手塚治虫さん、結婚して子供3人居たけど、旅は一人旅派で、家族置いて旅してたらしい。わかる。旅一緒に行きたいって言われるの本音では嫌だと思ってる。誰か着いてきたら、探究的な旅が出来なくなるから。
松谷 孝征
(まつたに たかゆき、1944年9月24日 - )は、日本の漫画編集者、アニメーションプロデューサー、実業家。神奈川県横浜市出身。株式会社手塚プロダクション代表取締役社長。1967年に中央大学法学部を卒業後、学生時代からの劇団を続けていたが頓挫し、一時期ホームレス状態になる。その後、新聞販売店や訪問販売会社など職を転々とし、先輩のつてで実業之日本社に入社して『漫画サンデー』編集部に配属され、谷岡ヤスジ、小島功、鈴木義司、手塚治虫らの担当編集者となる[1]。1973年4月、手塚プロダクションに入社し、手塚治虫のマネージャーを務める。1985年4月より同社代表取締役社長に就任。手塚治虫原作のアニメのプロデューサーを数多く手がける。2003年5月、日本動画協会理事長に就任し、2009年5月より同協会名誉理事となる。2010年6月からは映像産業振興機構理事長も務める[2]。2017年11月、藍綬褒章を受章[3]。2018年3月、第12回声優アワード特別賞を受賞[4]。
「「漫画が高く評価され、認められていたから続けられた」と思われる人がいるとしたら、それは誤解です。 人は認められ、賞賛されると嬉しくなります。成功の手応えに自信を抱きます。これは決して悪いことではありませんが、成功の後にもたらされる満足感は、その人の成長をストップさせてしまうこともあります。「自分はこれでいい。完璧だ」と思ったとたん、それ以上努力をしなくなるからです。 その点、手塚は貪欲でした。いくら褒められ、讃えられても、満足したり、地位にあぐらをかくことはありませんでした。何よりも、漫画が文化の端にも置かれないような状況を肌で感じ、どうにか変えたいと思っていました。 だから「次の作品、次の作品」と追い求め、描き続けられたのでしょう。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
「しかしこれは、せいぜい 20年ほど前からの話。漫画への偏見がようやく消え始めたのは、手塚が亡くなった頃からでした。手塚の死を悼み、その作品を高く評価した新聞も、かつては漫画に対して否定的だったのです。「漫画は子どもたちに悪影響を与える俗悪なものだ」 昭和の時代には、こんな意見が一般的でした。『ふしぎなメルモ』の連載が始まったのは 1970年ですが、当時は「なんていやらしい。子どもの害になる」と非難されました。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
「『ふしぎなメルモ』のテーマの一つは生と性、人間にとって大切なものです。 医学を学んだ者として、また、子どもたちへの性教育の意味も込めて描いていた手塚にとっては、いわれのない批判だったことでしょう。天才ゆえに時代がそれに追いつかなかったのかもしれませんが、本人は鬱屈します。「なんでわかってくれないんだ。漫画があまりにも理解されていない」 評価されない、認められないという悔しさは、手塚の中で根深かったと思います。しかし、このコンプレックスが、挑戦を続ける原動力となったのでしょう。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
「手塚は、子どもたちにメッセージを伝えるには、漫画ほどふさわしいものはないということを、誰よりも理解していたのです。そして漫画が文化として認められるための作品を精力的に描き続けるかたわらで、発言・行動もしていました。「誰も理解してくれない」と閉じこもるのではなく、みずから歩み寄り、漫画表現のすばらしさを、作品を通して訴え続けました。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
「 漫画家には、物語をつくったり描いたりするのは得意でも、話をするのは苦手なタイプの先生もいます。手塚は「自分が出演しなければ」と思ったのでしょう。芸術、医学、音楽などあらゆる知識を備えていた手塚は、話も上手でしたから。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
「わかってもらいたい、認めてもらいたいなら、声をあげる。 手塚はこの姿勢を生涯貫きました。それは今、大きなうねりとなっています。 誰もわかってくれなくても、誰も認めてくれなくても、自分を信じて行動し続ける。それが自信につながるのではないでしょうか。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
しかし、一つの分野だけで勉強をしていては世界が広がりません。世界を広げなければ、人を魅了するものは生み出せません。 だから手塚は、「いい映画をたくさん観なさい。いい小説をたくさん読みなさい。いい音楽をたくさん聴きなさい」と後輩たちに言ったのではないでしょうか。 子ども時代の手塚は昆虫採集に没頭し、長じては医学の世界で勉強をしています。また、家にあったたくさんの文学作品やアニメを観て育ちました。一見、漫画とは関係ないようでも、これらの知識は手塚作品に存分に生かされています。 手塚はこんなことも言っていました。 「私の頭はなにもないんです。最初はまったく空白です。いかなる老獪なプロといえども、四六時中籠ってれば、なに一つ生み出せやしませんよ、情報がなければ」 (『想像力の冒険』理論社より) 「マンガのストーリーやヒントは、ぼくの頭のなかだけでは出てきませんから、人に会ったり、本を読んだり、映画を観たり、つまり外に出ないとダメなんですね」 (「潮」潮出版社 1977年6月号より) その言葉の通り、寸暇を惜しんで映画や芝居を観に行っていたし、音楽も聴きに行ったし、レコードやテレビは執筆中にしょっちゅう流していました。とくに、話題の映画やイベントをいち早く知りたがっていた姿を、よく憶えています。
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
「手塚は最初、「なぜこんなに人気があるんだ」と見始めます。 あるときからは、「次のところでお客は絶対に笑うぞ」と予想したり、「ああ、みんな泣いているな」と確認したりと、観客を観察するために映画館に足を運んでもいたそうです。 一つの映画を繰り返し観るという〝知識の深掘り(?)〟も、手塚流の勉強だったのです。 手塚は、「漫画家たるもの、広い視野をもって作品づくりに向かってほしい」と願っていたのだと思います。 漫画の世界は早熟な才能がひしめくところで、多くは 10代でデビューします。作品がヒットすれば非常に忙しくなり、作業につぐ作業で飛ぶように日々が過ぎていきます。つまり、外の情報を得られない状況に陥ってしまうこともある仕事だということです。 スキルの追究は尊いことですが、偏った人間になることも考えられます。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
「「なんとしても行きたい」 イースター島は、多忙を極めた手塚治虫が強い興味をもって旅した場所です。講演や文化交流のためにヨーロッパ、南米、国交正常化となって間もない中国などもひんぱんに訪れていますが、イースター島は純然たる興味が発端で旅をしたうちの一つでした。 手塚がイースター島に行っているとき、ある編集者は言いました。「先生は、イースター島で 3000ページぐらいのネタを仕込んで帰ってくるだろうな」 それは確かにあたっていて、いくつかの漫画作品、エッセイなどにさまざまな形で波及しています。「さぞかし膨大な取材ノートが残っているんでしょうね」と聞かれることもありますが、ありません。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
手塚治虫は速読の達人でもありました。 あれは京都で行われた医学会総会で講演する際のこと。 講演の少し前に「この資料とこの資料、買っておいてください」と頼まれました。私にはとても読めそうもない分厚い医学書が、3冊か4冊だったでしょうか。 連載原稿に追われ、新幹線の予定を何度も変更するようなスケジュールです。事前に読む時間など、まったくありません。私の机の上に積んだままの本を見て、「無駄だったかな」と思っていました。 ところが、それを手塚は、高田馬場から東京駅に向かう車で、凄まじい勢いで読んでいきました。ぺらぺらぺらぺらページをめくる音が聞こえ、車の中であらかた目を通してしまったようです。 自分の話に必要なところだけを拾っていったのかもしれませんが、その日行われた講演は、内容も根拠もしっかりとした見事なものだったそうです。 こうでなければ、生涯で15万ページの漫画、60タイトルのアニメをはじめとする膨大な作品を遺せなかったでしょう。
「手塚治虫は好奇心旺盛で、知識に貪欲。知らないもの、新しいものを進んで取り入れていました。事務所の近くで火事があったとき、現場より消防車のタラップの部分を観察する手塚の姿を目撃しました。メガネをちょっと上にあげて、熱心に。きっと、頭の中にすべて記憶していたのでしょう。その能力には舌を巻きます。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
「じっくり読んだり、調べたり、メモに残したりする時間がなくても、できることはあります。「忙しい」という言い訳で、人はいろいろなものをやり過ごすことができますが、手塚治虫は、それをしませんでした。「なんとしても行きたい」と思えば時間をやりくりして行くし、移動中の少しの時間でも、勉強をしたのです。 この習慣は、私たちにも、真似ができるように感じます。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
「亡くなる少し前には、悦子夫人も一緒にフランスや中国に行ったりしていましたが、基本的に旅行は手塚一人。 3人の子どもたちと手塚のご両親のお世話があったので、悦子夫人も忙しくて手塚に同行している暇はなかったと思います。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
「手塚は、とてつもないスピードで漫画を描くことで知られています。週刊連載で 20ページの場合、手の遅い漫画家なら、 1週間まるまるかかってしまうことだってあります。しかし手塚は、毎日 20ページ描いた月もありました。 通常、背景はアシスタントに指示して描いてもらいますが、『ユニコ』のような、手塚の頭の中にしかない作品世界のものだと、背景まで自分で描くこともありました。 これほど手早い手塚でも、 8時間で 20ページというのは、さすがにありえない話。それでも朝までには、通常の回と比べて何ら遜色のない、おもしろい作品ができてしまったのですから、驚きです。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
「手塚治虫にとって、漫画は仕事ではなく使命だったのではないか。 時折、そう思うことがあります。 1945年、手塚が 17歳のとき、太平洋戦争が終わりました。 住居のあった宝塚は空襲を受けなかったとはいえ、学徒動員で行っていた工場で空襲を受け、すぐそばで人や家畜が黒こげになった体験をしたそうです。公園、学校、映画館、親しんでいた日常が、一夜にして焼け野原になった衝撃。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
「手塚が新聞や雑誌に寄稿すると、担当者が聞いてくることが、時折ありました。 漫画以外の知識や見識も豊かな手塚治虫は、医学書の解説から軽妙なエッセイまで、文字原稿の依頼も数多くありました。 小説を書いている医師は何人もいますが、医師免許をもつ漫画家というのは今でも珍しいと思います。 専門的な医学の話がテーマだったりすると、手塚が医学博士でもあることを知っている担当者が、前述のような問い合わせをしてくるのです。医学博士のほうが、漫画家よりも権威があると思っての確認だったのかもしれません。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著
「大きなことを成し遂げて成功したい」 こんな望みを抱く人の中には、「成功」をお金ではかる人がいます。 確かに、お金は自分の成果をはかる一つの目安です。大金を稼ぎ、すばらしい家に住み、高価な時計や車、さらにクルーザーをもつというのは、ステータスでしょう。 手塚治虫にとっては、お金は成功のものさしではなかったようです。 無欲だったわけではありません。 アニメ制作には大金が必要ですし、私がマネージャーとなった1973年、手塚がかかわっていた株式会社手塚プロダクション、株式会社虫プロダクション、虫プロ商事株式会社のうち、後者の2社の経営が危ない状況にありました。 手塚は矢面に立って頑張りましたが、2社とも倒産し、借金を抱えこみました。自宅も手放すことになりました。毎日のように債権者が押しかけてくる、本当に大変な時期だったのです。 入社にあたり、手塚は私に言いました。 「アニメをやらなければ、手塚プロは大丈夫です。安心してください」 倒産と決まったら腹が据わり、「借金があっても、返せばいい」というある種の解放感があったのではないかと思います。漫画家としてではなく経営者、保証人として抱えなければならなかった資金繰りのストレスからも逃れられました。 だから次から次へと新しい作品が描けるようになったのだし、「自分が元気で漫画を描けば、お金なんかいくらでも稼げる」という自信もあったのでしょう。
「患者には高額の手術代を要求しながら、崖の上に建つ簡素な家をすみかとしていたブラック・ジャックは、お金やステータスにこだわらない手塚治虫と通じるところがあるのかもしれません。 手塚は、少なくとも、自分の価値を確かめるために、お金をものさしにはしませんでした。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著