オリヴァーサックスのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
文字通り“雷に打たれて”以来、ピアノを弾くことに取り憑かれてしまった医師。隣人の家から大音量で流れるレコードプレーヤーの音楽のような幻聴。聴覚は機能しているのに脳が音楽を構成する要素をうまく感知できず、無感動になってしまう失音楽症。反対に、言語に不自由を抱えている人たちが音楽の力によって、コミュニケーション手段やアイデンティティを取り戻す過程。脳神経科医の著者が出会い、あるいは送られてきた手紙や時に自身の体験談から、音楽とヒトの脳の関係を語ったノンフィクション。
私が本書で一番興味深かったのは絶対音感にまつわるくだり。ニューヨークと北京の音楽学校で行った調査で、4歳から5歳のあいだに音楽の訓練を始めた生徒のうち、中国人生徒は約60%が絶対音感の基準を満たしていたが、英語話者の生徒は約14%しか基準を満たしていなかったという。この差は中国語が言葉の意味を区別するのに音の高低パターンを用いる「声調言語」であることに関わっている。幼児期において言語能力の発達はふつう絶対音感の保持を妨げるのだが、声調言語はそれ自体音感を必要とするために、絶対音感も保たれるということらしい。
これは同時に乳幼児はみな絶対音感の潜在能力を持っているのだが、言語を習得するため、あるいは聴覚情報を総合的に処理できるようになるために抑制されていくものだということも表している。話はさらにネアンデルタール人の時代へ飛び、原始の人類は音楽でコミュニケーションをとっていたはずなのだが、言語の発達により大部分の人間は絶対音感を失くし音楽能力が縮小した、というスティーヴン・ミズンの仮説を紹介している。
まるで「文字禍」。他の章では古代ギリシャ人が膨大な「イーリアス」や「オデュッセイア」を覚えていられたのは叙事詩に節がついていたからだ、という当然の指摘もあり、ネアンデルタール人と比べて音感が退化してからも人びとは音楽で記憶をつなぎとめていたとわかる。言葉と文字が音楽をコミュニケーションの中心から追いやってしまったのだろうか。
もちろん音楽は今でも人間の記憶と感情を喚起させる力を失ってしまったわけではない。本書第3部、第4部で紹介された音楽療法で救われたさまざまな人たち、特にチック症状に悩むトゥレットの患者たちがドラムを叩くことで解放されていく姿にはとても感動した。視覚・聴覚・知覚に障害を抱える人みなに音楽が作用するのはそれが〈振動〉に他ならないからではないかとも思い、コロナ禍の今、現場で音楽を共有することの意味をまたもう一度考えることになった。
音楽に救われた人だけでなく、音楽に苦しめられた人びとも紹介されている。その多くは耳をよく使う音楽家だ。蝸牛管の衰えによって大脳皮質における音のマッピングが歪んでしまい、音感がズレてしまった作曲家の「自分がもっている耳で仕事をするんですよ。自分がほしい耳ではなくてね」という言葉には胸が痛んだ。聴覚が変調をきたすと、その空白を補うために脳が幻聴を聞かせることもある。ヒトの脳は〈意味〉を求め、〈意味〉をつくりだすことから逃れられないのだ。 -
Posted by ブクログ
脳神経科医オリヴァー・サックスによる、1985年発表の医学エッセイ。
サックス教授は、自らの患者の脳神経に起因する奇妙で不思議な症例を綴った多数のエッセイ集を発表しているが、本作品は、後に映画化された『レナードの朝』(1973年)に次ぐ代表作のひとつである。
本作品では、症例を大きく「喪失」、「過剰」、「移行」、「純真」の4つに分けて24篇が収められているが、「喪失」の部では、視覚、記憶、身体の認知、空間認知などの障害を示す症例が示した奇妙な現象、チックに伴う暴言、人の間違い、切断された足の幻影など、「過剰」の部では、てんかん発作などに伴う幻覚、夢など、「移行」の部では、知的障害や自閉症の高度な計算能力、描画などの特異な能力などが紹介されている。
いずれも興味深いものではあったが、私が強く印象に残ったのは、重度のコルサコフ症候群の患者の症例である。重度のコルサコフ症候群の患者は、どんなことでも数秒間しか覚えていられず、自分についての過去の物語が持ちえない、即ち、自分のアイデンティティがないのである。そして、記憶障害以外の脳機能は正常な患者は、アイデンティティの喪失を埋め合わせるために、あらゆる話を打てば響くような素早さで次から次へと作り続けるのだという。これは、人間としては、最も耐え難い状態なのではないかと思う。(本人に自覚はないのだが)
本書は出版から30年が経ち、その後の脳神経医学の進歩により、本書の症例の中にも、原因が解明されつつあるもの、或いは今後解明されるものもあるのだろう。
一方で、不思議な症例を知るにつけ、脳に関わる機能の複雑さを感じるとともに、脳に関する根源的なテーマである「意識の発生のプロセス」はいつか解明されるのだろうかと、改めて思わざるを得ない。
(2014年9月了) -
Posted by ブクログ
ネタバレそういうわけで読んでみた。
映画のおかげでタイトルは「レナードの朝」だけれど、原題は「Awakenings(目覚め)」。
本を売るには知名度の高いこのタイトルの方が良いんだろうけど、
中身はやはり「目覚め」だよな、と思う。
出版社も慈善事業じゃないのでしょうがないけど、
ちょっと陳腐化されたようで残念。
これは執筆当時(少し前)に「奇跡の薬」と呼ばれた
L-DOPAという薬の投薬記録以外の何物でもない。
はっきりとメカニズムがわかっていなかったが故にどうしても実験的な色彩を帯びてしまい、
読者はオリヴァー・サックスの判断に
疑問を感じることになるのは避けられないのではないだろうか。
『火星の人類学者』の後書きで紹介されていたアメリカでのレビューにあった
「覗き見趣味」というのはこういうところにも起因するのかな、と思わなくもない。
そういった疑問は読んでいくうちに氷解し、
当時はそれこそ奇跡に頼るくらいしか選択肢がなかったのだとわかる。
寧ろ、そういった批判も当然予想されるのにも関わらず
発表したその事実に誠実さを感じることに。
そして読んでいる最中読者が考えるであろうL-Dopaの働きは
その後のオリヴァー・サックスのL分析で裏付けされる。
先に書いたようにこれはあくまで記録なので、
ストーリー性や結論のようなものはない(L-Dopaへの分析以外で)。
なので映画のような話を期待して読み始めた人にはさぞかし退屈だろうと思う。
ここには涙腺を刺激するような話はないからだ。
臨床記録は淡々と語られ、
その前後は状況説明と映画化の舞台裏の話、
そして少々多いと感じる様々な人の後書き(作者、訳者、脳科学者…等々)。
世の中奇跡は滅多には起きない。
この間近所で、顎を体にくっつけるように折り曲げ、
すり足のように歩いていく人を見かけた。
その時、以前にもこういう人を見かけたことを思い出した。
そして気づいた。
ああ、あれはパーキンソン病なのかもしれない。
パーキンソン病患者は以外と多いらしい。
後書きに、オリヴァー・サックスは
一般の人にこういった病気があること
(『目覚め』で取り上げられている病気はパーキンソン病ではないけれど)を
知ってもらい理解してもらいたいのだと読める文章がある
(舞台化の依頼の行だ)。
そうか、こういうことなのかもしれないな、とちょっと腑に落ちた瞬間だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ基本的には読み終わっていない状態では更新しないのだけど
(他の呼んでいる途中の本は今のところ改めて手に取るつもりはない)。
「最後のヒッピー」というタイトルで書かれたストーリーに
あまりにも心を打たれてしまったので。
脳に損傷を受けてしまい新しい出来事を覚えられない青年グレッグの話。
脳が損傷したために新しいことを覚えられない、とか、
病気のために記憶がどんどん失われていく、とか、
こういう記憶関係の障害の話は弱い。
悲しすぎるので。
本人は喪失すら気づけず、考えようによっては幸福とも言える状態なのだけど、
でもやはり、却って、と言うか、絶対的に、悲しい。
グレッグのケースは特に、
表面の意識では知らないのだが
心の底では何かを気づいているのでは?と思わせる描写があるので、
でもどうしようもないので、
余計に悲劇に感じてしまう。
永久に損なわれてしまうって、
とてつもなく悲しい。
絶望って、こういうことを言うのではないだろうか。
永久に損なわれるという意味では、
最初のエピソード「盲目の画家」もそうなのだが、
やはりそこに自覚があるかないかの差が大きい。
因みに私の人生でのオリヴァー・サックスの登場はこれで三回目である。
高校生の時、朝日新聞か何かの書評で『妻を帽子と間違えた男』の存在を知り、購入。
これが一冊目。
それが映画『レナードの朝』の原作を書いた人だと知ったのはずっと後の話(映画は未見)。
その後TEDで
シャールズ・ボネ症候群という脳の過反応による幻覚についてのスピーチを聞いた(見た)のが、
私の中のオリヴァー・サックス登場二度目。
そして今回が三度目。
脳神経外科医である彼が取り扱う症状は、
私の好きな精神医学の分野にリンクしていることもあり、基本的に興味深い。
また文章も、上手なのもあるけれど、やはり、
変に感情に走らず、医者/学者として淡々とエピソードを語るところがとても良い。
誠実な文章である。
ちょっと、うーん、と思ったのはタイトル。
「火星の人類学者」、原題も「An Anthropologist on Mars」で同じ。
アイキャッチだとは思うけれど、
アイキャッチすぎるタイトルはあまり誠実に感じないので個人的に好きじゃない。
特にこれは何か全体の比喩ではなく、
症例として登場するある特定の人物を意味する言葉なので、
全体のタイトルとしてはどうかな、と思う。
中身の誠実さに適したタイトルがもっと他にあったのでは。
訳者の後書きに、とある辛辣な書評が引用されていた。
本に対する辛辣さ、というよりは、オリヴァー・サックスその人への辛辣さなのだが、
オリヴァー・サックスの文章には覗き見趣味が見えるという。
感じたことがなかったので(翻訳後だからかもしれないが)、
ちょっと驚きの見方であった。
うーん、そうなのかなー…。
まあそれはそれ。
『レナードの朝』も読んでみようかな。