まあ大変な本だ。写真だけで50ページ弱、登場人物の紹介に10ページ(しかも役に立つ)、第1章が始まるのが63ページからで原注も50ページを超えている。数学的な記載はとてもついていけないが、登場人物ごとのエピソード、IAS内の対立など当時の雰囲気はよく伝わる。しかし、話は時系列にそっていないので少し大変だ。コンピューターのデーターはランダムアクセスなのだからそれも仕方がないか。
舞台はプリンストンにある高等研究所(IAS)、1930年に設立され33年に数学部門、34年に人文学、35年に経済・政治部門が開設された。その後人文と経済・政治応用は統合され歴史学となり自然科学が数学から派生している。
主人公はフォン・ノイマンと言っていいだろう。数学者としてのノイマンはゲーム理論のミニ・マックス定理で知られるが、それよりもその天才ぶりを示すエピソードにはいとまがない。ノイマン以外にもハンガリー移民があまりにも優秀だったためハンガリー人=宇宙人説が流れたほどだ。IAS初代所長フレクスナーは学者のパラダイスを作ろうとし、教授の任命を始める。数学者オズワルド・ヴェブレン、アインシュタインについで当時29才のフォン・ノイマンら数名が選ばれた。ナチスドイツの迫害が始まりIASは研究者を救うため受け入れ、数学研究は純粋数学、応用数学とノイマングループができていった。
戦争が始まるとノイマンは軍に協力を始めた。例えば弾道計算や爆弾の衝撃波そして後に水爆を起爆する際の爆縮レンズなどの研究をしている。このころ既にコンピューターと言う言葉が有るが、これは人間コンピューターで10桁の機械式電卓を使って20名ほどががらがらと計算をしていた。パンチカードを通し出てきた答えは次の電卓にまわされていく。
コンピューターの原型は1967年に微積分を発見した数学者ライプニッツが構想している。一つの容器に開閉可能な穴を多数並べて空け、おはじきを落とす事で1と0を区別し、原始的なシフト・レジスタにより二進法の計算ができるようになっていた。
1936年9月29日アラン・チューリングがプリンストン大学にやってきた。その5日後「計算可能数、ならびにその決定問題への応用」と言う11ページの論文の更正刷りが出来上がった。そこに書かれているのが万能チューリングマシーン、紙テープを読み取りそのブロックごとの記号を読み設定に基づいて記号を書くか消すかし、テープを移動する。この概念によって数が物事を行うようになった。コンピューターに興味を持っていたフォン・ノイマンはこの論文の可能性をすぐに理解し電子式のコンピューターの開発を始めた。
電気式コンピューターを作ろうとしていたのはノイマングループだけではなくある要素技術は他のチームの方がすすんでいるものもあったのだが、1945年にフォン・ノイマンが書いた「EDVACに関する報告の第一草稿」には階層メモリ、制御機構、中央算術演算ユニット、そして入出力チャンネルと言った構造やコード化された指令の定式化と解釈といった他のグループの発明を全て無効化するものだった。ENIACの開発者エッカートからはノイマンが手柄を独り占めしたように見えた様だが、ノイマンは公知化するのが目的だったと述べている。
IASのコンピューターMANIACが当初利用されたのは気象予報やモンテカルロ法、水爆にデジタル生命体などだった。モンテカルロ法はソリティアを完成させる確率をスタン・ウラムが何時間も計算するよりも実際に100回繰り返して数える方が実際的だと考えた所から始まった。これを核分裂の中性子の生成に当てはめでたらめな乱数を元に計算した結果を統計的に扱うと結果は集束していく。モンテカルロ法はコンピューター将棋をプロレベルの実力にし一方ではサーチエンジンを生み出した。デジタル生命体は別の進化を遂げ、コンピューターウイルスとアプリを生み出した。
作者のジョージ・ダイソンはIAS教授フリーマン・ダイソンの息子であり子供の頃プリンストンで暮らしていた。ダイソンが見つけたMANIACの技術者ジュリアン・ビゲローが残したメモにはこうある。
要求:1語(40bd)について二つの命令を含ませる、各命令=C(A)=コマンド(1-10,21-30)・アドレス(11-20,31-40)
はじめにコマンドラインが有った。必要だったのはC(A)だけであった。