個性と多様性の本。
冒頭にウィリアム・オスラーの「病気について語ること、それは『千夜一夜物語』のようなものだ。」という言葉が載っている通り、(本人や周囲の人には辛いこともあるだろうけど)出来の良い短編を読んでいる様な驚きや発見がある。
身体の一部であったり神経や脳の機能が喪失したり過剰だったりで
...続きを読む、こんなにも多様な症状が出ることに人間の身体の不安定さと同時に安定性も感じる。
そして、本当の意味で「感覚」の違う人との相互理解は出来ないからこそ、理解しようとする姿勢と一方の「感覚」での評価の意味のなさがわかる。
p. 91 私が診ていたある患者は、後頭葉への血管の塞栓のために、脳の視覚をつかさどる部分が死んでしまった。たちどころにこの患者は完全に盲目となったが、本人はそれを知らなかった。見たところ盲人なのに、彼はひとつも不平を言わない。質問や検査をしてみてわかったことだが、彼は盲目となった—脳の皮質の上でそうなってしまった—ばかりでなく、およそ視覚的な想像力も記憶もいっさい失ってしまったのである。それでいて、失ったと言う意識もないのだった。「見る」という観念そのものが存在しなくなり、なにひとつ視覚的に叙述することができないばかりでなく、私が「見る」とか「光」といったことばを口にすると、それが理解できずに当惑してしまう。すべての点で視覚と無縁な人間になってしまったのである。彼のこれまでの人生の中で「見る」ことに関係あった部分いっさいが抜けおちてしまった。
p. 188こうなるともう、天賦の才能なのか呪われた欠点なのかわからなくなってくる、とも言った。
p. 204このように考えると、われわれは、通常とは逆向きの流れのなかに立つことになりかねない。病気は幸福な状態で、正常な状態に復する事は病気になることなのかもしれないのだ。興奮状態はつらい束縛であると同時に、うれしい解放でもあるのだ。
p. 324 今までやってきたのはこの相についてのテストで、そこでは非常に劣っていることがわかっていた。しかしそのテストでは欠陥以外の事は何もわからない。欠陥の向こうにあるものは見えてこないのだ。
p. 376 「かくして、天才少女から天才がとりのぞかれておわった。あとには何ものこらなかった。ただひとつの優れた点はなくなり、どこをとっても人なみ以下の欠陥ばかりとなった。こんな奇妙な治療法を考えつくとは、いったいわれわれはどういう人間なのか?」