釈徹宗のレビュー一覧
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あの世からこの世、彼岸と此岸、hereとthere、これら遠く離れたところを行き来して、物事を見つめようというのが宗教性なんですな、と理解。客観視の究極の形か。
また、善業を積み重ねることで浄土にいけるという考え方は子供的な浄土観であり、人間中心主義に過ぎないというのが、なるほどー。念仏をたくさん唱えて善業ポイントを稼げば天国にいける権利を得られる、つまり自分の力でなんとかできるのだと考えることこそが甘い、そもそも人間の考える善悪の判断など移り変わるもので、あなたの善悪判断基準は、こことは違うあの世や彼岸で通じるという保証など何もない、だから「他力本願」なのだというのが親鸞なのかなと思った。 -
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実に刺激的で面白い。身を乗り出したくなるような話題が次々登場するので、一気に読んでしまった。
・「尊師は空を飛ぶんです」と言うオウム信者の若者に対してどう応ずるのがいいのか。
・「創世記」の「イサク奉献」は何を意味するのか。
・この世の成り立ちについて「何も知らない。わからない」という自覚がニヒリズムに結びつかないためには何が必要か。
・「オカルト」と科学の境界線とは何か。
もちろん、これらについて述べられていることがぜーんぶわかった!というわけではない。最後の対談でお二人がおっしゃっているように十年くらいかけて繰り返し読んでいきたい。 -
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合気道の道場で神棚を拝み、大学では賛美歌を歌い、いずれ菩提寺で戒名をいただく「シンクレティスト」内田先生と、浄土真宗の僧侶である釈先生による、丁々発止の往復書簡。いやあ面白かった。
宗教的な態度とは「世界と存在を超えるもの」に対する謙虚な構えであるという内田先生の言葉に、まずはうんうんと納得する。
「喩えて言えば、『どういうルールで行われているのかわからないゲームに、気がついたらもうプレイヤーとして参加していた』というのが人間の立ち位置だと思います。
このときに、『私には分からないけれどもこのゲームを始めたものがあり、そうである以上、このゲームにはルールがあるはずだ』というふうに推論する -
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これ実は単行本で別の名前ででていて、あとがきに内田さんが注意しているのに、また、文庫本で買ってしまった。
なんか、宗教の本に惹かれるところに自分の弱さや疲れが感じされるが、あまり自分を責めないでおこう。
内田さんが浄土真宗のお坊さんである釈さんんにいろいろ厳しい質問をして、釈さんが答えるという手紙文のやりとり形式。
内田さんの最後の「釈先生の話をきいていると、本当に日本の仏教っていいなあって気がしてきます。宗教がもたらす美徳があるとしたら、その最大のものは寛容だと思うんですよ。」(p163)
これにつきるな。自分の宗教の中での寛容さだけでなく、その外、他の宗教や無宗教的な人へ -
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剛速球の対話が最後までゆるみなく続く。なんだろう、話されている内容を「理解する」というよりは、すごい試合を観戦しているような気分になった。
縦と横を大きなテーマに据えながら、浄土真宗、禅宗、儒教と道教、神道からさらりと西洋哲学やキリスト教にも足を伸ばし、二人の会話はどんどん広がっていくと同時に緊密になっていく。
あとがきで釈先生が「酔っぱらったような気分になった」と書かれていたが、読者もしばしば酔っぱらう。私自身、酔っぱらってしまったクチだが、あえて「この本を誰に薦めたいか?」と聞かれたら、「宗教ってなんやろう、わけわからん」と思っている人に、と応えたい。 -
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ネタバレ巡礼ということで分類では旅ジャンルに入っているんですが自分は宗教かなとそっちに登録。
シリーズ化していて1作目読んでいて、二作目と思って手に取ったらこちらはまさかの三作目でした。
長崎ということで興味津々。
神仏混淆は聞いたことがありますがまさかの神仏デウス混淆(p160)
本書を読むまでキリシタンと呼ばれる人たちがカトリックであると意識したことがなかったので言われてみると確かにそうだなとそんなところから納得。
バスチャンの預言と言うものを読んで信仰の強さの凄まじさのようなもの(うまく表現できません)を感じました。拷問や踏み絵についても別の書籍などでこれまで読んだことはあり、それについても -
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4人の作家がそれぞれ宗教についての学びの深い本を1冊ずつ取りあげて紹介・解説している本。とりわけ各章末の考察欄が非常によい。
「宗教は社会や家庭と対話を重ねながら価値観をすり合わせて共に成熟していくことが重要」
「宗教に対して疑いがあって当然、逆に100%疑いがない方が危うい」
「信仰は信じる・信じないの間で揺れ動くが、離れられないと思った時に本物になっていく」
「論理を超えた妄信があるからこそ宗教と呼ぶ。」
「宗教には体感できる非日常性がなければならない。」
「念仏とは与えられるもの(与格的)であり、自分の無力さに絶望し祈ろうという気さえ起きないようなときに初めて他力が開かれる」
要約する -
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内藤湖南の著書を読み、富永仲基へ。
仏教思想の理解がないと、読み進めるのが難しい。
【加上の理論】 仲基が一切経を流し読んで見抜いたこと、それは仏教が「加上」でできあがってきたということです。加上というのは、言説による思想は先行する言説を媒介にして、そこに新たな思想や主張を加えて進んでいくということを言うのですが、仲基は仏教がまさにこの加上によって構成されてきたというふうに喝破したのです。(松岡正剛)
以下抜粋~
・内藤(湖南)の仲基評の特徴は、「方法論」を高く評価するところにあります。
富永は古来の伝統の説に囚われないで、特別な方法を発見しました。
1「加上」の原則
・仲基の主張は「 -
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釈徹宗さんが歎異抄の全文解説をした本。歎異抄の内容以外にもかなり色んな内容に飛ぶのですこし分かりづらい。
ざっと読んで全部理解できた気はしないけど、なんとなく歎異抄の概要はつかめた気がする
悪人正機の意味としては、そもそも仏教における善悪は一般的な善悪とは違ってて、悟れるかどうかが観点。悟りに至れない私達こそが悪人であり、阿弥陀仏の救いの対象だよって意味で解釈した。
煩悩があってつらいけど、煩悩があるからこそ阿弥陀仏が救ってくれる証拠になる、だから大丈夫って思えるのかな。
あとは、金剛の信心の話。念仏は一回唱えれば救われるのか、たくさん唱えたほうがいいのかって話があったけど、それよりも金