河野真太郎のレビュー一覧
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話題の(?)河野真太郎さんの新著。やっと読んだ。
いや~おもしろかった。やっぱりいまの社会の情勢を「階級」を抜きにして語るのは無理があるし、そこを抜きにしたままで連帯はできない。
それは生きることと密接に結びついていて、逃れることはできないから。
そしてこれはマジで個人的なものなのだが河野真太郎さんの著書はいつもテーマが興味深くて、今までも何冊か読んだけど難しくて眉間にしわを出現させながら読んでいたんだけど、今回はもともとがWeb連載だったということもあってか、すごく読みやすかった。
著作内で取り上げられていた映画もおもしろそうで、いくつか配信サービスで見られそうだったのでマイリストに追加しておいた。
イギリスにおいて排外主義者が労働者階級というイメージで語られがちだけれど、かつて労働者階級はコミュニティとしての機能も有しており、むしろ連帯していた歴史からなるというのは知らなかった。
日本の作品だと『あのこは貴族』と『プリテンド・ファーザー』を取り上げていて、そのどちらも私は知っていたこともあり、そこに描かれていた横たわる階級を横断するように連帯する内容はイメージがつきやすかったし、河野氏が提言した共通のなかの差異と差異のなかの共通こそが階級によって分断されがちな我々が連帯するための重要なポイントであるということは納得したし、やっぱり私はこの社会情勢のなかで連帯を諦めたくはない -
Posted by ブクログ
ネタバレ素晴らしかった。新書で泣いてしまったのは初めて。
最終章で出てきたライ麦畑で捕まえて、は筆者と同年代のわたしもだいたい同じ時期に読んで、とても強い印象を受けたことを思い出し、若かった当時感じていた不安や、不満、焦燥がいっきに蘇った。そしてずっと歳をとった今、社会のあり方に途方にくれ、イスラエルで拷問を受けているというガザに向かった若い彼女とその仲間たちに対して私は何が出来るのか…という無力感や申し訳なさで苦しくなった。
どんな社会があり得るのかを考えてみよう、という筆者の呼びかけに応えたいと思う。
しんどくなるニュースばかりで考えることをやめてしまいそうになるけど、諦めずに少しずつ。
アニメや純文学、映画、日記など様々な作品を読み解きながら、孤独の変遷と現在地、そしてこれからの可能性について著した本。
知っている作品、読んだことがある作品も多くとても面白かった。
孤独と女性の論点も、そう!まさに!と声がでた。読み進めながらも、でもそれって実家が太いからだよな、とか、男性だから言えることであって…とか思っていることがひとつひとつ、丁寧に回収されていった。目線がくまなく行き届いていて、読んでいて安心感があった。
p206から紹介されている二つの社会の物語の部分で、2本の映画が紹介され、孤立と孤独がそれぞれに解消され希望の光が少しだけさす、とあった部分、そこで語られる社会や人間関係のあり方は、この間読んだ津村紀久子のポースケという小説の中の人々のあり方に似ていて、それは小さなコミュニティの中で、特に女性たちがお互いにゆるく支え合って生きているあり様と同質なように思った。
お互いに干渉しない距離感で、尊重しあいながら、労りあいながら暮らしていく小さなコミュニティに、新しい社会のヒントがあるのかもしれない。 -
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第1章なぜアナ雪のエルサは、ひとりでハッピーとはならなかったのか。女性だからではないか。
第2章のロビンソン・クルーソーの孤独を発見したことで、居場所を見つけるという考え。
第3章ダンバー数では安定した関係を維持できる個体数(知り合い)の上限を平均150人と推定。
第4章現代人はフリーレンのように死を知らない子どもになりつつある。死別という喪失はますます個人的になものになっている。
現代では経験を共有できないと孤独を感じる。シェアすればするほど、伝わっているか確認できないため孤独になる。
第7章 ではどうすればいいのか。ベーシック・インカムを提案する。年齢、職の有無関係なく最低限の生活を保障する。
男性は孤独をまぎらわすために趣味に走ったりし、孤独のスイッチをオフにする。男性の孤独の一因は比較だった。
孤独について考えるには、社会に対する想像力を豊かにしなくてはならない。
それぞれの物語を大切にし、受け入れてくれるコミュニティがあり、それらが受け継がれていけばロンリネスはなくなるのではないか。 -
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専修大学で英文学専攻の教授による、孤独論。英文学を中心に人が孤独をどうとらえ、克服しようとしてきたのかを説く。
本を読んで、ロンリネスの解消方法について考えさせられた。自分としては、ロンリネスの解消には自分を知ることが必要なのではないかと思う。
世間の人が「あの人は孤独だ」と哀れみの目を向けていても、本人がそう感じていないのでなければその人はロンリネスではないと思う。貧困や死別といった、避けられない社会的な状況からくる孤独には効かないかもしれない。それでも、たとえば『夜と霧』に見られるように困難から意味を見出すことで解決の糸口はつかめないだろうか。そのためには自分に深く問い、自身の人生になにかを見出すことが、孤独解消の1つの解決方法かもしれない。 -
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『新しい声を聞くぼくたち』を読んだ。
強く心に残ったのは、男性性をめぐる物語がどうしても「個人の努力」に結びついてしまうという指摘。ケアできる男性や新しい男性性を獲得することが良いことのように語られても、それが結局は別の形のマッチョイズムになってしまうのではないか。そこに上手く馴染めず、ひとり袋小路で苦しむ人もいるかもしれない。そう思うと、胸が少しざわついた。
新自由主義のもとでは「ケア」や「連帯」でさえ個人の資質や努力として語られがちで、そこから外れる人を排除してしまう危うさもある。けれど、そうした視点を言葉にしてくれることで、自分が日々あたりまえに受け取っていた考え方を少し立ち止まって見直すことができた気がする。
男性から男性へのミソジニーや、「ケア=助力したいという男性的欲望」という指摘、「無口こそ男らしい」から「コミュ力が男らしい」へという移り変わりなど、ハッとさせられる発見もたくさんあった。読み終えて、知らなかったことに気づかせてもらえた。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「孤独」についての認識の再考を通して、国のあり方について考えを広げられるのですね。
いきなり脱線するけれども、そもそも、私たちは普段使っている言葉についてきちんと知らずに使っていると思い知らされる。語彙を増やすって、本をただ読んでいろいろな表現に触れることが大事だと思っていたけれど、著者が肯定的な孤独、否定的な孤独、物理的・精神的といったように、分解して孤独の概念を説明しているのを読みながら、ひとつの言葉や概念についてとことん考えてみることで、つまり他との比較を通して、その言葉がぴったりと使えるようになるのがとても大事なようにも思えてきた。外国語だったら意味を調べて言葉を的確に使えるようになろうとするけれど、母国語なんて本当に適当に使っている、というかあまり使えていないのかもしれない。
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孤独を救う出会いの物語
社会学や心理学が専門ではなくて、英米文学者である著者が分析する孤独についての考え方の変遷や課題。
物語では一般的に、孤独の解決方法として、ソウルメイト、運命の人を見つける、というのがある中で、それ以外の孤独の解決方法はあるのか、というのが一つの問題提起でした。
アナ雪と、『ジェイン・エア』、すこし特徴的な部分はありつつも、だれかとのつながりを見つけることを通して、否定的な「孤独」が解決する。
また、ジェインに象徴されていた、「浅い依存関係」と経済的自立。孤独と依存の関係性は、資本主義経済の発展、そしてジェンダーが大きな影響を与えていることが分かる。
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近代化と孤独
都市化は、物理的な孤立と精神的な孤独が全く異なるものであることを示した。「群衆の人」とも呼ばれる都会の匿名性は、今日の私たちにとっても身近で、たくさんの小説や物語のテーマにもなっていると思う。
おもしろかったのは、著者いわく、探偵小説というジャンルは、ロンリネスをもたらす匿名性を条件として生まれたのではないか、という点。
__探偵の行為とは、匿名で不可知の都会の他者を読み取って理解可能なものにすることです。それは、ロンリネスをもたらす原因となる「経験の共有の不可能性」を乗り越えようとする行為だとは言えないでしょうか。
たしかにロンドンの大都会でシャーロック・ホームズが活躍するイメージに一致しますね。
ソロー曰く、
__われわれは自分の部屋に引き籠っているときよりも、そとで人に立ちまじっているときのほうが、たいていはずっと孤独である。
ソローは自然を仲間と感じて森で生活を楽しまれていたようですが。
普段の私たちも大勢でいるときに居場所を感じられなかったり、いろいろな人とオンラインでつながっているのに寂しいと感じることは、自分がいてもいなくても変わらない、というような、自分の存在を確かめられないどころかもはや存在する意味がないんじゃないかと思わせるような環境だからなのかもしれない。
__たくさんいるのに、いや、たくさんいるからこそ、その人たちとは自分の経験が共有できないという事実が、人間は孤島であるという事実が、身に染みてくる。自分の存在の承認の手応えが得られない。
逆に一対一で人と会う時は、孤独ではないのは自分の存在が認識されている手応えが確実にあるからなのか。
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死別と孤独
死別の喪失からの孤独についても章を割いて説明されています。
死別の経験の個人化により、その喪失への悲嘆も強まっている。加えて、日常に死に触れる機会が減ったことからの「有限感覚の希薄化」、技術発展が叫ばれる中の人間の「全能感の巨大化」、死別への悲嘆を許される範囲を制度化することで生まれる「公認されない悲嘆」、といった議論にも触れられています。
そして、死ぬまでの40年間死別した夫を弔い続けたヴィクトリア女王や『葬送のフリーレン』を参照し、どのような形かで、以前のように喪失を共同化する、記憶を共有する新しい方法を見つけることが、ひとつ解決につながるのかも、ということも話されていました。
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孤独という特権?
バージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』の紹介とともに、ひきこもる自由について書かれていました。今私がこんなお正月に一人ゆっくり読書ができているのも、特権かもしれない、とすこしギクッとさせられる。
孤独が肯定的な場合の多くは、高所得男性のケースが多い、という点が挙げられている。
『小山さんノート』の東京のホームレス女性の小山さんは、すこし極端な事例だとは思いますが、今でも普通の家庭で女性は一人の時間を、空間を、持てないことが多いなーと思ったり。
そしてあえて男女で一般化して論じるならば、男性は競争社会の一員として生きていくことが期待されて、経済的自立が一人前だとされていたしても、避けられない孤独の問題がどこかしらある。
一人になる時間や空間を得る自由を持つことが孤独の解消につながらないのは明らか。
一方、経済的な自立が社会的に阻まれていることが原因で、性別の違いにより一人になれる時間や空間が持てないのは、孤独が特権なのではなく、男女不平等という人権の話だと思いました。
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みんなのための自分ひとりの部屋
著者は、『ライ麦畑でつかまえて』に深い感銘を受けたことを最後に紹介されています。
他者の助けになることを想像することによってこそ自分を救っている、主人公ホールデン。
__それは、彼がそのような社会を、つまり彼自身のような人間が排除されない社会を想像し得ているからです。そして、その社会の作り手に彼自身がなるーそれが言い過ぎなら、その手助けをするー 、という想像こそが、孤独に苦しむ彼をもっとも深い意味で救っているのです。ホールデンは、誰かひとりのための「自分ひとりの部屋」ではなく、みんなのための「自分ひとりの部屋」を、前章の小山さんが独り亡くなるのではなく、かといって無理やりに人との関わりを持たされるわけでもない、独りで安心して創作に励めたかもしれない部屋を作る人になりたかった。
個人的に思ったのは、人間としての対等性と相互依存の認識が大事なのではないかということでした。
1人で生きるか、みんなで生きるかの二項対立ではなくて、だれもが他の人間と新しいつながりを作ることができる機会。そしてそれは、個々人が対等な人間として尊重されることが欠かせないと思いました。人とつながる際には、女性だから、男性だから、いくらお金を持っているか、というフィルターを限りなくなくしていきたい。
また、自分と向き合える、自分と孤独に対話することで、自分がどう社会に応えていくのかを深めていく、ということにもつながっていると思う。途中、補論で、認知行動療法に触れられていました。今日の孤独の悩みへの対処法として、本当に大切な人間関係を見つめ直してそれを深め、重要ではない人間関係を切っていく。そのために、具体的には、日頃自分の心の中で起きていることを自分でメモし、自分自身の心で起こっていることにしっかり向き合う、これが最終的に、自分にとって大切な人間関係を選ぶことにつながる、という専門家の助言の紹介。
切っても切れない関係にある私たち。孤独を感じるならば、自分とのつながりにまず立ち戻ろうと思う。 -
Posted by ブクログ
一人で行動するのが好きなので孤独に関して書かれた本には興味があった
孤独にはロンリネスとソリチュードがあり、その違いや変遷を歴史を振り返りながら映画や文学作品で孤独はどのように取り扱われてきたかを紐解いている
またソリチュードでいられることはある種特権的なものであることにも言及しており、たしかにそういう部分もあると納得をした。一人でいられる環境というものは特に女性は得ること自体が難しい
また孤独でいることを許容する社会とは誰かを排除するような社会ではなくあらゆる人を包摂する社会であるべきだということが誰しも孤独になることができて、なおかつ孤独に苦しまない社会であること
そのためにはいまある社会以外の社会の状況があることに想像を巡らせることであると河野氏は書いている
その主張も納得がいくものだったし、やはり私も個人で生きていくことができる社会が望ましいと思う -
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序章
鈴木敏夫 スタジオジプリプロデューサー
鈴木敏夫は「風の谷のナウシカ」の制作背景やそのテーマについて語っている。彼は、作品が発表された当時の社会的・環境的状況がどのように影響を与えたのかを考察し、ナウシカというキャラクターが持つ強い意志や優しさが、現代においても重要なメッセージを持っていることを強調している。
風の谷のナウシカの題材は『新諸国物語』(NHK ドラマ1952年)。
ナウシカが旅をして、見聞きしたものによって、読者が世界の秘密を知っていく。宮崎駿は「勧善懲悪」が好きで、それが「自然を守る人がいいひとで、自然を破壊するのは悪人」と言う物語にした。
赤坂憲雄の『ナウシカ考 風の谷の黙示録』を読み、宮崎駿は「おもしろいね。俺ってこんなもの書いていたんだ」と言った。他者からの深い考察が、作者に新たな気づきを与える。
映画では「腐海は自然の象徴で、腐海こそが人類を救う」と謳ったのに、第7巻で「腐海や王蟲が、実は人間の文明が作り上げた人工的な生態系だった」ことが明らかになった。物語全体の構図がまるで変わってしまった。
ナウシカは、本来、風の谷の500人のために闘った。そして、もののけ姫のアシタカは「個人的な理由で戦う主人公」となった。宮崎駿は、どんどんと変わっていく。
杏 俳優
時間の経過とともに死生観や価値観が大きく変わる。そういう時代に生きている。ナウシカは「母は決して癒されない悲しみがあることを教えてくれましたが、私を愛さなかった」という。母は絶対的な存在でなくていい。巨神兵は、ナウシカを母親と思い込んだ。そして王蟲はナウシカを守って死んだ後、「母は私を愛さなかったけれど、オーマは私を愛してくれた」とナウシカはいう。母と娘の関係が全く違うものがある。
叶精二 映像研究家
アニメーションが前提でない『風の谷のナウシカ』、コミック版。なるほど。
連載中に、東西冷戦の終結、ユーゴースラビアの内戦など衝撃的な事件があり、影響を受けている。
小泉悠 軍事アナリスト
現実のウクライナとナウシカの世界、戦争の「ネイチャー」は変わらない。核戦争による世界の破滅は、ウクライナでは現実のものになるかもしれない。戦争を経験した世代、戦争を経験した世代を親に持った世代、戦争を知らない世代。世代によって、大きく戦争の捉え方が違ってくる。
『宇宙戦艦ヤマト』『ウルトラマン』は、作り手の戦争体験が塗り込められている。
庵野秀明は、『宇宙戦艦ヤマト』『連合艦隊』に影響を受け、『エヴァンゲリオン』を作っている。
戦後の日本では、戦争の悲惨さや反戦が訴えられたが、戦争そのものを真正面から描きにくかった。それがサブカルチャーの一部がになった。日本人には「敗戦で自分たちの国は、一度滅びてしまった」という感覚がある。
ナウシカによって、「滅びはやってくる可能性がある」「文明が滅びた後はこうなる」を知らされる。小泉は、戦争が、悲惨であるにもかかわらずかっこよさがある。「人間は本来、こんなひどいことをするはずはない」と小泉は言いたくもないという。宮崎駿は、兵器や飛行機の時として持つエロティックな美しさに魅了されているところがある。戦争の実相は、巨大な悲惨が人々を襲い、世界が破滅の淵に追いやられていくこともある。
川上弘美 作家
ナウシカは不思議な人。自分を傷つけるクシャナ、敵国の人々、深井の動植物など自分の周囲に来たものを全部守ろうとする。ナウシカは、物語の中でみんなを繋ぐ絆になっている。ちょっとした破綻、なんでこんな文章がという驚きや作者自体が制御できないものが雑音としてあっても、ノイズがあることは避けられない。それも受け入れることだ。
精一杯生きること、自らの死を認めることは、両立する。原発の使用済み核燃料は10万年も危険な放射能を出し続ける。その間、人類が確実に存続し、責任もって保管し続けられると考えること自体がおかしい。「滅びはあり得ない」と信じ込もうとしているのではないか。
ボーヴォワールは「人おのおのは死にますが、人類は死ぬべきものではないことを我々は知っています」というが。川上弘美は「人類の未来を自然に委ねる」という選択をする。確かに、『風の谷のナウシカ』は、単純な物差しで測れるようなシロモノではないのだね。
福岡伸一 生物学者
老いるからこそ、死ぬからこそ人は美しい。環境の全体のバランスを考え、人間に害を及ぼしかねない存在とも共存していく。ナウシカは人類のことを「大地を傷つけ、奪い取り、汚し、焼き尽くすだけの、もっとも醜いいきもの」としている。
竹宮恵子 漫画家
物語が始まった時「これから何かが違う世界が始まるんだ」ナウシカはあまり言葉で説明しない。ナウシカの世界でも、たとえ人工的に作られたものでも、生命は常に変化し、創造主の意図を超えていくとして描かれた。素晴らしきディストピアの拒絶があり、それでも自分の意思で生きようとする。
鈴木涼美 文筆家
『娼婦の本棚』を書いた著者は、夜の街=腐海に生きている。腐海に生きる蟲たちは美しい。闇があって光がある。悪の方に魅力を感じる。ナウシカは生に執着せず、死の恐怖がない。
河野真太郎 英文学者
ナウシカは戦う力と、腐海の真実に気づく科学的知識を持ち、包み込むような母性とカリスマ性のない混ぜになった女性。族長の父は「男であったら何もいうことはない」という。
クシャナは、母親が、王家の陰謀の犠牲、家父長制の犠牲になって心を病んだことへの怒りを動機に、父王や兄王子たちと戦ってきた人。女性性を捨て、男性性を獲得しなければならなかった。
ナウシカの物語は、「自然を守ればそれでいい」という考え方とは、異なる思想。
大木毅 現代史家
戦争では多くの住民が飢えや病気で死んでいく。ナウシカは「なんという戦争、いかがわしい正義すらかけらもないなんて」という。戦争はそのような残虐性を持っている。
赤坂憲雄 民俗学者
ゴジラは1954年に発表された。ゴジラの映画には、科学やテクノロジーへの信頼がある。ゴジラを最終的に葬るのは、一人の科学者の自己犠牲。それは宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』の主人公の姿と重なる。ナウシカは、最先端テクノロジーが暴走し、地球環境を破壊してから1000年後の世界。科学や文明への信頼が裏切られていく時代を予感しながら作られている。「何が起こるか分からない」という不気味さ、不安の中に置かれている。ナウシカの世界が、とてもリアルに感じられる時代へ運ばれつつある。
ナウシカの物語は、宮崎さんの巨大な無意識が充満している。それが最大の魅力。宮崎駿はいう「こういうふうにしたい、じゃなくて、こうなっちゃう、ものを作る主体というより、ただ後ろ方くっついていっただけ」
権力に善意は期待できず、権力そのものを無化する仕掛けを作り出すしかないという作品。
王という存在は必然ではない。首長というのは、部族の人々に隷属を求める権力ではなく、むしろ、言葉によって自分の権力を絶えず無化していくことを求められ、それを理念や義務として積極的に引き受ける。ナウシカは、人々に命令を下すことはなく、権力を持たず、深い思索に裏打ちされた言葉だけで人々を励まし、なだめ、導き、ひたすら調停者としての役割を果たそうとする。宮崎駿は「虫愛づる君」に、自らの知性と探究心で腐海の謎を解き明かす役割を与えた。
民主主義は、権力の毒や腐敗を知る人が作り出した暫定的なシステムである。愚かにして美しい人間を完全にコントロールはできない。ナウシカの物語は、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニー(多声音楽)が本質なのだ。いやはや。ナウシカを読み解く力の深いことよ。
もう、ナウシカの物語は、実に多面的な見方ができる。いろんな問いかけがあり、考えるきっかけになるいい本である。なぜか、頭の中の芯を熱くする。