あらすじ
平凡な男の部屋に闖入して来た9人の家族。善意に満ちた笑顔で隣人愛を唱え続ける彼らの真意とは? どす黒い笑いの中から他者との関係を暴き出す傑作「友達」〈改訂版〉(谷崎潤一郎賞受賞)。日常に潜む底知れぬ裂け目を三つの奇妙なエピソードで構成した「棒になった男」。激動の幕末を生きた人物の歴史的評価に新たな光を当てた「榎本武揚」。斬新な感性で“現代”を鋭く照射する、著者の代表的戯曲3編を収録。(解説・中野孝次)
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友達だけ読み終わった。めっちゃ怖い。よくわからない善意みたいなのをゴリゴリ押し付けてくる感じ。
自分の近くにこういうのある気がする。世間体かな?
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人類みな友達、この言葉で済ませたい。飄々とした人たちが、やらかしちゃう物語、「友達」。「棒になった男」はいきなり降ってくるとこからナイス。文学的幅を示した、才能あふれる作者の戯曲。他者と自己の関係を恐ろしくも滑稽に描いた、日本昔話的表現にジーンっ。
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安部公房は初めてなのだけど…、
戯曲は基本嫌いなのだけど…、
しみじみ面白かった…。
久々の充実感。
最近読んでいた本って軽かったんだなーと。
すごい演劇的なストーリーだと思う。
当たり前だけど。
その全体の理不尽さがすごい演劇っぽい。
表題の『友達』は、
ちょっと私が不得意なタイプの理不尽物語でした。
私にはちょっと辛い。
そして怖い。
でもこの世界観。
他の安部公房を読んでみたい。
全作品素晴らしいのですが、
私は『棒になった男』が一番好きです。
収録作品
・友達
・棒になった男
・榎本武揚
Posted by ブクログ
[感想]
『友達』のなんだかわからない世界観に強引に引き込んでいく安部公房の描写力、会話力がすごい。
『棒になった男』の棒とは何か?観客に向けて棒の森と言っているので、現代社会に生きる人々=棒と言っているのか、決まりきった考え方で生き死んでいく人々のことを棒と言っているのか様々な考察ができる作品なっていた。
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安部公房さんの本はこれが初めて。素人ながら、簡単な感想を述べたいと思う。
まず『友達』について。
ページをめくるたびにゾッとするような善意の押し付け。主人公の男の話は誰にも信じてもらえず、ただ孤独であることを許されない様子が非常に気味悪く、滑稽でもあった。
「私たち、友達でしょ?」
「誰かと一緒にいた方が幸せに決まってる」
それはそう、それはそうなのだが。
人は、少なくとも自分は、孤独である事よりもそれをまざまざと見せつけられたり、それが許されないことの方が辛い。押し付けられる善意はむしろ迷惑に感じてしまう。
しかし、実際はその迷惑さは伝わらないことが多いのではないか。
親切には変わりないのが、むしろ厄介なことなのかもしれないし、では全く放置されれば良いのかというと、そうでもない。難しいなぁ。
次に『棒になった男』について。
突然棒になってしまった男、新宿。街。
平凡な日常からの乖離、疎外。自分がこの自然から切り離され、ふらふらと彷徨している感じ。
上手く説明は出来ないが、とにかくこの非日常性の雰囲気が安部公房さん独特のものなのだろうなと感じた。
『榎本武揚』も良かった。最初あまりにボロクソに言われていて少し笑ってしまったが。
ボクシング、鞄の話はもっとよく分からなかったが、何回も目を通してみるとまた違った感想が出てくるのかもしれない。
Posted by ブクログ
ノーベル文学賞にもっとも近かった作家
安部公房さんの初読み「友達」ある日一人暮らしの男の部屋に見知らぬ男女9人の家族が押しかけて居座る。
「棒になった男」ビル屋上から子供の目の前で
飛び降りた中年男が棒もなり落下し男女の地獄調査官による検分を受ける。発想がぶっ飛んでいて不条理な戯曲は海外でも評価が高く米芸術科学アカデミー会員にも。
Posted by ブクログ
難しい。。
メッセージがあるとは思うがはっきり分からない。
映画「マルホランドドライブ」を初めて見たとき以来の謎を感じている。
全体を通して大量消費に基づく、資本主義への皮肉を描いているのか?
第一景 鞄
女と客が資本者で鞄は労働者のメタファーなのか?
鞄の中身が虫だとしても殺虫剤で軽く殺そうとしている描写。虫は労働者の心、人格のメタファーで資本者にとっては取るに足りない、なんの哀れみもなく殺せる、むしろ嫌なモノ。ということを描いている?
第二景 時の崖
ボクサーはサラリーマンのメタファー、
階級は社内の出世のメタファーと考えた。
とすると、ボクサーがランクを上げる際に何人ものボクサーを潰したこと、これからも潰していかないといけない事を考えている描写。
また、チャンピオンになったとしても落ちる時の崖がいちばん急な崖との描写。
これらからは出世競争への皮肉を感じた。
第3景 棒になった男
見た目は違っても98.4%の人は資本者によって使われるしかないモノに過ぎないというメッセージと感じた。
※「」内は直近で読んだ「暇と退屈の倫理学」を参考にした。
以下は印象に残ったフレーズ
「俺は1度だって満足だったことなんぞありゃしないぞ。しかしいったい棒以外の何になればいいって言うんだ。この世で確実に拾ってもらえるものといや結局、棒だけじゃないか!」
「もし体のどこかが痒くなりでもしたらどうしよう棒が自分で自分の背中を掻くなんてゲートができっこないからねでも案ずる事は無いのですあなたは一人ぼっちでは無いのですみたまえ君を取り巻くこの棒の森もっと違った棒になりたくても|以外の何かになりたいなどとは1度も思ったことのないこの罪なき人々裁かれることもなければ罰せられる気遣いもない棒仲間」
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戯曲3編を収録。表題作のひとつ「友達」は限りなく不気味だ。ある日突然ひとつの家族が自分の家に押し入ってくる。“隣人愛”を説く彼らは自分たちが正しいと信じて疑わないようなそぶりで主人公を追い詰めていく。是非とも舞台で見たい作品だ。「棒になった男」は小説という体で読んで見たい作品。2013/249
Posted by ブクログ
「友達」怖し。
非現実世界の中にいるようでいて、そこには確実に現実世界の様相が多分に含まれており、
序盤では可笑しさに機能していたユーモアも、
終盤に差し掛かるにつれ徐々に恐怖感を助長し、不安をも煽る事に。
父「一般的に狂人は自分の事を正気だと言い張るものらしいじゃないですか」
…一家の「善意」に戦慄が走った。
Posted by ブクログ
「友達」
面白かった。小説形式でやってもらいたかったな。友達一家の浮かべる「親切な笑顔」は、はたして…。二女の行動から察するに、武器としての笑顔なんだろな。あの一家はわざとやってたはず。
世間の繋がりがバラバラになった現代の都会人は、病気なのだろうか。孤独は弱さなのだろうか。
覆いかぶさってくるしがらみこそが人類の病巣のような気がする。
「棒になった男」
鞄、時の崖、棒になった男の三作。「鞄」は「家」の変形版。「時の崖」はそのままで、「棒になった男」は同名の短編を改編した戯曲。
鞄、くたびれたおっさんであることがとってもユーモラス。そのおっさんを挟んだ女二人のやり取りが笑いを誘う。
時の崖、あっと言う間に崩れていく。
棒になった男、小説形式より分かりやすかった。大量に生産されていく、汎用性の高い棒、優秀につまんない棒。でも男の子にとっては、大事な棒。
「榎本武揚」
日本史に疎いのでノーコメントで…。
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安部公房の作品は変だ。読み進めていくうちに迷子になる。ちゃんと舗装された道路を通ったはずなのに。
『友達』の展開は訳が分からない。それなのに納得してしまう。そして、そら恐ろしくなる。闖入した一家が、例えばこんな論理で説得してくるのだ。
"兄弟は他人の始まりっていうじゃないか。つまり、他人をさかのぼって行けば兄弟になるということでもある。"(19頁、『友達』より)。
これを劇場で見た観客は何を思っただろうか?
『榎本武揚』は、安部公房先生にしては珍しい歴史・人物モノである。とはいえ展開がシュールなのは変わらない。幕末ファンかつSF好きには興味深い一品なのではないだろうか。
Posted by ブクログ
安部公房の戯曲集を初めて読んだけれど、やっぱり安部公房であって、現実の中の非現実、日常の隣にある非日常に誘う作品です。このなんともいえない不思議な世界観にいつも感嘆するばかり。素敵です
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安部公房の戯曲集。
表題作『友達』は非現実的な世界観が、主人公を通じて日常的なものへと錯覚させられる、読み進めていくうちに思わず引き込まれていく作品でした。
日本社会において、個性や個人という考え方を維持することが難しく、全体主義、連帯責任というものに押さえつけられてしまうという現状を表現したものであり、これは現在の日本社会でも通じるとことだと思った。
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「友達」「棒になった男」「榎本武揚」の三つの戯曲集。
戯曲ははじめて読んだけど、会話形式なのでサクサク読めて楽しめた。相変わらずブラックな笑いのセンスが抜群の「友達」がお気に入り。
Posted by ブクログ
ほら、あるでしょ。
クイズに不正解だったお笑い芸人が、突き落とされて小麦粉まみれになるやつ。
あと、少しズレちゃうんだけど、その時自分は面白く無いのにTVの向こうではわざとらしい笑い声がゲラゲラ入ってて、何かから取り残されちゃったなーって感覚。
その傍観者でいたはずの自分てのも、その実当事者であったりするわけで、知らず知らずに小麦粉まみれの芸人やわざとらしいゲラゲラになってる可能性のが高いんだよね。
そんな意思は無くても。
そこがなんか怖くて腹が立つ。
Posted by ブクログ
またまた安部公房の「有り得そう」と錯覚させてくれる作品。特にこれは戯曲だから、変にリアルなの!
いくつか作品が収録されているけど、私は「友達」が1番好き。
無茶苦茶な家族がいい具合に有り得ない。でもだんだん、本当にこの家族が存在するような錯覚に陥る。まさに安部公房の魔法。
実際に上演されるなら絶対観てみたいな。
Posted by ブクログ
他の作品とは違って、台本をテキスト化したものなのでちょっと特殊な文体です。この事によって、普通は不可能である、人物が同時に別行動をするという表現が可能なので、短文でありながらも人物の表情や仕草を捉える事が出来る。ちょっと不思議な感じです。
<友達>ある一人暮らしの男の部屋に、見知らぬ9人の家族が上がり込んでくる。出ていけと迫る男に堂々と、自分達がどれだけ大切な存在か、貴方が必要としているかと説き、訳も分からぬまま住み着かれる。大衆とは世間とは、ただの他人の集まりでしかないという恐怖を描いた作品。
<鞄>ある新婚の女性が、悩みを友人に打ち明けるが.........それはとてつもなく大きな悩みでもあり、そうでもない気もする悩みでもあり・・・・・・実際にこんな鞄があったら、やっぱり気になりながらも開けれないだろうなぁ。この話のモナリザの詩が凄く好き。
<時の崖><棒になった男>は他の短編にも掲載されていますが、『棒になった男(棒)』はやはり好きですね。人間ってやっぱりそういうものなのかな〜と、ふわふわと頭の中で浮かびます。
Posted by ブクログ
ピースの又吉さんが紹介していたり、至る所で安部公房の名を目にするから読んでみた。
安部公房をみんなが天才と言いたくなる気持ちはわかった。
いわゆる戯曲というものを初めて読んだ。いい経験
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安部公房の戯曲集。
□ 「友達」(1967年)
トモダチ、つながり、共有、共生、協働、共同体。切断=孤独からの疎外、接続=関係への疎外。現代はコミュニケーションに包囲されている。あたかも、「断片化」され尽くした諸個人がその失われた「全体性」を回復する回路であるかのような顔をして、そしてそれは結局のところ資本にとって都合のいい消費に結びつけられ「断片化」が一層推し進められるだけでしかないにも関わらず。コミュニケーションの総体は個々人の境界接面を曖昧にし、一旦緩急あれば途端に個人を超えた匿名多数の意志を暴力的に体現しはじめるだろう。それは匿名多数といいながら、必ず特定の政治性を帯びている。コミュニケーションの全体主義。無意識のうちに自分自身がこの全体主義に参画し加担してしまっているかもしれない、という自己懐疑で自分の良識を確認しようとしている、当の者たちによって担われている全体主義。
いま痛切に足りないのは、無表象のなかで独りで在ることではないか。「全体性」だとか「断片化」だとかいう観念それ自体が、コミュニケーションの喧騒の中でコミュニケーションにとっての自己都合で捏造されたものでしかない、と気づかされるかもしれない。孤独は生の根源的無意味を露わにする。それに耐えられない者たちが、その空虚を補填しようと、コミュニケーションのなかで猥雑な物語を喋りだす。
「早く分ってほしいな。孤独が、どんなに嫌なものか……私たちと一緒にいることがどんなに倖せなことか……」(p36)。
「ねえ、ぼくはこうして、ちゃんと戻って来たんだよ、みんなのところに……お互いに信じ合えるということが、どんなに素晴らしいことか……信じ合った者どうしで、暮すことが、どんなに倖せなことか……あの他人ばっかりの恐ろしい世界から戻って来て、痛いほど思い知らされたんだ……みんなを裏切るだなんて、よしてくれよ。こうして手をとり合っていることが、ぼくにとっては、もはや唯一の生きがいなんだからね」(p47)。
□ 「鞄」(1969年)
情況の中心にある空虚、その空虚によって統御されている情況。
□ 「棒になった男」(1969年)
機能を超えた「精神」だとか「人間性」だとか「全体性」だとかいう観念を、素朴に信じていた人間、あるいは懐疑のうちにも信じようとしていた人間が、ついに自己の内なる根源的無意味に、自己自身が実は何者でもないという事態に、則ち実存に、覚醒してしまった姿か。そこではもはや「断片化」という自己認識自体が不可能であるかのような。
「人間の、見せかけの形に、つい迷わされてしまうんだな。しかし、棒はもともと、生きている時から棒だったってことが分ってしまえば……」(p180)。
「おれは、一度だって、満足だったことなんぞありゃしないぞ。しかし、いったい、棒以外の何になればいいって言うんだ。この世で、確実に拾ってもらえるものと言やあ、けっきょく棒だけじゃないか!」(p181)。
「(進み出て、客席をぐるりと指さし)見たまえ、君をとりまく、この棒の森……もっと違った棒にはなりたくても、棒以外の何かになりたいなどとは、一度も思ったことのない、この罪なき人々……裁かれることもなければ、罰せられる気づかいもない、棒仲間……」(p182)。
Posted by ブクログ
『友達』は友達とは何だ、どこからが友達で何が知り合いで…なんて思う。家族は家族が演じねばならないと感じる。
『棒になった男』は短編としては面白い。けれどこれを(実際に上演するとして)一回にまとめて、この順で上演する必要性がまだわからない。一つずつの面白さは存在するのに。
Posted by ブクログ
「安部公房だから」とちょっと気合いを入れて読み始めたのだけど、地の文がないためか案外さらさらと読めた。
『友達』は実際に起こっても不思議がないような変な説得力があった。
『棒になった男』のボクシングシーンは赤子に読み聞かせた。
『榎本武揚』は俺にもうちょっとレディネスがあれば楽しめたのかも。
Posted by ブクログ
おすすめされて読んだ本。
どれも不気味で、不条理で、それが面白くもあり。
全5篇の戯曲形式のお話。
表題作の「友達」は侵入してくる家族の理不尽な親切心が
とても不気味。彼らが話す言葉は一見正論。
だからこそ反論する余地がなく、受け入れさせられてしまう。
それは「棒になった男」内の「鞄」も同様。
登場人物たちのココロの有り様、揺れ動きの様が
いつかどこかで見たような、感じたようなことがあるのだろう。
それが不快感に繋がっているのかな?
「棒になった男」も何故突然に棒に??と疑問が付きまとう。
推測するしかないのだけれども、だからこそ地獄の男の
最後の台詞にゾクッとさせられた。
「友達」「棒になった男」ともに同じく新潮文庫から
出ている「無関係な死・時の崖」に小説バージョンで
収録されているらしい。
いつかこちらも読んでみよう。
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古い読書記録より。
象徴性が全面に出ている作品。中学時代、「モチーフを読みとく」ことの快感を教えてくれた一作。この作品をするする読みといたとき、物語をばらばらにしてふわけできた痺れのようなものが背筋をかけていったことをいまも覚えている。
別話戯曲のほうも読んでみたけれど、劇場での展開が目に浮かぶようだった。普段戯曲を読むことがないのでいい体験だった。
Posted by ブクログ
『友達』『棒になった男』『榎本武揚』の三部作からなる、安部公房の戯曲集。
安部公房の戯曲集を読んだのは初めてですが、安部公房の地の文が好きな自分としては、いまひとつ物足りない。
おそらく、セリフと簡単な舞台指定しかなされていない分、想像力が必要とされてくるからなんでしょうね。
あらすじを読んで、『友達』にかなり期待をしていたのですが、ぱっと読んだ時点では理解が追いつきませんでした。
もちろん、安部公房作品を読んだ時に理解できるなんてことは普段無いんですが、字を追うだけで終わってしまう、という点で。
舞台で観たら観たで、きっと全く違う印象で面白かったんでしょうが、想像力の足りない自分に残念です。
あと、安部公房の作品の中で『榎本武揚』という歴史上の人物をモデルにした戯曲があったことが、自分の中では意外でした。
Posted by ブクログ
「友達」「棒になった男」「榎本武揚」の三作の戯曲が収録されています。
表題作である「友達」は、『水中都市・デンドロカカリヤ』の「闖入者」が原型であり、「棒になった男」は『R62号の発明・鉛の卵』の「棒」が原型のようです。
いずれも以前に読んでいるので、比較しながら読みました。
戯曲のために登場人物の数などを一部変えてありますが、大筋は同じです。
やっぱり、「友達」は理不尽で好きです。
いや、嫌いなんだけど、好きです。
「榎本武揚」はそんなに面白くなかった・・・というのが私の印象です。実際に劇で見たら全然違うと思います。
読み手の問題ですが、登場人物が多すぎて、途中から混乱してしまいましたw
Posted by ブクログ
戯曲3編集。相変わらず不思議な世界が繰り広げられている。「友達」に登場する謎の一家にはイライラしか感じられなかったが、もうそれは惹き込まれてしまった後の話。人間が理想として求める孤独とは何か?人間が美しいとする隣人愛とは何か?果たして、人間は1人では本当に生きていけないのか?社会の中での人間生活における「個」と「集団」という概念を、まったく斬新な視点から強く訴えかける作品。「棒になった男」は高校の現代文の授業で読んで意味不明だったので再チャレンジしてみたが、やっぱり難しい。でも戯曲化された文章だったので少し読みやすかった。これは是非、舞台を観てみたい!ありえない現実。非常識な常識。もっともっと著書を読んでいきたい。