安部公房のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
安部公房(1924-1993)の長編小説、1967年。
安部公房の小説の主題として、しばしば「自己喪失」ということが云われる。では逆に、「自己」が「自己」を「獲得」しているのはどのような情況か。それは、「世界」の内で何者かとして在ることができるとき。則ち、「世界」が"存在の秩序(ontic logos)"として一つの安定した価値体系を成し、その内部において「自己」が意味を付与され在るべき場所に位置づけられているとき。しかし、近代以降、「自己」の存在根拠を基礎づけようとするのは当の「自己」自身となる。このような【超越論的】機制から次のことが帰結する。
□ 自己喪失は不可避である。
なぜなら、超越論的主観性は「自己」の存在根拠をその都度毎に対象化し否定し続けることで無限に遡及していこうとするのであり、ついに最終的な基礎づけへの到達は無限遠の彼方に遅延されることになるから。「けっきょく、この見馴れた感覚も、じつは真の記憶ではなく、いかにもそれらしくよそおわれた、偽の既知感にすぎなかったとすると……いまぼくが帰宅の途中だという、この判断だって、おなじく既知感を合理化するための、口実にしかすぎなかったことになり……そうなれば、自分自身さえ、もはや自分とは呼べない、疑わしいものになってしまうのだ」。
自己は喪失するものとして在るしかない。こうした自己存在の無根拠性・虚無性に対する自覚が、欺瞞的な自己規定に安逸している日常性への頽落からの実存的覚醒の契機となる。それは、あらゆる概念的規定を虚偽として峻拒しようとするロマン主義的な自由への意志として現れる。「緊張感で、ぼくはほとんど点のようになる……暦に出ていないある日、地図にのっていない何処かで、ふと目を覚ましたような感じ……この充足を、どうしても脱走と呼びたいのなら、勝手に呼ぶがいい……海賊が、海賊になって、未知の大海めざして帆をあげるとき、あるいは盗賊が、盗賊になって、無人の砂漠や、森林や、都会の底へ、身をひそめるとき、彼等もおそらく、どこかで一度は、この点になった自分をくぐり抜けたに相違ないのだ……誰でもないぼくに、同情なんて、まっぴらさ……」。
自由とは、自己を断片化しようとするあらゆる欺瞞的な意味の絶対的拒絶という不可能性においてのみ、無限遠における成就ならざる成就としてのみ、可能となる。「「彼」……どんな祭りへの期待にも、完全に背を向けてしまった、この人生の整理棚から、あえて脱出をこころみた「彼」……もしかしたら、決して実現されることのない、永遠の祝祭日に向って、旅立つつもりだったのではあるまいか」
このような自己喪失の事態に対して、超越的な何かを仮構して喪失した自己を回復することは不可能である。なぜなら、あらゆる存在が超越論的主観性への表象として在る以外には在り得ないのであるから。一切の外部が無い。いかなる形而上学的逃避も予めその可能性は閉ざされている。この意味においてもまた、自己喪失は不可避である。取り戻すべき自己を探し求めるなどということは、全く無意味であるから。「だから君は、道を見失っても、迷うことはできないのだ」。道を見失っている、という情況から逃れることは永遠に不可能である。それ以外の情況は在り得ないのであるから。
そして、失踪者を追う者がついに当の失踪者それ自体に反転することは不可避である。失踪者を追うという超越論的主観性の【超越論的】機制そのものが、失踪者を何者かたらしめようとする不可能性に不可避的に撞着する以外にないという点において、失踪者それ自体の在り方に他ならないのであるから。追う者の姿は失踪者の姿そのものである。こうして、失踪者は増殖していく以外にない。
「探し出されたところで、なんの解決にもなりはしないのだ。今ぼくに必要なのは、自分で選んだ世界。自分の意志で選んだ、自分の世界でなければならないのだ」
しかしその「世界」とは、決して肯定的に規定し得ないものではないか。掴み取っては投げ捨てるという無限の否定運動の裡においてしか在り得ないものではないか。 -
Posted by ブクログ
私は長編が好みなのだが、この短編集はそれはそれで面白かった。ドナルド・キーンさんの解説に同意。カフカと比較されることが多いし、結末は大抵不幸なのだが、なぜかカフカ作品に漂う救われなさは低め。
それと、作者本人しか分からないことをほじくったり、カフカの影響のあるなしの論議にとらわれず、楽しめばいいに烈しく同意。読書会なるものにも参加し、夏目漱石の「こころ」については解説本なるものを読んでしまったが、その経験を経て、あまり重要ではないと思った。
夢十夜もゆりがなにを意味するかを考えるより、私はその幻想的な光景を頭に描き出す方が好きだ。
でも、この短編集は人間誰でもが持つ性情を大げさに描き出すとどの性質も怖いなぁという感想。
「手」伝書鳩とその飼い主の輪廻転生の関係を描いた作品。なんだか、心に残った。
「飢えた皮膚」は、ただ怖い。
「闖入者」は民主主義の多数決に対する警鐘なのかな?ある日、家族が家や生活、お金を乗っ取り、反抗すると多数決による正義を主張されてしまう。少し怖い。
「鉄砲屋」もどこか実際にありそうな範囲なのが安部作品の怖いところだ。死の商人についての話。 -
Posted by ブクログ
再読。
初めて読んだのは10年くらい前で表題作の「無関係な死」以外は印象が薄かったのだけど、今回は他の作品もじわじわ楽しめた。
特に面白かったのは複雑な構造のビルが登場する「賭」、盲目の恋に警鐘を鳴らす(鳴らしてないか)「人魚伝」、ボクサーの孤独な戦いを描いた「時の崖」、そしてもちろん表題作の「無関係な死」。
安部公房さんの小説に私はいいように振り回されてしまう。
モグラ叩きやらワニワニパニックやらのようにあっちかと思ったらこっち、その次の瞬間にはまた別のところにいる。
その混乱が不思議と癖になる。
短編は混乱の度合い(?)がちょうど良い気がする。
これが長編になるとまた大変で、以前は読み切れなかった。
またチャレンジしてみよう。 -
Posted by ブクログ
安倍公房による、1977年の長編小説。
社会には催淫表象が遍在している。文化的・欺瞞的意匠を施していても、一皮剥けばそこには性的欲望の蠢きがその生々しい貌を出す。現代社会を駆動させているものは、およそすべて「性」に根源をもっているのであるかのように。
"それにしても、べらぼうな音の氾濫だった。追従、怒り、不満、嘲笑、ほのめかし、ねたみ、ののしり・・・・・・そしてそれらのすべてにちょっぴりずつ滲み込んでいる猥褻さ。"
人間は、その剥き出しの性的欲望、セックスの無間地獄に落ち込んでいくしかないのか。ところでいま「地獄」と表現したが、そもそもそれは本当に「地獄」だろうか。「セックスは現代人に残された最後のオアシスだ」とは20世紀アメリカの作家ヘンリー・ミラーの言である。性の「地獄」に溺れていられるうちは、まだ幸福なのではないか。堕ちていく「地獄」が未だ仮構されている限りに於いて。性愛の幻想に目眩まされている振りをしていられる限りに於いて。その時には、未だ帰る場所が在る(ことになっている)のだ。
人間とは、常にそこから(そこがどこであれ、そこから)引き剥がされる以外にない存在ではないか。とするならば、性そのものにさえ倦怠を覚えてしまえる存在ではないか。記号化・パターン化された性的意匠の順列・組合せは、所詮は有限なのだ。いつか、性による精神の暗い躍動すら存在しなくなり、ただただ形式を反復するだけの、自己完結的な自動人形のようになる日が来ないと云い切れるか。機械的な運動とそれに対する生理的反応以上ではなくなってしまう日が来ないと云い切れるか。今日の快楽が昨日の刺激の残夢となる日が来ないと云い切れるか。ヘンリー・ミラーに従うならば、性への倦怠こそ、日常性という受難の始まりではないか。そして倦怠は終わらない。
地獄も、追われれば、ユートピアだ。