安部公房のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
安部公房の戯曲集。
□ 「友達」(1967年)
トモダチ、つながり、共有、共生、協働、共同体。切断=孤独からの疎外、接続=関係への疎外。現代はコミュニケーションに包囲されている。あたかも、「断片化」され尽くした諸個人がその失われた「全体性」を回復する回路であるかのような顔をして、そしてそれは結局のところ資本にとって都合のいい消費に結びつけられ「断片化」が一層推し進められるだけでしかないにも関わらず。コミュニケーションの総体は個々人の境界接面を曖昧にし、一旦緩急あれば途端に個人を超えた匿名多数の意志を暴力的に体現しはじめるだろう。それは匿名多数といいながら、必ず特定の政治性を帯びている。コミュニケーションの全体主義。無意識のうちに自分自身がこの全体主義に参画し加担してしまっているかもしれない、という自己懐疑で自分の良識を確認しようとしている、当の者たちによって担われている全体主義。
いま痛切に足りないのは、無表象のなかで独りで在ることではないか。「全体性」だとか「断片化」だとかいう観念それ自体が、コミュニケーションの喧騒の中でコミュニケーションにとっての自己都合で捏造されたものでしかない、と気づかされるかもしれない。孤独は生の根源的無意味を露わにする。それに耐えられない者たちが、その空虚を補填しようと、コミュニケーションのなかで猥雑な物語を喋りだす。
「早く分ってほしいな。孤独が、どんなに嫌なものか……私たちと一緒にいることがどんなに倖せなことか……」(p36)。
「ねえ、ぼくはこうして、ちゃんと戻って来たんだよ、みんなのところに……お互いに信じ合えるということが、どんなに素晴らしいことか……信じ合った者どうしで、暮すことが、どんなに倖せなことか……あの他人ばっかりの恐ろしい世界から戻って来て、痛いほど思い知らされたんだ……みんなを裏切るだなんて、よしてくれよ。こうして手をとり合っていることが、ぼくにとっては、もはや唯一の生きがいなんだからね」(p47)。
□ 「鞄」(1969年)
情況の中心にある空虚、その空虚によって統御されている情況。
□ 「棒になった男」(1969年)
機能を超えた「精神」だとか「人間性」だとか「全体性」だとかいう観念を、素朴に信じていた人間、あるいは懐疑のうちにも信じようとしていた人間が、ついに自己の内なる根源的無意味に、自己自身が実は何者でもないという事態に、則ち実存に、覚醒してしまった姿か。そこではもはや「断片化」という自己認識自体が不可能であるかのような。
「人間の、見せかけの形に、つい迷わされてしまうんだな。しかし、棒はもともと、生きている時から棒だったってことが分ってしまえば……」(p180)。
「おれは、一度だって、満足だったことなんぞありゃしないぞ。しかし、いったい、棒以外の何になればいいって言うんだ。この世で、確実に拾ってもらえるものと言やあ、けっきょく棒だけじゃないか!」(p181)。
「(進み出て、客席をぐるりと指さし)見たまえ、君をとりまく、この棒の森……もっと違った棒にはなりたくても、棒以外の何かになりたいなどとは、一度も思ったことのない、この罪なき人々……裁かれることもなければ、罰せられる気づかいもない、棒仲間……」(p182)。 -
Posted by ブクログ
R62号の最後の衝撃。脳の回路、生産性、重役。頭取は何に感動していたのか?
戦後の労働や生活環境といった時代を感じる。そしてその奥に隠された寓話や教訓。設定も落ちもユニークで、読み進めてしまう。
「パニック」パニック商事。Kの痕跡。三日間の放浪。
「犬」人間くさい犬。「妻の顔」妻と犬のいれかわり?
「変形の記録」一番教訓や話の落とし所がつかみにくかった話。戦争のすなぼこり?
「死んだ娘が歌った……」掃除の授業、お弁当詰めの授業、心のイワシ、朝まで遊ぶ娘。工女の哀れさ。
「盲腸」羊の盲腸。
「人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち」
「鍵」盲目の娘と疑い深い親父。
「鏡と呼子」田舎小学校ながくて良く分からなかった
「鉛の卵」800万年後の人類。 -
Posted by ブクログ
とあるさびれた田舎町で、共同体から疎外されルサンチマンを抱えたはぐれものたちが、地熱発電所の建設を利用してアナーキーなユートピアを目指す「革命」を企てるが、町の支配者たちに発電計画を横取りされて瓦解・挫折するまでをユーモラスかつアイロニカルに描く。
描かれる「革命」が政治的な陰謀というより、1人の夢想家の大博打に町が巻き込まれていく形で、「革命」の挫折の要因が権力の弾圧や革命勢力の内紛のようなありがちなものではなく、地方政治における諸勢力間の陰湿でせこいなれ合いや、法的な許認可や土地取引の経済的な駆け引きの敗北であるのが、単なる反ユートピア政治小説と一線を画している。初出は1950年代と古いが、ある意味、原発や大型レジャー施設の誘致に翻弄される地方の姿を予見したとも解釈でき、すこぶる現代性をもった小説である。 -
Posted by ブクログ
表現力に圧倒される。時代背景も人物背景も馴染みがないはずなのに、自分がそこにいるような手触り感。特に二回目の団地の描写はすごい。あ、この感じ前にもあったな、懐かしい、主人公に自分が重なる。
内容は難解。さらっと読みしただけでは喪失部分が唐突で意味がわからない。一体どういう心情でそういうことになったの?これまでの丁寧な説明は逆になんだったの?と。でももしかしてそれも表現効果の一部なのだろうか。メビウスの輪(とはよく言ったものです)の裏側は表と近しい位置にありながら全く繋がらない世界です、というのをその唐突さで表している?
主人公は弟、田代君、仕事、彼の妻からの依頼、と次々に目的を見失い(これが燃えつきた地図か)、存在価値を失う。おそらく彼も同じように行方不明になったのだろう。田代君はその孤独の怖さに耐え切れず自殺した。主人公はどうするのだろう。自分の地図を、他人に指図されない自分の道を選ぼうとするラストは明るいものに見えるが…。