理論と実験は相互に進展していく。理論の高度化により,実験も高度化を余儀なくされたことで,理論を検証するためのデータが得られにくくなったのが現代物理学。データが得られない時に理論物理学者は理論の美を尤もらしさの基準とするようになってきたが,それは科学の方法としてどうなの?という問題提起をしているのがこの本。
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物理学の分野では,理論は数学でできている。私たちは何も,微分幾何学や次数付きリー代数を知らない人を怖がらせて遠ざけるために数学を使っているのではない。私たちは,愚かだから数学を使っているのだ。数学を使っていれば,私たちは正直でいられるーー数学は,私たちは,自分自身や他の研究者に嘘をつくのを防いでくれる。数学で間違うことはあり得ても,数学で嘘をつくことはできない。
理論物理学者としての私たちの任務は,既存の観測結果を記述するため,あるいは,実験の計画の指針となる予測を得るための数学を構築することだ。理論の構築に数学を使うことで,論理的な厳密さと内部一貫性を強化することができる。要するに数学は,理論の曖昧さをなくし,結果を再現可能にするのである。(pp.10-11)
物理学では,理論はほとんどつねに,アイデアを寄せ集めてゆるく縫い合わせただけのパッチワークのようなものとして始まる。理論を構築しようとして物理学者が作り出したぐちゃぐちゃしたものを整理し,その理論全体を導出できるようなすっきり整った一連の仮説を見つける仕事は,数理物理学を専門とする仲間に委ねられることが多い。数理物理学は,物理学の一分野というよりも数学の一分野である。(p.11)
論理的一貫性はどんな科学理論にもつねに必須だが,すべての科学分野が数学的モデルを使うのに適しているわけではない。数学ほど厳密な言語を使っても,データがその厳密さに見合わないなら意味がない。そして,物理学は,あらゆる科学分野のなかで最も単純な系を対象としているため,数学的モデルを使うのに理想的なのである。
物理学では,研究の対象は再現性が高い。実験系の条件や環境を制御する方法や,精度を損なうことなく無視できる効果はどれであるかが,物理学では比較的よくわかっている。たとえば,心理学実験における結果を再現するのは難しい。なぜなら,この世に同じ人間が二人存在することはないし,人間の持っている奇妙な性質の数々のうち,どれがその実験に関係しているのかがわかっていることなどめったにないからだ。しかし,そのような問題は物理学にはない。ヘリウム原子は空腹になったりしないし,曜日による機嫌の良し悪しもない。(p.13)
手ほどきを受けたことのない人には,たくさん並ぶ方程式は近づき難く見えるかもしれない。だが方程式の扱いは,教育と習慣の問題だ。(p.13)
だが,学んだこともある。それは,科学的な理論は反証可能でなければならないというカール•ポパーの説は,とうの昔に時代遅れになっていたということだ。これはわたしにはうれしい知らせだ。というのもこの哲学の説は,レトリックの手立てとして以外には科学の分野の誰によっても一度たりとも使われたとは思えなかったからだ。どんな説でも,新たに登場する証拠に合うように修正したり拡張することは可能なので,ある説を反証することはめったにできない。そのため,理論を反証するのではなく,私たちは理論を「納得し難くする」。つまり,こういうことだ。繰り返し修正された理論は,ますます難解にーー醜くとは言わないまでもーーなり,ついには科学者たちが興味を失ってしまう。だが,ある説が納得し難くなるのにどれくらいかかるのかは,ひとつの理論を,相容れない証拠に適合するように繰り返し修正することに対する,その人の許容度がどれだけかに依存する。(p.52)