチで頭でっかちになるだけでは十分でないことはわかっている。情緒的体験といった個人的なパトスの理解も必要だろうし、社会や時代というエトスを通じての理解も必要となるだろう。しかしもともとロゴスに偏る特性を持つ「書籍」という形態を取るのであれば、もっとロゴスの面から宗教の本質に切り込んでほしかった、というのが正直なところである。