オリヴァーサックスのレビュー一覧
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どなたかの本棚で面白そうだったので、ずっと気になっていた脳神経学者オリヴァー・サックスの一冊目はこちらに。
利き腕を怪我した場合、反対の手や足でできることが増えることがある。脳の内部でプログラムや回路が変化して、異なる行動様式を習得したのだ。
このように欠陥や障害により潜在的な力を発揮して躰が再構築されることがある。
このように、人間の脳や身体の病から別の機能が発達する症例に接して、脳の機能だとかそこから構築される人間の個性とかを感じるドキュメンタリー。
『色盲の画家』
65歳のジョナサンは交通事故の頭部損傷で目の認識が変わった。視力は鋭くなり遠くの物が認識できる。しかし色が全くわからなくなった。一時的だが文字も認識できなかった。
色や文字を知っている人が、その認識機能を失くすとどんな感覚になるのか、言葉で説明できます。「アルファベットはギリシャ語かヘブライ語に見える(一時的な障害だった)」とか「赤も黒も真っ黒に見える」とか、元の物を知っているので説明がわかりやすいですね。
そして色盲になったことは、見えない以上の影響が出る。見えるもの全てが醜く感じられ、食べ物も汚らしく思える。明るいところでは見えるものが暗いところにいくと見えなくなる。人間の色も見えないので人付き合いもしづらくなる。自分の感じていることを伝えられずもどかしさも募る。
しかし次第に機能も感覚も順応する。彼は画家なので、独自オンスタイルを持つ絵を描くようになった。(絵は冒頭に収録されている)頭部損傷後の不快感や喪失感を元に新たな感じ方をするようになった。色をなくしたために物事の形を感じるようになった。自分の感覚が研ぎ澄まされるようになった。
医学的には、脳のどこがどのように損傷したのかはわからない。それがどんな変化をもたらせたのかもわからない。それでも人間は順応してゆく。
『最後のヒッピー』
グレッグは思春期の激しい反抗から、ドラッグ、宗教に嵌まり込んだ。やがて視力の衰えや精神の静謐さを併発する。教団は宗教的な高み〜とか言っていたので治療が遅れた。どうやらグレッグは脳神経に巨大な腫瘍ができていたのだ。グレッグは盲目で記憶障害、精神障害で施設に入る。
なんといっても奇妙なのが、自分が盲目だとわかっていない!そんなことあるの!?医師が物を持って「これは何?」と聞くとグレッグは自分が見えていると思っているものを答えるので、見えていないという自己認識がない。テレビがついていれば音を聞いて画面を想像する。グレッグには視覚という認識がなくなっているのでそれが普通だと思っている
グレッグは時間が経過する認識がないので、「この次」がない。例えば両親が毎週見舞いに来るとしても「さっきまでいた。」と思って時間の感覚が持てない。次にいつ来る、も認識できない。認知症とかで「いつ食事をしたか覚えていない」ってこんな感じなのか!
昔の友達のことは覚えているが、例えば幼馴染のAさんと今眼の前にいるAさんが同一人物だと認識できずに「Aさんという名前の人が二人いる」認識。
最後は、コンサートの最中はとても楽しむのに、翌日には全て忘れているというちょっと切ない終わり方。
『トゥレット症候群の外科医』
わめいたり、痙攣したり、他人の言葉や動作を真似したり(反響)、顔をしかめたり、奇妙な行動をしたり、無意識のうちに口汚い言葉や冒涜的な言葉を吐く(汚言)トゥレット症候群。
患者自身も、意志とは違う衝動や脅迫に突き動かされるので自分とは外部の「それ」に強制されている(一種の取り憑かれた)と感じることもある。
しかしは1000人に一人の割合でいると考えられるこの症状は割と身近で、細かい作業に着いている人もいる。著者はそんななかの一人の外科医ベネット博士を密着観察する。
ベネット博士は結婚して子供もいるし、車も小型飛行機も操縦する!助手席の著者は「よそ見してる!?」と気が気でないが、ベネット博士も本当にヤッてはいけないことはわかっていてやらないようだ。そして「空は広いから多少外れたって問題ない」という広大さもなんか良いな。
外科医としての腕も確かだ。どうやら愛する外科医の仕事に没頭するときはもっと深い部分での自分自身になるので、トゥレット症候群が消えるのだそうだ。人間の意識って不思議。
症候群のために読書は難しい。音や文字やレイアウトがきになってしまう。それでも本を楽しむことができないぶん、医学部の教科書は暗記するくらいに覚えられた、という効果にもつながったみたい。そして運動しながらの勉強も別のことに集中できるので良いみたいです。
私は自分自身も何かあるよなーと思っているのですが、ここに書いてあるトゥレット症候群はちょっと心当たりあるんだよなあ。常に独り言を言ったり、一人のときに勝手に口から思わぬことが出てくることは日常です。成長して自重できるようになって人前ではまずいことは言いませんが、ぼーっとして歩いているといきなりよろしくないことを口走りそうなので、常に何かを考えて独り言をコントロールしたり、音楽を聞いて意識を自分に向けるようにしてます。
『「見えて」いても「見えない」』
3歳の発熱(ボリオ?)で躰の麻痺と盲目になったヴァージルは、50歳の時に手術により見えるようになった、はずなんだけど、本人はどうも見えていないようだ。
『色盲の画家』では「見えていた人が見えなくなったらどうなるか」でしたが、こちらは「見えるという感覚を失くしてる人が見えるようになったらどうなるか」です。
自分が見ているものが信じられない、見ているものが自分が頭で認識していたものと結び具かない、見たのもを考える頭がついていかない、録画という概念がない。
ヴァージルは、触ったり聴いたりでものを判断していたため、目が見えても自分が考えていたものとその実物が認識できずに苦労した。眼の前にあるものが人の顔だとわからず、それが動いて声が出るということがわからないとか。
実際に見える物はわかるようになっても、写真では遠近感がつかめないし輪郭もわからない。町に立つ人の写真ではどれがビルでどれが人間かわからない。
赤ちゃんの時は他の神経も発達していないから目で見たものを脳に認識する力ができてゆく。しかし見えない状態に慣れた大人が見えるようになるというのはすでにある認識を覆すのでまったく違う問題になる。
ヴァージルは、目で見て、さらに触ることによって、「見る」ことができるようになった。
しかしまたしても高熱を発して再度視力が悪くなる。このときは、目で見たものを説明はできるが、それがなにか認識できない失認症に近い症状になったみたい。
私は自分や近しい人が「手術すればまた見えるようになるよ」と言われたら手術を勧めてしまうと思いますが、自分が作り上げた認識とそれで積み立てた人生がひっくり返ると言われたら、そんなに簡単なもんじゃないんだなあ…と思いました。
『夢の風景』
生まれ育った故郷を細部にわたり描き続ける男がいる。家の石垣もあらゆる角度から実物そっくりに描くくらいの精密さ。
イタリアの村ポンティトはナチス侵攻で衰退した。フランコは少年時代を過ごした村を懐かしく思いながらも海外で暮らしていた。だが熱を出した時に夢でポンティト・ポンティト・ポンティトを見て、初めて絵筆を取ったら詳細に描けた。
それからはフランコの話はポンティト・ポンティト・ポンティト。強迫観念に取り憑かれてしまったらしい。自分でも自分が描いた絵が、写真とそっくりで驚くくらいだそうだ。
彼の場合は奥さんとか精神科医のお陰で「失われた故郷ポンティト」専門の画家としてメディアで取り上げられたり個展を開くようになれた。
しかしフランコはポンティトには行こうとしなかった。「ポンティトの思い出が終わってしまう」ことを感じていた。
そんなフランコもポンティトに訪れることになった。頭にどの角度からもはっきり映る夢のポンティトと、現在のポンティトの違いに混乱する。
しかしその混乱も受け入れられるようになった。著者によると、ポンティト訪問前は「人の気配を感じない終末後の雰囲気」だったようだが、訪問して混乱が収まった後は「人はいないがちょっと出かけてる感じ」になったんだそうだ。
この章では「記憶」についてだが、一般的に考えられる「記憶とは積み重なり」というものに疑問も湧いてくる。記憶は変化する。それなら「記憶」というものはなくて「思い出す」という動作があるだけだ。記憶には、見直されて新しく思い出されるものもあれば、いつまでもそのままの形で存在するものもある。
『神童たち』
前の章と同じように、詳細な絵を描く話。自閉症の中でもサヴァン症候群と言われるのかな。
知的障害の少年スティーブンは、風景をちょっと見たらその光景を記憶して絵を描くことができる。でも実際のものとところどころ違うところがある。どうやら本人なりに「ここにはあれがあったほうがいい」とか「あの時見た形に、違う時に見た色」を組み合わせるなどしているみたい。どうやら、見たものを覚えるが記憶は連続しない。
その絵は芸術と評価もされるが、著者は「確かに個性はあるけれど、見て覚えたものそのままを描いたら創作といえるのか?」と考えてゆく。
見て覚える能力が優れているので、物真似も上手い。ゲームとしてスティーブンが先生、著者が生徒になったときには、著者の特徴が模倣されていて著者を「甘く見てはいけない」と事故を戒めることになるんだって。また、絵を見たらその画家のタッチを真似することもできる。
著者は「彼らが人の真似をするのは、自己というものを認識できないので、他者を取り入れて個を知りたいからなのか?」と推測しています。しかしその記憶、真似が、世界を表現して探索するというとになっている。
『火星の人類学者』
自閉症全般のことと、自閉症本人から話を聞く。
1940年代に発表された研究ではレオ・カナーは「改善の見込みのない悲惨な状態」として、ハンス・アスペルガーは「きわめて独特な思考や経験は、いつか例外的な業績に繋がるかも知れない」としている。(自閉症という症例自体が、彼らが研究対象にしたよりももっと広範囲ではあるのだが)このころは「先天的なもの」と、「冷たい母親が要因な後天的なもの」という研究の両立だった(うちの子供の一人が「児童精神科診断のグレー」ですが、カウンセラーさんや周りの方々から「母親が悪い」はしょっちゅう言われたわ…(;_;) わたしの母親もなかなか特異なので、私自身も何かあるだろうなあと思ってる)
その後も自閉症の生物学的要素が研究されている。
著者は、重度の自閉症だが現在は食肉の動物行動研究をしているテンプル・グランディンから話を聞く。彼女は「自閉症に生まれて」をテーマの自伝も出している。
自閉症本人が語るので、自分では何を考えているのか、どうしてそうするのかが分かりやすいんですよね。
そして経験豊かな脳神経医師である著者自身も、このような多方面に渡る自閉症の人たちに面会してもまだまだ驚かされることばかり。
表題の意味はテンプルが「自分には人間同士の微妙な感情を読み取るコミュニケーションができない。まるで火星人を研究する人類学者のよう」と言ったことから。 -
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オリヴァー・サックス(1933-2015)の強烈な自伝。出版は2015年。
原題は“On the Move: A Life”。のっけからバイクの話が登場し、6ページ目までぶっとばす。書名の通りon the move。もちろん、この慣用句はサックスのactivityの高さの謂い、その生き方を指している。
ロンドン生まれ。父母はともに医師、ユダヤ人。オックスフォードの医学部を卒業し、28歳でアメリカに渡る。医師として、研究者として几帳面な生活を送るも、一方、仕事がオフになると、バイクで放浪。同性愛者でもあり、一時期は薬物依存の生活も送った。『レナードの朝』のあの医師のイメージからは想像もできない。
このように前半はなにやら告白録の様相。しかし、この破天荒な生活体験がなければ、後半生の、患者に寄り添った、あの豊饒なメディカル・エッセイ群は、生まれなかったに違いない。
写真はたっぷり、カラー口絵が28葉、本文にモノクロ29葉。そしてカバー表紙には、バイクにまたがる若き日の坊主頭のサックス。訳文はひじょうに読みやすい。 -
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原著は1995年刊。いまやメディカル・エッセイの金字塔。インパクトのある『火星の人類学者』というタイトルもいい。16ページのカラー口絵も彩りを添える。
大脳性色盲、トゥーレット症候群、側頭葉癲癇、開眼手術、サヴァン症候群、高機能自閉症など、オリヴァー・サックスが出会った7つの驚くようなclinical casesを鮮やかに描き出す。
最終章ではあのテンプル・グランディンを訪問する。自身の自閉症を説明するのに「火星の人類学者」というメタファーを用いたのは彼女だった。訪問の終わり、空港まで送ってもらい、別れ際に、許しをもらって彼女とハグする。なんという温かな終わり方か。 -
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原著は2017年刊。オリヴァー・サックスは2015年に亡くなっているので、いわば「遺作」。亡くなる2週間前、サックスは、「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」誌に掲載したいくつものエッセイをこのような形でまとめることを編集者に託したのだという。
エッセイは10篇。サックスの敬愛する3人のビッグネイムが頻繁に顔を見せる。ただ、登場するのは、植物学者としてのダーウィン、精神分析を言い出す以前の神経学者としてのフロイト、意識の川(流れ)について考えたジェイムズである。
いつものサックスと少し違うのは、人間よりも、動植物にスポットライトをあてている点。なんとなく枯れたエッセイのようにも感じる。もちろん、味わい深いのはいつも通り。 -
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きっかけは、Jordan Petersonのおすすめ書籍の中にあるのを見つけたこと。
何かを知るためには、境界領域にあるものを詳しく調べるのが効果的、というようなことを考えた。脳になんらかの障害のある人々のことを知ることは、人間を知ることにつながる。
自分とすごく異なると感じる人達もいるがー全色盲、健忘症、自分と変わらないのではないかと感じる人たちもいるートゥレット症候群のお医者さん、自閉症の動物学者の教授。
自分はサイコパスなのではないか、と思う瞬間はよくある。多分、病気と健全の間は想像するよりずっと近いし、はっきりと線が引かれているわけではないと言うことだと思う。
一章読むごとに、何か心にズンとくるような感覚がある、いい本だった。読んでよかった。 -
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ネタバレ脳神経外科による脳炎後遺症患者の長期観察記録。ただし、無味乾燥な症状や数字のみの記録を避け、患者個々の性格や言動、発症までの暮らし、社会との関わり方までも記載し、文学的で哲学的。それは現代医療の患者を即物的に扱う姿勢への批判からきており、一見支離滅裂な行動をする患者側から見た世界、その行動原理、内在する深い人間性への洞察も記されている。物事の断片で正邪を決めつけ、糾弾してゆく世相にも、警鐘を鳴らす指摘だと思う。
どうしても『アルジャーノンに花束を』を想起する。夢の薬エルドーパによる「目覚め」と呼ばれる劇的な症状の改善、それは生まれ変わるかのような重い症状からの解放をもたらすが、強い副作用、制御不能の本能的暴走をする恐れがある。ほとんど一生を、思い通りに動かすことの出来ない肉体に押し込められ、周りの状況を詳細に認識することが難しい状態で過ごすことを考えれば、危険を冒しても打つべきなのか。それは個々人の幸福観へも繋がる問題だ。レナードはエルドーパ投与前、つまり極度な不自由さの中にあっても、自分で磨き上げた深い人間性を持っていたが、目覚めによってほとんど無くしてしまった。多くの患者の中で特にレナードに注視するのは、不自由を無くすことが患者にとって本当に良いことなのかという問題を一番突きつける存在だからだろう。極論だが、レナードを作ったものの一部は不自由さであり、それは切り離す事が出来ない彼自身でもあったのではないか。
哲学的な思考は私には追い切れない部分が多かったが、映画化に際してのロバート・デ・ニーロの役作りの描写やひいては演劇論も大変興味深く、映画作品を見てみたい。
ただのノンフィクションではなく、医師という立場から患者との関わりを通して世界の本質に迫ろうとする、意欲的な作品だった。 -
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ネタバレ私は脳科学系の読み物が好きで、ことに知覚で形作られる世界は個人的なもので、普遍的なものではないという見方に非常に興味を持っている。本書はまさしくその興味を揺さぶられる内容だった。
本書に描かれている人のうち数人が、自身が障害を持っているということを自覚した上で、障害を消したいとは考えない、とコメントしていたところが印象的だった。それほど彼らが抱えているものが彼らのアイデンティティとして切り離せず渾然一体となっていること、そしてそれほどに彼らが彼らの知覚している世界を守りたいと感じるのだとわかった。
健常者は、ハンディを抱える人に対して、「正常な知覚ができる状態にできれば感動的だろう」と考えることがある(本書の「見えて」いても「見えない」に出てくる妻もその考えだったのだと思う)。私もそう思っていた。もちろん、正常な知覚を得たい、取り戻したいという人もいるだろう。だが、そういった人ばかりではないということを知ることができた。そして、アイデンティティと知覚的世界を守りたいという気持ちは健常者と変わらないと思った。 -
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個性と多様性の本。
冒頭にウィリアム・オスラーの「病気について語ること、それは『千夜一夜物語』のようなものだ。」という言葉が載っている通り、(本人や周囲の人には辛いこともあるだろうけど)出来の良い短編を読んでいる様な驚きや発見がある。
身体の一部であったり神経や脳の機能が喪失したり過剰だったりで、こんなにも多様な症状が出ることに人間の身体の不安定さと同時に安定性も感じる。
そして、本当の意味で「感覚」の違う人との相互理解は出来ないからこそ、理解しようとする姿勢と一方の「感覚」での評価の意味のなさがわかる。
p. 91 私が診ていたある患者は、後頭葉への血管の塞栓のために、脳の視覚をつかさどる部分が死んでしまった。たちどころにこの患者は完全に盲目となったが、本人はそれを知らなかった。見たところ盲人なのに、彼はひとつも不平を言わない。質問や検査をしてみてわかったことだが、彼は盲目となった—脳の皮質の上でそうなってしまった—ばかりでなく、およそ視覚的な想像力も記憶もいっさい失ってしまったのである。それでいて、失ったと言う意識もないのだった。「見る」という観念そのものが存在しなくなり、なにひとつ視覚的に叙述することができないばかりでなく、私が「見る」とか「光」といったことばを口にすると、それが理解できずに当惑してしまう。すべての点で視覚と無縁な人間になってしまったのである。彼のこれまでの人生の中で「見る」ことに関係あった部分いっさいが抜けおちてしまった。
p. 188こうなるともう、天賦の才能なのか呪われた欠点なのかわからなくなってくる、とも言った。
p. 204このように考えると、われわれは、通常とは逆向きの流れのなかに立つことになりかねない。病気は幸福な状態で、正常な状態に復する事は病気になることなのかもしれないのだ。興奮状態はつらい束縛であると同時に、うれしい解放でもあるのだ。
p. 324 今までやってきたのはこの相についてのテストで、そこでは非常に劣っていることがわかっていた。しかしそのテストでは欠陥以外の事は何もわからない。欠陥の向こうにあるものは見えてこないのだ。
p. 376 「かくして、天才少女から天才がとりのぞかれておわった。あとには何ものこらなかった。ただひとつの優れた点はなくなり、どこをとっても人なみ以下の欠陥ばかりとなった。こんな奇妙な治療法を考えつくとは、いったいわれわれはどういう人間なのか?」 -
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オリバー・サックスのこれまでの著書の中で最も素晴らしかった。世の中には「杉山なお(著) / 精神病棟ゆるふわ観察日記」のような心療内科患者・生理学的障害を持つ患者を動物園のように「観察」する書籍もあれば、この著者のように限界まで「一人一人としての人間」を理解しようと試みる本気が伝わってくる著書もあるのですね。やはり一番印象的だったのは映画にも成った表題「火星の人類学者 テンプル・グランディン」さんのお話でしょう。日本人なら誰もが「村田沙耶香 / コンビニ人間」「同 / 地球星人」を連想したのではないでしょうか。後者は正に「私達は地球星人ではなかったのだ」という視点で書かれています。本書は一冊通してあまりにも考えさせられる事が多く、感想が一言でまとめられません。
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「HALLUCINATIONS」不思議の国のアリス症候群は知識として持っていたけれど、脳の機能として(脳を誤情報が通過する際の間違えとして)要塞スペクトルというのが走ってしまうという事が脳に予めインストールされているというのは驚いた。私は予期発作の前兆として輪郭の極端なまでの強調が「嫌悪」と同調して起きる。この本には様々なHallucinationsの事例として独立した「幻覚」と感情を伴う「共感覚付き幻覚」(通常、人が見る夢は大半が感情と接続されている)が大量に事例が上がっており、私のこの輪郭強調と嫌悪の共感性は「そういうものなのだ」とやっと納得出来た。また、私は長年の睡眠障害(昨年、非24時間睡眠覚醒症候群だとついに解明しほぼ全ての睡眠の苦しみから開放された)から文中にあるマイクロスリープが余りにも多く、数こそ少なかれどこれも文中にあるとおり「あまりの強烈さに一度経験しただけで忘れる事が出来ぬ」激烈さを持って体験した事が出眠時幻覚(激烈なる恐怖と嫌悪の共感覚付き)であったことが分かってこれも良かった。また、幼少時に限った際に数度起きた数字が指数的に積み上がっていて宇宙の秩序を破壊してしまう恐怖を伴う譫妄(私の場合は宇宙ではなく子供なのに「借金」のようなものとして解釈した)が「算数譫妄」という用語としてズバリそのまま出てきたことに大変に驚いた。こんなマニアックで説明し難い体験が世界中で起きてるとは言わなくても、ままある譫妄の一つ、少なくとも類型化可能な程度にはよくある、ということが判明するこの驚き。私が頭を二度打っている事は私の人生には何か影響があったのか、これはもはや分かりそうにないけれど若干に興味が湧いた。一つは7針の大怪我で、特にもう一つ気になる方は外傷こそないが私はただ普通に立ったままで、走り込むように近寄ってくる母、救急隊に促されるままに横になる自分を非常に冷静に感じており、何一つ問題が起きていないのに、家族の中では「大事故」、私の中では「遊び」という食い違いが起きた頭部への衝撃だ。私は間違いなく「自分の意思で喋られない・応答しないことを選んだ」確信があったが、母曰く、私が頭部CTやらMRIやらの画像を指差して「それは誰の頭?」と私が言い出すまでの時間は地獄のような恐怖だったらしい、私は今でも頑なに「自分で喋らないことを選んだ確信がある」が、本文中にはこのような客観的に誤った状況についてどれだけ理性的に説明し場合によっては状況を本人が理解しても本人が頑なにそれを認めない状況が繰り返し登場する。私の場合はどちらだったのだろう?これだけは本書を読んでも最後まで謎が解けなかった。不思議の国のアリス症候群についてはもう慣れたので別に良い、害は無い。本文中のシャルル・ボネ症候群と同じなのでこれも実に体感としてよく分かる。本書はある意味「幻覚=精神異常者」との偏見修正との戦いの一冊でもあると言える。人間には四肢が予めプリインストールされており、人間の脳にはどれだけ理性的に思考しようとも贖い難い確信(決定的肯定)・恐怖(回避不能な嫌悪)の決定機構が備わっており、その他ありとあらゆる脳の生理学的な現象が、芸術・一般的に受け入れられやすい模様・更には幽霊・天使・悪魔・ドッペルゲンガー・臨死体験・神そして宗教を形作っていることが読みとれ、実に面白かった。そしてそれは前述の贖い難い確信・恐怖の決定機構から、一度こうだと自分で「分かって」しまえばそれは容易には覆られず、これが人間の数千年に渡る宗教制度を形作り、ジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリの云う「共同幻想」という人間の大反映を決定的にした機構なのかもしれない(それは偶然獲得したものなのか、何か必要に迫られたのか、これは進化論や進化心理学更には考古学が関わってくる為更に解明は困難であろう)。
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26年も前なので、古さを感じる部分はある。
それを差し引いても、一般読者に”当事者の世界”を触れさせる良書なので星5つとした。
原著”An antholopulogist on Mars”が出版されたのは1995年、日本語版出版は1997年。
現時点(2021年)からみれば26年間、精神医学、脳神経科学は日進月歩の進歩を遂げてきた。現代の最新知見を持つ読者からみれば、
「四半世紀前はこんなものだったのか」
と、落胆や不満も持つ内容である。
とりわけ、当時よりははっきりしてきた発達障害への理解を踏まえると、
「抱きしめが大事とかいう理論はお前のせいかぁあああ!」
と、どなりたくなるようなエピソードもある。それがタイトルにもなった『火星の人類学者』である。
著者および協力した人々の名誉のために付け加えるなら、『抱きしめが大事』は「ひとつのアプローチ」として提言されているものの、提言した当事者でさえ「それが万能」とは考えていない。
しかし、親というものは、不安を抱きがちな生き物だ。
「子供が障害になるのは、自分たちの育て方のせいでは?」
と、藁にも縋る思いの人々を餌にする、偽科学が悪い。また、そういうのに公共サービスの保健師や助産師がはまるのも悪い。彼らには適切な医学知識と、職業倫理が欠けている。
評者はとりわけ、『色覚異常の画家』のエピソードに感銘を受けた。自分でもイラストをものするので、色の感触が消えうせ、微妙な階調が見分けられなくなったらと思うと……正直、ぞっとする。
だが、エピソードで紹介された画家は、確かに悲嘆し、非常な苦しみを受け、時間をかけながら、それでも新たな視覚と付き合っていくことを学んだ。
これをコーンの分類「障害受容のプロセス」でいう
『ショック→回復への期待→悲嘆→防衛→適応』
といった一般化・抽象化した言葉で表現すると、大事なものが欠けてしまうだろう。大事なもの、それは『当事者の感情、経験』とでもいうべき、何かである。
そして、自閉症には顕著だが、「余人には、全く存在ないように見える」感情や経験の内面化も、本書収録のエピソード『神童たち』からは感じられるのである。
たとえ、筆者オリヴァー・サックスおよび定型発達で健常者諸君の世界からは、『不足』『不十分』『未満』であろうとも、だ。
評者自身も、ASD的な側面をいくばくか持っているため、「火星の人類学者のような」気分はよく理解できる。人数が逆転していれば、定型発達で健常者諸君こそ
「観察と治療と適応学習を促すべき世界」
の住人だという思いを新たにした。
この視点の有無は、ともすれば「まず、憐みありき」で人権を口にする人々への、よき試金石となろう。
たんなる医学的のぞき趣味ではなく、自分自身に引き付けて読んでみることをお勧めしたい。 -
Posted by ブクログ
何度繰り返し、この本を、読んだ事でしょう。
人間の、精神に、興味がありました。自分が、精神の病を名付けられてからは、作者 オリバー・サックスの、変わった人々に対する温かいまなざしに、すがるような思いで、読みました。
訳者 高見幸郎氏が、あとがきで、こう書いています。
たしかにこれは、筆者の言うとおり、「奇妙」な話を集めたものである。脳神経になにか異常があるとき、奇妙な不思議な症状があらわれ、一般の想像をこえた動作や状態がおこる。ここに語られた二十四篇の話はいずれもそうした例といっていい。しかしわれわれが、これらをただ好奇の目でながめ、興味本位に読むのだったら、それはたいへんな誤りで、筆者の意図と真情を正しく理解したことにはならないだろう。病気の挑戦をうけ、正常な機能をこわされ、通常の生活を断念させられながらも、患者はその人なりに、病気とたたかい、人間としてのアイデンティティをとりもどそうと努力している。勝てなくても戦いつづけている。たとえ脳の機能はもとどおりにならなくても、それで人間たることが否定されるのではない。このことこそ、サックスがくり返し述べているところであって、ここが、問題の核心というべきであろう。
、、、書いていて、スマホが、涙で、濡れてしまいました。
※ 私が読んだのは、晶文社の、単行本のほうです。
りまの