阿部和重のレビュー一覧
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『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン! 』(リトルモア)にはかなり笑わせてもらったが、本書はそれよりやや真面目(!)に映画について論じている。読んでいて新鮮だったのは、ハリウッドの洗練されたスタジオ製作システムが崩壊し、映画の表現方法(あるいは技法)がリアリズムに近接するようになったとい「時代の流れ」について言及している部分だ。70年代に入ると、ルーカス、スピルバーグ、デ・パルマ、スコセッシといったニュー・ウェーヴが登場し、アクションを機軸とした展開の速い作品がもてはやされるようになるわけだが、たしかに僕らも「生々しい映像」が映画の醍醐味と考えるムキがあるように思う。そういう意味では、19
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「ぼく」という幻想。
この本は『インディヴィジュアル・ブロジェクション』と
『ニッポニアニッポン』という
阿部の代表作を1冊にまとめたものである。
感じたのは人称の問題だ。
それは「ぼく」という幻想のありかを
突き詰めていくことになる。
1作目のは主人公は自分をスパイだと思う映写技師だ。
「ぼく」という一人称で書かれることで、
本当にスパイなのか、
身の回りに危機が迫っているのかどうかが
曖昧なままで物語は進んでいく。
「ぼく」の実は平凡な日常が
Гスパイ行為」というフィルターを通すと、
非日常へ様変わりしていく。
本当の「ぼく」は何なのか?
存在自体が揺らいでいく。
これは今を生 -
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84点。特別な存在でありたいと願う主人公は、ひたすらに体を鍛え、思索にふける。主人公と語り手は同一人物なんだけど分裂し、ひたすらに自己言及しまくる。タイトルはトリュフォーの映画そのままだが、主人公が至るところはこの映画、もっといえばヨーロッパ映画的な主題に通低するもの。現実の虚構化、日常の演劇化、みたいな。
映画や小説を「泣けたわ」「笑えたわ」とシンプルな感想を吐くだけの一娯楽として、あるいはコミュニケーションのネタとして消費する昨今の潮流に逆らい、批判的精神を常にもちメッセージを見い出すべき、みたいな一昔前の教養主義的なお寒い考えで映画鑑賞や読書にひねもす明け暮れながらも、目的があるわけで -
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ネタバレ最近、海外文学の大作(と思っている本)を読み終えたので、分厚い本が欲しくなってきていた。
阿部和重の名前は前から知っていたものの、このシンセミアは「三部作」と銘打たれた一作目であり、一つの町を舞台とした重みのあるほんとのことなので、読んでみた
男たちの下劣さを下敷きにしながら、ちょっとばかし横道にそれやすい女たちを横に並べて様々な出来事を入り組ませた作品、であった。
どこがどうつながっていくのか、という期待感とともにぐいぐい読み進められた。
最終盤の主格たちが退場していく場面は一種のカタルシスでもある。
次作も見つけたら読んでみましょか。 -
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『グランド・フィナーレ』は、「視る」という行為を主題に据えながら、デジタルとアナログの対比を巧みに織り込んだ作品である。文章は驚くほど軽やかで読みやすい。しかし、その軽やかさの奥に不穏なものが潜んでいる。
とりわけ印象的なのは、少女への偏愛というモチーフがあからさまには語られない点だ。むしろ書かれないことによって、その欲望の存在がかえって不気味な輪郭を帯びてくる。視線のあり方そのものが問われる作品だからこそ、この抑制された描写は効果的に機能している。
一方で、第二部は最後まで可視化を拒むような構成を取る。読み終えてみると、最後まで視ることを欲した主人公は,本質的には何も変わっていないのでは -
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インターネットやSNSなどの発達による社会変化があまりに急激なので、2010〜12年に書かれた連載をまとめたこの本は、数十年も前のことのように見えてしまうが、実際は15年しか経っていない。福島第一原子力発電所の事故後は、今後原発政策は息詰まるだろう、国民は原発を認めないだろう、というのが一般的な認識だったことを改めて思い出した。
1951年マッカーサー「アメリカ人ドイツ人が45歳だとすると、日本人は12歳だ」と発言したとか。(だから原爆も落とせるわけだ) そこからスタートした連載で、日本人は成熟拒否で、小さいことが善で、マンガやアニメが世界に輸出されていて、というふうに、著者の思う日本人=