安部公房のレビュー一覧
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とあるさびれた田舎町で、共同体から疎外されルサンチマンを抱えたはぐれものたちが、地熱発電所の建設を利用してアナーキーなユートピアを目指す「革命」を企てるが、町の支配者たちに発電計画を横取りされて瓦解・挫折するまでをユーモラスかつアイロニカルに描く。
描かれる「革命」が政治的な陰謀というより、1人の夢想家の大博打に町が巻き込まれていく形で、「革命」の挫折の要因が権力の弾圧や革命勢力の内紛のようなありがちなものではなく、地方政治における諸勢力間の陰湿でせこいなれ合いや、法的な許認可や土地取引の経済的な駆け引きの敗北であるのが、単なる反ユートピア政治小説と一線を画している。初出は1950年代と -
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表現力に圧倒される。時代背景も人物背景も馴染みがないはずなのに、自分がそこにいるような手触り感。特に二回目の団地の描写はすごい。あ、この感じ前にもあったな、懐かしい、主人公に自分が重なる。
内容は難解。さらっと読みしただけでは喪失部分が唐突で意味がわからない。一体どういう心情でそういうことになったの?これまでの丁寧な説明は逆になんだったの?と。でももしかしてそれも表現効果の一部なのだろうか。メビウスの輪(とはよく言ったものです)の裏側は表と近しい位置にありながら全く繋がらない世界です、というのをその唐突さで表している?
主人公は弟、田代君、仕事、彼の妻からの依頼、と次々に目的を見失い(これ -
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安部公房(1924-1993)の長編小説、1967年。
安部公房の小説の主題として、しばしば「自己喪失」ということが云われる。では逆に、「自己」が「自己」を「獲得」しているのはどのような情況か。それは、「世界」の内で何者かとして在ることができるとき。則ち、「世界」が"存在の秩序(ontic logos)"として一つの安定した価値体系を成し、その内部において「自己」が意味を付与され在るべき場所に位置づけられているとき。しかし、近代以降、「自己」の存在根拠を基礎づけようとするのは当の「自己」自身となる。このような【超越論的】機制から次のことが帰結する。
□ 自己喪失は不可避 -
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私は長編が好みなのだが、この短編集はそれはそれで面白かった。ドナルド・キーンさんの解説に同意。カフカと比較されることが多いし、結末は大抵不幸なのだが、なぜかカフカ作品に漂う救われなさは低め。
それと、作者本人しか分からないことをほじくったり、カフカの影響のあるなしの論議にとらわれず、楽しめばいいに烈しく同意。読書会なるものにも参加し、夏目漱石の「こころ」については解説本なるものを読んでしまったが、その経験を経て、あまり重要ではないと思った。
夢十夜もゆりがなにを意味するかを考えるより、私はその幻想的な光景を頭に描き出す方が好きだ。
でも、この短編集は人間誰でもが持つ性情を大げさに描き出す